都の東に、堀と高い塀に囲まれたその花街はある。
塀の外とは逆に、宵から暁にかけて賑わうその街は男たちにとっての桃源郷。
通りには季節の花々が飾られ、艶めいた灯りを零す妓楼が軒を連ねる。
妓楼では美しく着飾った「花妓」が、宵は歌や舞などの芸で、夜はその白い腕で登楼する客を愉しませ、慰める。
芸と色を売る遊君でありながら、美貌と教養も兼ね備えた花妓。
その花妓の頂点に立ち、客からの人気も高い花妓は、「花姫」と呼ばれる。
現在、街でただひとりの花姫は、根っからの廓育ち。
色街では珍しい清らかさと華やかな艶やかさを漂わせる天女もかくやと謳われる美貌。
加えて、多くの教養人も舌を巻く高い知性を持つ、多くの男たちにとってはまさに高嶺の花だ。
が、ここにひとつの噂がある。
この花街随一の名花がその花弁を綻ばせ、咲き誇る姿を愛で愉しんだ男は、未だひとりもいない。
そんな噂を纏い付かせた当代花姫の通り名は、「桔梗」という。
桔梗姫恋語〈前夜〉
コツコツと窓枠を叩く音。
読み掛けの書物から顔を上げた泰明は、す、と立ち上がり小さな窓に近付く。
梳き流したままの絹糸の髪が、華奢な肩から滑り落ちた。
涼やかな衣擦れの音に、窓に取り付けられた木の扉を開く音が重なる。
「よう、泰明!」
窓の外には幼馴染みの明るい笑顔があった。
「天真」
泰明は澄んだ翡翠と黄玉に似た瞳を僅かに瞠る。
「どうしたのだ?いつもどおり裏口からでも入ってくればいいものを…少し待て。すぐそちらに行く」
「いいって。幼馴染とはいえ、ただの下働きの俺が、お前の部屋に上がり込んで話なんかしたら、橘が煩いだろ」
「友雅はそんなことはせぬ。今までもそうだった」
天真の言葉に、泰明は大きな瞳を更に丸くして応える。
橘…友雅はこの妓楼の主人である。
二年前、先代主人からこの楼を引き継ぐと共に、
先代主人が掌中の玉のように可愛がっていた養い子である泰明も引き取った。
それから現在に至るまで、友雅は泰明に先代主人と変わらぬ待遇をしてくれている。
そのお蔭で、年季が明けるまでその身を預ける他の花妓のように、行動が制限されることもなく、
泰明は妓楼内で、比較的自由に振舞うことができた。
心底驚いた様子の泰明に、天真は軽く肩を竦めながら苦笑する。
「今までは、な。けど、これからはそうはいかないと思うぜ。…お前、明日が水揚げの日だろ?」
天真の問いに、泰明は素直に頷く。
「ま、水揚げって言っても、お前の場合、他の花妓とは違って形式的なものだろうけどな。
橘がお前を花姫にするつもりでいるのは一目瞭然だし。
高嶺の花にそう軽々しく傷は付けられない…まあ、そういう点では俺も安心か」
「よく分からぬ」
無垢に首を傾げる泰明に向かい、天真は今度は少し切なげに笑う。
「これから花妓…しかも、花姫になろうっていうお前に、客でもない俺が軽々しく近付けないってことさ」
「…そうか」
泰明も翡翠色の長い睫毛を伏せ、澄んだ瞳を僅かに翳らせた。
つまり、泰明が花妓となったら、今まで通り天真と顔を合わせて、人目を気にせず、
他愛ない話に興じることが出来なくなるのだ。
物心付くか付かないかの頃から、己は花妓になるのだろうと当たり前のように考えていた。
今まで、そのことに何の疑問も不満もなかったが、花妓になることで失うものがあることに、今更ながら気付かされた。
これまで気儘が許されていただけに、その事実は胸に重い。
「そんな顔するなよ」
沈んでしまった泰明を元気付ける為だろう、殊更明るい声音でそう言うと、
天真は僅かに身を乗り出すように、窓枠に片手を掛けた。
「ところでお前、今、どんな格好してるんだ?ちょっと見せてくれよ」
応えて泰明は、窓から少し離れ、天真にどうにか全身が見せられる位置まで下がった。
