桔梗姫恋語〈宵闇〉
『他の男とは、こうしてはいけないよ』
我ながら、矛盾した言動を取ってしまったと思う。
一体、泰明はどれほど戸惑ったことだろう。
「お邪魔致しますよ、ご主人」
「これは、藤茶屋の…」
見るともなしに妓楼の帳簿を繰っていた友雅は、
戸を引いて入ってきた茶屋の主人を目にして、手にしていた煙管の灰を落とす。
埒もない物思いに囚われているうちに、火皿に詰めた煙草はとっくに燃え尽きていた。
立ち上がり、玄関に佇む茶屋の主人を、奥の客間に誘おうとすると、すぐに去るからとやんわりと断られる。
彼が玄関の上がり框に腰掛け、友雅もその場に座りなおした。
友雅よりも歳若く、穏やかな物腰の青年だが、この藤茶屋の主人…鷹通は、如才なく店を切り盛りしている。
「如何でしたか、うちの『桔梗』は?」
友雅の問いに、鷹通は穏やか且つ満足そうな笑みを浮かべる。
「ご心配なく。いつものとおりです。昨夜の宴での『桔梗姫』も美しく艶やかで。旦那様方も大変満足しておられました」
「それは良かった。昨夜の旦那は、常連の一条様でしたね。新しいお連れがいらしたようですが…」
「ああ、永泉様のことですね。一条様の弟君で、社会勉強の一環として一条様がお連れになったそうです」
「…とすると、花街に出入りされるのは初めてということですか。
昨晩垣間見した折には、あまり愉しまれていないご様子でしたが…」
「そちらもご心配は無用です。あの後の宴の席で永泉様も桔梗姫に一目で魅了されておられましたから」
「そうですか」
友雅を含めた周囲の予想通り、花妓となった泰明は、
その品良い美しさと凛とした立ち居振る舞いが、多くの男性客を虜にし、一月も経たぬうちに、花妓の頂点へと登り詰めた。
そうして、「花姫」となり、『桔梗姫』とも呼ばれるようになって、一年近く。
桔梗の人気が衰える気配は露ほどもない。
今も尚、桔梗は花街随一の名花として咲き誇っている。
「桔梗姫を前にしては、どんな男も心を奪われずにはいられないでしょう」
そう語る鷹通の声音に僅かに滲む思慕の響きに、敢えて気付かぬ振りをして、友雅は微笑む。
「それは光栄です。桔梗は当妓楼の自慢ですよ」
その言葉に何処か照れたような笑みで頷き、鷹通は立ち上がる。
「それでは、今後とも藤茶屋をご贔屓にお願い致しますよ」
「それはもちろん」
「今宵の宴を私も楽しみにしております。言うまでもないことですが、此度も責任を持って桔梗姫をお預かり致します」
「よろしくお願いします」
藤茶屋の主人を見送ると、友雅は立ち上がって、妓楼の奥へと入っていった。
妓楼二階の奥が、現在この花街唯一の花姫の部屋である。
「桔梗姫」
戸口で一度腰を下ろし、呼び掛けると、側仕えの応えがあり、
友雅は立ち上がることなく、静かに扉を開き、部屋へと入る。
「お忙しいところを失礼致しますよ」
「いいえ、既に今宵の宴の支度は整えておりますゆえ」
花妓を住まわす妓楼の主人とはいえ、相手が花街一の稼ぎ手でもある花姫ともなれば、馴れ馴れしい言葉遣いはご法度だ。
やや目を伏せ気味にして、丁寧に無礼を詫びると、再び側仕えの者の応えが返った。
正面奥の中央に、着飾った桔梗が座している。
周りを五人の側仕え、花妓見習いが囲む。
支度が整ったとはいえ、万全を期したい気持ちがあるのだろう、
彼らのうち四人は、桔梗の着物の襞を整えたり、結い上げた髪に挿した簪の位置を整えたりと、忙しなく動いている。
残る一人の秋津という名の側仕えは、桔梗の斜め前に腰を下ろし、桔梗の代わりに会話の受け応えをする。
彼に間を隔てられ、戸口に控え、目を伏せた友雅には、桔梗の纏う艶やかな着物の袖と裾しか見えない。
そこで、友雅はさり気なく目を上げ、桔梗の姿を見た。
今宵の桔梗は、光沢のある黒地に、溢れんばかりに薄紅、薄桜、
黄金の花が咲き乱れる枝垂桜が描き込まれた豪奢な着物で華奢な体躯を包んでいる。
その細い腰を飾るのは、大胆な形に結われた金糸、銀糸、
白糸で複雑な流水紋様を織り出した緞子のずっしりとした幅広の帯だ。
丈成す艶やかな翠髪は、「花結い」と呼ばれる花妓特有の形に結い上げられ、
白鶴を思わせるすんなりとした首が項まで露になっている。
