夕影 (前編)
ふとした何気ない光景であったのかもしれない。
しかし、それは脳裏に焼き付き、凝った闇となって胸の奥に滑り落ちる。
止めることは出来ない。
それは何よりも愛しいひとが齎すものだから。
今日も暑い。
焼け付くように苛烈な陽射しを避けるように、永泉は手を翳し、頭上を見上げる。
太陽は煌煌と眩しく輝いている。
その力強さが少々羨ましくも思えた。
一つ小さく息を吐いてから、永泉は再び歩き出す。
やがて、桂川が見えてくる。
流れる水音が、ささやかな涼を運んできて、永泉は先ほどとは違う溜息を吐いた。
ふと、その目が陽に鮮やかに輝く翡翠色の絹糸を捉える。
「泰…」
思わず零れた呼び掛けが、相手に届くほんの手前。
それは虚しく空に溶ける。
愛しいひとは、今日も清らかに美しい。
明るい陽の下で、その美貌と肌の白さが一層際立つ。
思わず息を潜めて魅入ってしまうほどの麗しさ。
が、永泉が呼び掛けるのを躊躇ったのは、そのひと…泰明の近寄り難さの所為ではない。
その傍らに佇む人がいたからだ。
永泉も良く知っている人物だった。
川辺に佇むふたりは、愉しげに言葉を交わしていた。
一見、泰明の表情は常と変わりないように見える。
しかし、澄んだ瞳は興味深げな光を宿して煌き、花弁の唇は僅かに綻んでいる。
控え目な、だが、くつろいだ表情は可憐にすら見えた。
誰もが心を奪われ、虜にせずにはいられないほどの…
が、幸か不幸か、泰明のそんな表情を眼にすることが出来る者は、ほんの一握りである。
自分がその一握りに含まれることは、永泉にとって、これ以上ない僥倖であった。
恐らく、今、泰明が見詰める相手も同じように思っているだろう。
そう容易に察せられるほど、彼は常の穏やかな表情を更に和ませ、蕩けそうに優しく微笑んでいる。
…そうだ。
泰明が無邪気な信頼を寄せるのは、一握りではあっても、ただ一人ではない。
…自分だけではないのだ。
ふと、脳裏を掠めた思いに、永泉の足は凍りついたように動かなくなった。
ふたりがどのような言葉を交わしているのかは、分からない。
しかし、それが他愛のない会話だとしても、永泉には間に割って入ることなど到底出来なかった。
逃げるように身を翻す。
こんなときにだけ素早く動くことの出来る自分が情けなかった。
こんなことで思い煩う自分に嫌気が差した。
ふわりと長い睫を震わせて泰明が瞬きをした。
「泰明殿?」
不意に、背後を振り向き、ついには身体ごと後ろを向いた泰明に、鷹通は訝しげに問い掛ける。
口を噤み、彼方を見晴るかすような眼差しで、辺りを窺っていた泰明は、やがて、首を傾げて鷹通を見上げた。
鷹通以上に訝しげな表情で、呟くように言う。
「先程、妙な気配がした」
「妙な気配?」
無垢で大きな瞳に心を奪われそうになりながらも、鷹通は気になる言葉を拾い上げた。
泰明は頷き、再び確かめるように辺りを見回す。
「同時に、永泉の気配も感じた。…ような気がする」
「永泉様の?」
鷹通は穏やかな茶色い瞳を驚きに瞠る。
永泉の名が出されたことに驚いた訳ではない。
「珍しいですね。貴方が不確かなことを口になさるとは…」
鷹通の言葉に、泰明は僅かに細い眉尻を下げた。
「私の力が弱まっているということか…?」
「いえ!そうではありませんよ。現に私は泰明殿に言われるまで、どのような気配も感じずにいたのですから…
泰明殿の感覚が鋭敏でいらしたからこそ、明確ではない気配も感じ取ることが出来たのでしょう」
「そうだろうか」
「そうですよ」
強く請合うと、泰明の愁眉が開いた。
鷹通は安堵の息を吐き、微笑む。
「すみません。言葉が足りませんでしたね」
「何故、謝る?お前が謝ることではない」
「いいえ。貴方にそのような悲しい顔をさせたのですから。それだけでも謝罪に価します」
泰明は大きな瞳を丸くし、無邪気に笑った。
「永泉と同じようなことを言うのだな。二人とも大袈裟だ」
「そうですか?」
大袈裟なつもりはないのだが。