今の泰明はほっそりした肢体に、たっぷりとした袂と袖口、床を滑る長い裾の辺りに、
金糸で縁取られた紅梅を散らした白い着物を纏っていた。
風に揺れる柳のようにしなやかで細い腰には、蘇芳と紅、
紅梅の幅広で丈の長い三色の紗を重ねて帯代わりに結い、前にふわりと垂らしている。
結わずに垂らした翡翠色の癖のない髪が、白い着物の肩や胸に波紋に似た模様を描きながら、
絡まることなく足元まで流れ落ち、泰明の清らかで艶やかな美しさを一層引き立ていた。
その姿を見た天真は嬉しそうに笑った。
「よし!俺の勘も捨てたもんじゃねえな」
言って、指先で泰明を手招く。
素直に泰明が窓際に寄ると、窓枠に掛けていないほうの手を伸ばして、
滑らかな髪に隠された耳に掛けるように、鬢の辺りに小さな花枝を挿した。
鼻先をくすぐる微かな香り。
「梅か」
「餞別代りだ。良く似合うぜ」
「餞別…」
寂しげに呟く泰明を、天真は温かい眼差しで見詰める。
「お前はきっと歴代随一の花姫になる。
これからはこうして顔を合わせることも出来なくなるだろうが、いつもお前のことを想ってる」
一度、言葉を切った天真は、茶色い瞳に決意の色を宿した。
「俺、廓組に入るよ」
「廓組に?」
廓組とは、この街の自治と治安を守る自衛団だ。
妓楼に付く用心棒を中心に、腕に覚えのある若者が集まって組織される。
「ああ。廓組に入って、お前を…お前のいるこの街ごと守ってやる」
決然と言う天真に、泰明は頷くしかない。
「…有難う、天真」
一言だけそう言うと、天真は少し照れたように笑った。
もう一度手を伸ばして、泰明の頬にそっと触れる。
「自分から言うのもなんだけどさ、俺にも餞別をくれよ」
「?」
す、と天真の顔が近付いてくる。
泰明の花弁の唇に、天真の唇が今しも触れようとしたとき。
「泰明」
柔らかな艶を帯びた男の声に名を呼ばれ、泰明は振り向く。
部屋の入口に、楼の主人である友雅が立っている。
天真が小さく舌打ちをした。
「煩いお目付け役が来やがったか」
悔しげに呟きながら、窓辺から身を引く。
「天真!」
視線を戻して呼び掛ける泰明に軽く手を振り、天真は庭の植え込みの蔭に消えた。
最後にしては、あまりにも呆気ない別れに、実感が湧かない。
だが、最後なのだ。
泰明は袖に近い袂を細い指でぎゅっと握る。
「泰明?」
もう一度、友雅に名を呼ばれ、泰明は窓を閉めてから、向き直る。
「何だ?」
「明日の準備は既に整っているけれど、念の為、最後の稽古をしようと思ってね」
「最後…」
「そう。明日の宴で披露する琴と舞のおさらいをしよう。おいで」
今、泰明が天真と会っていたことに気付いているだろうに、
そのことには一切触れずに用件を告げ、友雅はゆったりと身を翻す。
その広い背中に従って、泰明は部屋を出た。
「よし、完璧だね」
琴と舞の師匠でもある友雅にお墨付きを貰って、泰明は僅かに緊張していた身体から力を抜く。
「手厚いご指導、感謝する」
作法に則って床に手を付き、慎ましい辞儀をしてから顔を上げると、
厳しい師匠から優しい養い親の顔になった友雅に、笑顔で手招きをされる。
導かれるままその傍らに腰を下ろす。
「梅の花飾りだね。衣裳と揃いで良く似合っている」
ふいにそう言うと、友雅は泰明が髪に挿している花枝に指先で触れた。
「天真がくれたのだ。これは餞別だと」
「そう」
泰明の言葉に、友雅は何処か素っ気無い口調で相槌を打ったが、その手は優しく泰明の肩先に流れる髪を撫でている。
時折、意図の知れない言動をすることがあったが、泰明はこの養い親が好きだった。
泰明の実の父だという噂のあった先代主人と同様…
いや、それ以上に、他人である己をここまで育ててくれたことに感謝していた。
泰明は小さな頭を友雅の肩に凭れるように寄せて、耳元で囁くように語り掛ける友雅の声に耳を傾ける。