花の形を模した結い髪には、幾つもの色とりどりに煌く宝珠を通した綾紐、瓔珞揺れる簪が鮮やかな彩りを添える。
側仕えの者が進み出て、仕上げに、桜の生花で作られた簪を桔梗の結い髪に挿した。
花妓、それも花姫の装いとなれば、衣裳も髪飾りも華やかだが、それなりに重量もある。
しかし、桔梗は片手を預けた脇息に寄り掛かることなく、首筋から背筋に至るまで真っ直ぐ伸ばして座している。
仄暗い部屋のうちで、自ら光を発しているかの如き花の艶姿。
威厳さえも漂わせる様は、まさに高嶺の花に相応しい。
その桔梗は、目尻に仄かに香る紅を載せた眼差しを、窓際に掛けられた燈籠に向けている。
友雅を含めた周囲の存在全てを自分の外に置いているかのような様子だ。
艶めく灯りを見据える色違いの瞳は、不思議なほど凛と澄んでいる。
だが、物言わぬ花弁の唇は、口付けを誘うように艶やかな紅色だ。
この艶やかさと清らかさの絶妙な混在もまた、桔梗の大きな魅力のひとつであり、
その神秘性を増すものともなっているのだが……
今、「桔梗」の眼差しは離れていても、「泰明」の心は真摯なほどに、友雅を見詰めている。
そのことが友雅には手に取るように分かった。
…尤も、それは自分の願望から出た都合の良い思い込みかもしれないが。
友雅は誰にも悟られぬようひっそりと苦笑を噛む。
そうして、再び目を伏せ、常となりつつある問いを口にした。
「今宵の旦那となる久世様は、三夜目となりますが、如何致しますか?」
既に答えを用意していたのだろうが、秋津はちらりと、背後の桔梗を窺ってから、口を開いた。
「申し訳ありませぬが、お断わりしたく存じます」
常どおりの答えだった。
その応えに心の片隅が安堵している。
「承知しました。では、そのように手配りさせて頂きます」
「お願い申します」
部屋を辞そうと一礼して、顔を上げたとき、ふと、
それまで逸らされていた桔梗の…いや、泰明の瞳と友雅の瞳がかち合った。
音もなく翠と橙の眼差しと碧の眼差しが絡み合う。
視線が交錯したのはほんの束の間。
その澄み切った瞳に、心ごと絡め取られてしまう寸前に、友雅はさり気なく泰明から目を逸らした。
泰明が花姫となってからおよそ一年。
未だ彼は登楼する客の誰とも床を共にしていない。
友雅も無理に客との床入りを泰明に勧めたりはしなかった。
睦み合えずとも、桔梗の美貌と教養に惚れ込み、
宴の間だけでも彼と共に過ごせればいいという地位も財もある客が多くあるからだ。
そうして、桔梗の為に惜しげもなく財を費やす客たちは、同時に、いつか我こそは、と期待を抱く。
桔梗の客が引きも切らずに登楼してくるのには、そこにも理由がある。
結果として桔梗を抱えるこの妓楼は、現在街で一番の上がりを出している。
今のままでも商売としては、何の問題もない。
故に、その気になれる客が見付からず、泰明が首を振り続けるのなら、それはそれで構わなかった。
元より、泰明には自分で身を任せる客を選んで貰うつもりだったのだ。
花妓と言う窮屈な身の上は変わらないが、泰明にはせめて結ばれる相手を選ぶ自由くらいは与えてやりたかった。
泰明を「花姫」にするという先代妓楼主人の遺言の真意も恐らくそこにあり、友雅の思いも同様だった。
…そのつもりだった。
桔梗の部屋を辞して、廊を歩きながら、友雅は唇に自嘲の笑みを浮かべる。
桔梗…泰明が花妓となっても、未だ、誰にも身体を許していないのは、この自分が口にした言葉の所為だ。
そうして、先程見えた泰明の眼差しを思い出す。
同時に記憶に甦る紅に彩られた唇の柔らかさ。
今では、言葉を交わすことすらなくなったが、こうして友雅が泰明の部屋を訪れる度、
視線が合う度に、泰明は友雅に問うような眼差しを向けてくる。
泰明が何を問いたいのか、自分は知っている。
知っていながら、答えることを避けてきた。
あの夜の口付けと、自分が口にした言葉の意味。
養い親として泰明に接していた間、幾度か自分は泰明に対して養い親らしからぬ振舞いをしたことがあった。
もちろん、その振舞いに泰明は戸惑ったが、その度に、戯言として紛らせてきた。
あのときもそうすれば良かったのだ。