引き合いに出された永泉も、そんなつもりはない筈だが、その真意は、当の泰明にはなかなか伝わらない。
「…しかし、妙な気配と、永泉様の気配が同時に感じられたと言うのは、気になりますね……」
口調を変えた鷹通の言葉に、泰明もまた、笑みを消して頷く。
「何か良からぬものに、魅入られていらっしゃらなければ宜しいのですが…」
鷹通がそう言うと、泰明は気遣わしげな表情を滲ませながらも、きっぱりと言った。
「例え、そのようなことになったとしても、永泉ならば、取り憑かれはすまい」
「信じてらっしゃるのですね」
「無論だ。お前はそうではないのか?」
不思議そうに細い首を傾げられ、鷹通は微苦笑する。
「そうですね…」
確かに、信じてはいる。
しかし、泰明が抱いている無垢な信頼とは少し違う。
泰明に対して、鷹通と同じ想いを抱いている永泉ならば、泰明の信頼を裏切り、悲しませることはないだろう。
そんな根拠から来る信頼だった。
ふと、鷹通は改めて、泰明を見詰める。
少しでも暑気を和らげようと、川辺近くの木陰を選んで立ち話をしているものの、差すような眩しい陽射しは完全には避けられない。
さほど暑がりでもない鷹通も、流石に額に薄く汗を滲ませている。
だが、泰明は熱さを感じていないかのように、涼やかに凛と佇んでいた。
その姿こそが、涼を齎してくれる気がして、鷹通は微笑む。
川面から僅かに寄せてきた微風に、翡翠の絹糸のような泰明の髪が揺れる。
結い残してある鬢に近い長めの前髪が、僅かに紅を孕む白い頬に振り掛かる。
魅かれて、鷹通は無意識のうちに指を伸ばした。
そっと、頬に振り掛かる髪を指先で払ってやる。
その指先が、滑らかな頬に触れる。
泰明がくすぐったそうに、僅かに色違いの瞳を細め、微笑った。
瞬間、頬の透き通るような白に潜む紅が浮かび上がる。
無垢でありながら、何処か艶めいたその風情。
否応なく、魅かれてしまう。
頬に触れていた指が滑るように動き、細い頤を捉える。
「鷹通?」
不思議そうに見開かれた穢れない澄んだ瞳にさえ魅かれて。
綻び掛けた花蕾のように、ほんの僅かに開かれた薄紅の唇。
魅かれるままに触れようとして、鷹通は思い留まった。
このまま、何も知らない無垢な泰明を、身勝手に押し流してしまって良いのかと躊躇ったのだ。
また、永泉のことが、頭を過ぎった所為でもある。
彼を差し置いて、抜け駆けめいた行いをしたくはない。
(甘い考えかもしれないが…)
恋敵に遠慮をしてどうする。
そんな風だから、いつまで経っても、想い人との仲が進展しないのだ、と、傍から見る者には言われるかもしれない。
(しかし、今は…)
このままで良い。
また、目下の恋敵である永泉も、鷹通を差し置いて、抜け駆けをするような人物ではない。
鷹通は泰明の細い顎に触れていた指をそっと、後ろへとずらす。
引き寄せる代わりに、艶やかな髪を軽く撫で、微笑み掛けた。
軽く首を傾げていた泰明は、そんな鷹通に微笑み返す。
何処か安堵したように。
あどけない子どものような笑顔に、鷹通はやはり、早まらなくて良かったと改めて思う。
見た目と知性は大人でも、泰明はまだ、生まれて数年にしかならない幼子なのだ。
焦らず、ゆっくりと心を通わしていけば良い。
とはいえ、今後の状況によっては、焦らずにはいられなくなるかもしれないが。
泰明に想いを寄せている者は、永泉以外にもいるのだから。
当の泰明が心を許しているという点で、鷹通と永泉が有利な立場にいるというだけの話だ。
あまり、油断はしていられない。
(それにしても、永泉様は大丈夫なのだろうか…)
信頼は別として、泰明が彼のことを、少なからず案じているのは事実だ。
それとなく様子を窺って、もし、問題を抱えているようなら、手助けをしたほうが良いかもしれない。
そこまで考えて、鷹通はふと、心中で苦笑した。
恋敵の心配をするなど、我ながらつくづく因果な性格だ。
しかし、泰明の笑顔を守ることに繋がるならば、苦ではない。
高い空で輝いていた太陽が、徐々に傾いてきていた。