夕影 (中編)
稜線を鮮やかに浮き立たせながら、陽が山陰に落ちていく。
永泉は桂川の辺に佇み、ぼんやりと沈む陽と茜色に染まる空を眺めていた。
脳裏に繰り返し甦るのは、泰明と鷹通の姿ばかり。
泰明のくつろいだ、花のような笑顔。
キリ、と胸が痛んで、永泉は思わず眉根を寄せる。
じわりと拡がる痛みは、黒い澱となって心の奥底に沈んでいく。
少しずつ、少しずつ。
それが胸いっぱいを埋め尽くすように感じた、そのとき。
何時の間にか、視線が落ちていたその先…流れる川面に不自然な動きが生まれる。
辺に近い水面に幾つもの泡が現れていた。
流水音の狭間に、こぽこぽと音を立てて生まれる気泡。
それは瞬く間に大きくなり、やがて大きな魚が自ら跳ね上がるように、水飛沫を上げながら立ち上がった。
「ッ?!」
永泉は目を見開いた。
現れたのは、凝った闇だった。
呆然と佇む永泉を呑み込もうと、闇は迫ってくる。
防御する間もなく、捕われるかと永泉が覚悟をした瞬間。
「浄!」
澄んだ声音が闇を切り裂いた。
凝った闇は、泥のような飛沫を振り撒きながら弾ける。
はっとして振り向いた永泉の目が、駆け寄ってくる、背は高いが華奢な人影を捉える。
「泰…!」
名を呼ぶ前に、細い指先にぐいと引かれて、永泉はよろめく。
そんな彼を背に庇うようにして、泰明は依然として眼前にある闇へと向き直った。
ようやく己の状況を理解した永泉の顔色が蒼白となる。
「泰明殿!いけません!!」
咄嗟に泰明の細い手首を掴み、引き寄せながら入れ替わるように彼の前へと出た。
その勢いのまま、立ち塞がる闇の凝りへと自ら飛び込むように、倒れ込んだ。
「永泉!!」
泰明の切羽詰った呼び掛けが聞こえた。
が、今度ばかりは避けることは不可能だった。
全身が泥のような闇に包まれる。
五感が全て塞がれるような感覚。
やがて、耳の奥に忍び入るように小さな囁きが聞こえて来た。
恨メシイ…妬マシイ……
苦シイ……
何故……私ダケガ……
恐らく、この闇を成す幾つもの怨霊たちの声だ。
幾つもの嘆きの声。
幾つもの恨みの声。
それらひとつひとつは、疲れ果てたように力がない。
だが、それらが数え切れないほど積み重なって、人ひとりを呑み込むほどの脅威となっている。
身動きが取れない。
やがて、耳に忍び入ってきた囁きに、永泉はぎくりとする。
コレホド想ッテイルノニ…
何故…私ダケノモノニナラヌノカ……
愛シイ…愛シイ…愛シイ………
ソシテ…
(憎い…?)
ふと、頭に浮かんだ言葉に、永泉は身を凍らせた。
この囁きを齎した闇の欠片が何処から生まれたのか、自分は知っている。
身動きの取れぬ永泉に、何処からかまた、別の囁きが聞こえてきた。
…憎カロウ…?ソレデモ…欲シカロウ…?
ナラバ…奪ウガ良イ……
心ノママニ…己ノ欲スルガママニ……
全テ…壊シテシマエバ良イ…
そこで、永泉は我に返った。
(違う。この闇は……)
反応を見せない永泉に、件の囁きは僅かに大きくなる。
何ヲ迷ウ…?サァ…サア…!
闇に誘い込もうとする囁きに、ようやく永泉は口を開いた。
「…侮らないで下さい」
静かに、しかし、きっぱりと言い放ち、数珠を持った両手を合わせる。
そうして、心を澄ますと、低いが澄んだ声音が耳に流れ込んできた。
これは泰明が呪を唱える声。
それが、澱んだ囁きを打ち消し、胸の奥に蟠っていた闇をも清めていく気がした。
永泉は小さく息を吸うと、清らかな声音に唱和し始めた。
身を包む闇が動揺するように震える。
再び、永泉を引き込もうと囁き掛けて来るが、最早、永泉は聞く耳を持たなかった。
今、この耳が捉えるのは、愛しいひとの声だけ。
「…ッ!」
唐突に眩い光が目を刺し、永泉は思わず片手で目を覆う。
僅かに耳に届いた声なき悲鳴。
恐る恐る手を下ろし、周囲を見渡すと、そこは元居た桂川の辺だった。
既に陽は落ち、藍色の空には星が瞬き始めている。
さらさらと流れる川の音。
そして、目の前には…
「泰明殿…」
「永泉、大事無いか?」
薄暗がりの中、白く浮かび上がるような泰明の麗姿に、一瞬見惚れる。
返答がないことに、泰明が訝しげに柳眉を顰める。
「永泉?」
二度目の呼び掛けで永泉はやっと我に返った。
「す、すみません!」
「謝らずとも良い。問題ないか?」
「はい!」
勢い良く頷いてから、永泉はゆっくりと微笑んだ。
「有難う御座います、泰明殿。お蔭で助かりました」
永泉の言葉に、泰明は首を振る。
「怨霊を祓ったのは、お前だ。私は殆ど何も出来なかった」
「いいえ」
きっぱりとした言葉に、泰明は色違いの瞳を丸くする。
「貴方が居てくれたからこそ、私は闇に呑み込まれずに済んだのです。ですから…お礼を言わせて下さい」
そう言って、永泉は優しい微笑を深くする。
泰明は首を傾げて、そんな永泉を見返した。
「良く分からないが…それで、お前の気が済むのなら、良い」
言って、花弁の唇を綻ばせた。
淡いが、この上なく清らかで美しい笑み。
そこには、泰明が永泉に寄せている無垢な信頼が窺えた。
もしも、永泉があの闇に心身とも完全に呑み込まれてしまったら、今の泰明の笑顔はなかっただろう。
その笑みを失わずに済んで良かったと思う。
その笑みを守る為なら、どんな苦しみも厭いはしない。
だから、全てを壊すよう誘い掛けられたとき、「侮るな」と言ったのだ。
だが…
永泉は今は穏やかに流れる川面へともう一度視線を向ける。
昼と夜の狭間、黄昏時の怪異。
きっと、傍らの無垢なひとは、あの闇を作り出したのは、怨霊であると思っていることだろう。
その怨霊を祓ったからには、再び現れることはない、と。
しかし、あの闇の欠片は、今もこの胸の内に潜んでいる。
時にそれは、どんなに希っても、想うひとを得られぬ苦しみに悲鳴を上げ、外へと噴き出す。
「永泉?」
澄んだ声が名を呼ぶ。
永泉はゆっくりと傍らへと視線を戻した。
清かな星灯りに浮かぶ、声音と同じく透明な美貌。
そう。
叶わぬ想いに耐えられず、幾度己の闇に呑み込まれそうになったとしても。
その度毎にこの透明な眼差しが、愚かな自分を引き戻してくれる。
だから…大丈夫なのだ。
永泉は穏やかに泰明に微笑み掛けた。
「帰りましょう、泰明殿」
言いながら、手を差し出す。
泰明は一瞬、きょとんとした顔をするが、すぐにその意図を悟り、差し出された手に己の白い手を乗せた。
相変わらず華奢な泰明の手を包むように握り、柔らかく引きながら、永泉は泰明を誘って歩き出す。
空には、月が昇り始めていた。