菊
ふと鼻先を通り過ぎた香りに、何故か一瞬、鼓動が跳ねた。
目を上げると、少し先の花屋の店先に、黄金色の花々。
それらを認めた詩紋はくすり、と思わず笑みを零した。
仄かな香りに導かれるように、花屋の店先へと歩んでいく。
涼やかで清々しい香りに胸が騒いだのは他でもない、それがあのひとを思い起こさせるものだったからだ。
懐かしいあの異世界で、あのひとが好んで身に纏っていた香り。
菊花の香。
自分も好きだった香り。
今思えば、あのひとが身に纏っていた香りだから、好きだったのかもしれない。
あのひとの清浄で高潔な雰囲気をそのまま表したかのような香り。
何処か懐かしい気分になって、ひと束買って帰ることにする。
頬を染めた若い女性店員から、笑顔で買った花を受け取ったとき、またひとつ思い付く。
「あ、そうだ」
「これは、何だ?」
夕食の席についた泰明が食卓に並べられた小皿のひとつを覗き込んで首を傾げる。
「菊のおひたしですよ」
「菊?」
目を丸くして、泰明は食卓に飾られた菊の花を見上げる。
「…と言っても、この菊じゃなくて別に買った食用菊なんですが」
ちょっと苦笑して言い添えるが、泰明にはそんな違いは分からない。
「菊も食べられるのか…」
何処か感心したように言う泰明の様子が幼く見えて微笑んでしまう。
「美味しいですよ、さあどうぞ」
促されて、泰明は箸を取った。
「…美味いな」
菊のおひたしを口に含み、しっかりと噛んで呑みこんでから、目を細めて言う。
「良かった。もっとどうぞ」
詩紋の言葉に笑顔で頷いて、また、菊の花を口に運ぶ。
あれから数年が経ち、泰明が菊花の香を身に付けることはなくなったが、彼の清浄で高潔な雰囲気は変わらない。
それでいながら、仄かな艶を孕む清らかな美しさも。
抱き締めると、菊の花に似た、彼自身の清しくも甘い香りがするのも。
菊の花のような彼が、菊の花を食べているのは、なんとも不思議で、同時に似つかわしい姿だ。
そんなことを思い巡らせつつ、詩紋もまた、菊の花を口に運ぶ。
口の中に広がる菊の仄かな香りと甘味に、
(香りだけじゃなくて、この味も泰明さんに似ているな)
と、埒もないことを考えた。
菊の花言葉:清浄・高潔
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