およそ一年前、泰明が花妓となる水揚げの日の前夜に、彼に口付け、他の男と同じことをするのを禁じた。
だが、何故かあの夜に限って、常どおりにできなかった。
「冗談だ」というたった一言が出てこなかったのだ。
そのとき、改めて限界を感じた。
このままでは、守り続けた立場から足を踏み外してしまう。
…そう、初めから自分は、泰明を養い子としては見ていなかった。
生きた宝玉の如く輝く瞳、艶やかな絹糸の髪、桜色の滑らかな肌、身に纏う花のような香り。
涼やかな色香と裏腹な無垢な心…そんな泰明の全てに、今まで幾度、眩暈を覚えるほど魅かれてきたことだろう。
しかし、同時に、泰明に親代わりとして慕われ、信頼されることが心地良くもあった。
だからこそ、その立場を二年もの間、何とか守り続けることができたのだ。
そして、これからもそうしていくつもりだった。
だから、泰明が花妓となったことを機会に、距離を置くことを決めた。
いつまでも泰明が慕う養い親でいる為に。
結局、あの夜以来、泰明の疑問に答えることも、安堵させることもできないままだ。
あのとき、泰明は、一体どれほど戸惑ったことだろう。
今も、どれほど疑問を感じ、不安を覚えていることだろう。
それでも尚、泰明は、友雅の言葉に従い、守っているのだ。
慕い続けた養い親との約束として。
禁じたのは口付けだけだ。
身体を許すなと言った訳ではない。
自分の所為だというのは、ただの思い過ごしで、泰明が気に入る相手がまだ現れていないだけではないか。
そんな身勝手な考えが時折、頭を過ぎるが、不器用ほど純粋な泰明に、
唇を許さずに身体を許すなどというあざとい真似ができる筈もない。
しかも、泰明が自分との約束を守って、清らかさを保っていることを、自分は心の何処かで確かに悦んでいる。
自由に相手を選んで欲しいと思いながら、他ならぬ自分が、親としての立場を利用して、泰明の心を縛り付けているのだ。
ふと、立ち止まった友雅は、己の手を見詰める。
あの夜以来、一度も泰明に触れていない。
妓楼の主とはいえ、客ではない男である友雅が、泰明とふたりきりで相対することはご法度だ。
泰明が花姫となった今となっては、尚更。
それで良い。
こんな卑怯な男は泰明の傍にいないほうが良い。
そして、いつか…泰明が真に慕う男が現れてくれれば良い。
…泰明が幸せになれば良い。
とっくの昔に、そう思い決めたというのに、往生際の悪いことに、胸の痛みは消えてくれない。
天真のように、素直に自分の想いを伝え、その為だけに身を捧げることができたなら、良かったのだろうか。
…もしも。
もしも、泰明が自分との約束をも超える相手と巡り会ったなら……
自分はどうなるだろう。
果たして、平静でいられるのだろうか。
それから、桔梗に、また新たな通い客が付いた。
先日、兄に連れられて、初登楼した永泉という若者だ。
花街には不似合いなほどの柔らかで品のある容貌と物腰の少年といってもいいほどの若者だが、
優しく教養深いと宴で顔を合わせた花妓たちの評判も高い。
遊びではなく真剣に桔梗を慕うらしい彼に、桔梗もまた、珍しく打ち解けているという。
宴で言葉を交わし、笛の名手でもあるという彼と進んで琴を合わせたり、
その伴奏で舞って見せたりすることもあるらしい。
鷹通からそう聞かされたとき、心が騒がなかったと言えば嘘になる。
だが、友雅にはまだ、余裕があった。
結構なことではないか、とすら思っていた。
…しかし。
永泉を旦那とした三夜目の宴が、いつものように床入りもなく終わった後。
桔梗の側仕えの秋津が、友雅の部屋を訪ねてきた。
「…どうした。桔梗姫に何か?」
珍しいことに少々驚いて、友雅がそう訊ねると、秋津は躊躇いがちに口を開いた。
「桔梗姫から言伝を預かって参りました」
「言伝?」
「はい。次に永泉様が登楼なされた折には、宴後のお部屋のご用意をお頼み申します…と」
「…何?」
「宵に引き続いて、夜も永泉様のお相手をするとお決めになったようです」
秋津の言葉が繰り返し耳に木霊する気がする。
気付けば、手にしていた煙管が指から滑り落ちていた。
…もしも、泰明が自分との約束をも超える相手と巡り会ったなら……
煙管が床に落ちる軽い音。
…きしりと。
胸に重く鈍い痛みが走った。