夕影(後編)
翌日、内裏に所用のあった永泉は、帝への拝謁の後、昼頃には内裏を後にした。
公卿の出入りの多い陽明門を避け、二つ向こうの郁芳(ゆうほう)門から外へ出ることにする。
ちょうど通常勤務の終わる時間帯である。
築地塀に沿って、歩いていくと、数人の官人たちと擦れ違った。
皆、永泉に気が付くと、恐縮して腰を折る。
そのように振舞わせてしまうのが、却って申し訳ない。
もう少し時間をずらすべきだったかと悔やむが、今更だ。
何となく肩身の狭い思いで歩んでいると、やっと、門が見えてきた。
そこで、永泉は立ち竦んでしまう。
門脇に植えられた木立、その木陰に鷹通が佇んでいる。
永泉と視線が合うと、丁寧に会釈をした。
ゆっくりとした足取りでこちらに近付いてくるのに応じて、永泉もまた、会釈を返してから、歩き出した。
「お帰りですか?」
「ええ。鷹通殿も?」
当たり障りのないだろう問いを投げ掛けると、鷹通はただの微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。
「私は…待ち合わせです」
「あっ……そうですか…」
永泉は気まずい思いで黙り込む。
待ち合わせの相手が誰かは、訊かずとも分かった。
「あの…それで、私に何か…?」
「ええ。昨日は大変なことがおありだったそうですね」
「…御存知なのですか?」
少々驚いて訊ねると、鷹通は穏やかに頷いた。
「ええ、詳細までは存じ上げませんが。昨日は夕刻から、私の邸に、泰明殿をお招きしていたものですから」
「え…?」
永泉は思わず絶句する。
その表情から、何を察したのか、鷹通は今度ははっきりと苦笑した。
「共に食事をした後、囲碁などに付き合って頂いたのです」
「そ、そうですか…」
動揺を顔に出してしまったことを恥じて、永泉は俯く。
鷹通が泰明を自邸に招いたり、泰明がその誘いに応じたりすることは、ふたりの自由なのだ。
それなのに、このように動揺を露にするなど…身勝手も甚だしい。
などと、己を責めていた永泉は、途中ではたと気付く。
昨日、泰明は一体何処から駆け付けてくれたのだろう。
鷹通がある程度事情を心得ているということは…
「囲碁の途中で、泰明殿が突然、永泉が危ないと仰って、邸を飛び出してしまわれて…」
「す、すみません…」
「永泉様が謝られることではありません。泰明殿が貴方の元に向かわれたのは、あの方自身の意思だったのですから。
そのことに私が異論を唱えることなどありえません」
「あ…そうですね、確かに……」
鷹通の口調は何処までも穏やかだったが、永泉は居た堪れない。
しかし、
「大丈夫でしたか?」
労わるような声音で問われ、ようやく顔を上げた。
「はい…」
「それは良かった」
「泰明殿のお蔭です」
「永泉様御自身のお力もあるでしょう」
「お気遣い有難う御座います…」
そこで、永泉はようやく微笑むことが出来た。
そんな永泉に、鷹通は微笑み返す。
「昨日、囲碁の対局が打ち切りになってしまいましたからね、今日、仕切りなおすことになったのです」
「そうでしたか」
今度は動揺せずに相槌を打つことが出来て、永泉は安堵する。
ふと、向き合う鷹通の視線が、永泉の背後に向けられた。
「ああ、いらっしゃいましたね」
眼鏡の奥の瞳が、更に優しく和んだ。
振り向かずとも、誰が来たのか分かる。
そっと、振り向くと、泰明が颯爽とした足取りでやって来るところだった。
「鷹通。それに永泉もいたか」
ふたりの姿を認めると、僅かに足取りを速めて、近付いてくる。
歩みにつれて、揺れる髪が真昼の明るい陽射しを浴びて、煌く。
その歩みは無造作と言っても良いほどなのに、決して粗雑ではない。
むしろ、風に花弁を揺らす花のような風情がある。
泰明ならではの気品。
擦れ違う官人たちが、はっとしたように振り向いている。
泰明はそれらの視線を超然と受け流しているように見える。
