神社の境内は静かだった。

 見頃を迎えた萩の花が美しい。

 早朝ということもあって、参拝がてら花を愛でに来る者はいない。

 咲き乱れる可憐な花を眺めているのは、今は永泉のみだ。

 だが、永泉はただ萩を眺めに来たのではない。

 かといって、僧籍の身に相応しく、寺の使いでやってきた訳でもない。

 ひとを待っている。

 そのひとを想うだけで、心が浮き立ち、全てが美しく見える。

 目にする美しいもの全てに、かのひとの面影を重ねてしまい、その度に、苦しいほどに胸が熱くなる。

 今も、目の前の花の佇まいに彼の可憐さを想い、蝶のような花の形に、彼の軽やかな身ごなしを想う。

 知らず微笑んでしまいながら、花に触れた永泉は、しかし、ふと、表情を曇らせた。

 彼と共にいる時間は、例えようもなく幸せなものだけれど…

 果たして自分にそんな幸せは許されるのだろうか。

 自分は今だ、僧籍にある身であるのに、ここまで強い想いに捕らわれていいのだろうか。

 彼への想いに身を投じるなら、還俗した方が良いことは分かっている。

 しかし、仏に帰依したいと想う気持ちも何処かにある。

 結局、どちらも選べないままの状態でいる自分。

 自分は良くても、このままでは彼を幸せにすることなど出来ないのではないだろうか。

 いつの間にか、罪悪感にも似た思いに捕らわれていた永泉は、背後に近付く気配に気付くのが遅れた。

「永泉」

 凛とした声に、急に呼び掛けられて弾かれるように振り向くと、待ち人である彼がいた。

 咲き乱れる萩を背後に従えた彼、泰明の姿は、まるで花精のようだった。

「すまない。待たせただろうか」

「いいえ」

 出会った頃より、大分柔らかくなった泰明の言葉に、笑顔で首を振る。

 行きましょう、と促して、神社の出口へと足を向ける永泉の様子に、泰明は僅かに細い首を傾げた。

「何があった?」

 真っ直ぐに訊かれて、思わず苦笑めいた笑みが零れる。

 初めはこの遠慮のない物言いを恐ろしくも感じていたのだが、今となっては清々しく愛おしい。

「いいえ。詰まらぬ物思いに捕らわれていただけですから」

 自分を見詰める澄んだ色違いの瞳に、気遣う色が滲む。

 それに真っ直ぐ微笑み返して、永泉はきっぱりと言った。

「でも、泰明殿が来て下さったおかげで、気分が晴れました」

「…私が来ないかもしれないと心配していたのか?」

 私は約束は守る、と見当違いのことを少々拗ねたように言う泰明が可愛らしく見えて、また微笑む。

「ええ、そうですね。すみません、泰明殿」

「謝ることではない」

 すぐに表情を改めた泰明は颯爽と身を翻す。

「行くぞ」

 風を孕んで拡がる袖が蝶の羽ばたきのようで、永泉はまた、萩の花と泰明とを重ねる。

 自分がこれからどうするのか、分からない。

 どちらかを選んでも、選ばなくとも、きっと自分は悩み、罪悪感を抱かずにはいられないだろう。

 しかし、泰明がいれば、そんな物思いは溶けて消える。

 今も、彼が傍らにいてくれるだけで、こんな自分でも前向きになれるのだから。

 だからきっと、自分は泰明を選ぶだろう。

 永泉は手を伸ばして、そっと花を包むように彼の細い手を握った。

 

 萩の花言葉:物思い・前向きな恋(矛盾してないか?/笑)


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