が、その実、己に向けられる憧憬の眼差しに、露ほども気付いていないのだ。
永泉がつい、笑みを零すと、鷹通と目が合った。
鷹通もまた、小さく笑う。
泰明はきょとんとした様子で細い首を傾げた。
無垢なひとだと、改めて思う。
そこで、永泉ははたと気付く。
これから、ふたりは約束があるのだから、邪魔をしてはいけない。
「で、では、私はこれで……」
「もう帰るのか?」
「えっ?」
何処か縋るような声音に振り向けば、しゅんとした様子で泰明が永泉を見詰めている。
いたいけな子猫の眼差しに晒され、永泉はその場で凍り付いてしまう。
すると、脇から鷹通が穏やかに永泉に問い掛けた。
「永泉様はこれから何か予定はおありですか?」
「え…いえ、特には。このまま寺に戻ろうと思っておりました」
「でしたら、永泉様も泰明殿とご一緒に私の邸にいらっしゃいませんか?」
「えっ?…でも…あの…私などがお邪魔しては、却ってご迷惑では…?」
思わぬ誘いに、永泉はしどろもどろになってしまう。
「そのようなことはありませんよ。泰明殿も、永泉様もいらした方が、愉しいでしょう?」
鷹通の確認するような問いに、泰明はこっくりと頷く。
「如何でしょう?永泉様。宜しければ是非」
言葉にしない鷹通の気遣いが分かるだけに、永泉は一層躊躇ってしまう。
そんな永泉の背を押したのは、やはり、泰明であった。
「永泉、行こう。二人より三人の方が、私は愉しい。嬉しい。…駄目だろうか?」
そう言って、心許無げに首を傾げられては、一溜まりもない。
「いいえ、そのようなことは…!……それでは…お邪魔させていただきます」
散々迷いながらも、ようやく永泉が応えると、泰明の表情が、ぱあっと明るく華やいだ。
鷹通もまた、穏やかに微笑み、
「それでは、参りましょうか」
泰明と永泉を誘って歩き出す。
泰明を間に挟む形で、三人並んで郁芳門から出る。
「永泉も一緒に囲碁をしよう」
東大宮大路を歩きながら、泰明は無邪気に強請る。
「そうですね…私相手では手応えがないかもしれませんが…囲碁の対局が落ち着いた後には、宜しければ、私の笛をお聞き下さい」
「それは素晴らしいですね。是非お願い致します」
「はい」
「愉しみだ」
親しい者にはそうと分かる嬉しそうな口調で言った泰明は、不意に、両腕を伸ばした。
「えっ…?」
「泰明殿?」
右手で永泉の左手を、左手で鷹通の右手を掴み、細い指を絡めて握る。
ふたりの内心の動揺には一向気付くことなく、泰明は淡々と言う。
「以前、神子に教えて貰ったのだ。一緒にいて嬉しい人たちと手を繋ぐと、もっと愉しくなるのだ、と」
そうして、永泉と鷹通の顔を交互に見て、笑う。
「やはり、神子の言った通りだった」
何処か得意げなその口調。
信頼する大人の言を疑うことなく受け入れる子どものような純粋さ。
永泉と鷹通はそっと顔を見合わせた。
ふたりとも、幾ら愛しい相手とはいえ、手を繋いで歩くことに、羞恥を覚えぬほど、子どもではない。
何より、興味本位の視線に晒されているのが、居た堪れない。
浮世離れした美貌の泰明を始めとして、永泉も鷹通も、それぞれ秀でた容姿である。
彼らが三人並んで歩いているだけでも衆目を集めるというのに、更に注目の的となってしまっているのだ。
しかし、顔を見合わせた永泉と鷹通は、恥じらいを押しやった。
「そうですね…」
「愉しいですね、泰明殿」
ふたりの優しい笑みに包まれて、泰明の笑みも更に綻ぶ。
それはまるで清らかな花蕾が綻ぶように。
未だ無垢な花が、艶やかに花開くのは何時のことだろうか。
その時が来るのが待ち遠しいような、不安なような、相反する気持ちに心は揺れる。
(けれど…)
今はこのままで……
泰明を挟んで反対側にいる鷹通もきっとそう思っているだろう。
指に絡む泰明の細い指の淡い温もりに愛しさを募らせながら、永泉は眩しい青空を見上げた。
今日もまた、美しい夕暮れが見られるだろう。