「和歌の方は、まだ課題があると師範が仰っていたけれど、君にはそれを補って余りあるほどの知性と魅力がある。
きっと一月も経たぬうちに引く手数多になるだろうね」
その言葉に泰明がやや表情を曇らせるのに、友雅はすぐに気付いたようだ。
「どうしたのだい?何か不安なことがあるなら、言っておくれ」
乞われて、泰明は少し躊躇いつつ、口を開く。
「明日、私が花妓になったら…」
「うん?」
「今までのように天真と会ってはいけなくなるのだろう?」
泰明の言葉に、友雅は微苦笑する。
「そうだね。
同じ妓楼で働く花妓や花妓見習いを除いて、原則的に花妓は、
客以外の男と会ったり、話をしてはいけないことになっている。
彼が客として、この妓楼に来ない限り、今までのように会うことは出来なくなるだろうね」
「そうか…」
予想通りの答えを受けて、泰明はやや顔を俯きがちにして、淡々と、しかし、内心恐る恐る言葉を継いだ。
「ならば…天真のように友雅にも会えなくなるのか?」
一瞬の沈黙の後、何処か乾いた笑い声が返る。
「それはないよ。私はこの妓楼の主だ。自分が抱えている花妓の様子を全く見ずにいては商売にならないだろう?」
「そうか…」
友雅にも会えなくなる訳ではないのだと、泰明は安堵する。
何時の間にか詰めていた息を吐いて、肩の力を抜いた途端、不意打ちのような友雅の言葉が耳を打った。
「だが、今までのように、とはいかないだろうね」
「どういうことだ?」
泰明は振り向いて、やや上目遣いに間近にいる友雅を見上げた。
真っ直ぐな眼差しに、友雅は一瞬だけ秀麗な眉を顰めたが、すぐに何事もなかったように言葉を続けた。
「こうして、君に琴や舞を教えるのはこれで最後ということだよ」
「何故?」
「私が君に教えられることはもうないからさ。君には花姫となるために、より一層技芸の腕を磨いてもらいたい。
だから、琴や舞も、和歌のように、外界でも活躍する名手を君専属の師範として雇うつもりだ。
今後は彼らを師として学びなさい」
言いながら、寄り添う泰明の華奢な身体をそっと離す。
「…?」
「今後はこうして触れ合うこともいけないよ。明日から一人前の花妓になる君はもう子供ではなくなるのだから」
「……」
友雅の言うことは分かる。
しかし、今まで散々甘え、親代わりに慕ってきた友雅にまで急に距離を置かれ、
隠し切れない寂しさと悲しさがこみ上げてくる。
きゅと、自然に色付いた唇を噛んで俯くと、友雅の声音が優しくなった。
「花妓になるのが嫌になった?」
泰明は即座に首を振って、再び友雅を見上げる。
真っ直ぐ見詰めてくる澄んだ瞳に、長い睫毛が艶やかな翳りを落としている。
「友雅は?」
「え?」
「友雅は私に花妓になって欲しいか?」
問われた友雅は再び微苦笑する。
「……そうだね。君を界隈一の花妓、花姫にするのが先代主人との約束だ。
私もこうして大切に育ててきた君が、多くの男たちを惑わす高嶺の花となれたなら、これ以上誇らしいことはない」
「…友雅がそう願うならば良い。私は花妓になる」
きっぱりと頷いた泰明は、整った美貌に、何処か切ない微笑を浮かべた。
僅かに綻んだ唇に、細い髪が一筋二筋纏わり付いている。
その様を見た友雅が僅かに瞳を細める。
「花妓としての君の通り名は『桔梗』にしたよ。
花妓にしては清楚な名だが、君には似合うだろう…ところで、君をここに呼んだのは実はもうひとつ理由があってね」
さり気なく話題を変えつつ、着物の袂から小さな貝を取り出してみせる。
「『桔梗姫』へのささやかなお祝いだよ」
「何だ?」
「紅だよ。衣裳の着付けや髪結いは、側仕えの者がやってくれるだろうけれど、紅くらいはひとりで注せなくてはね」
そんなことは露ほども気にしていなかった泰明は、はっと息を呑む。
「私は化粧の仕方など知らぬ」
内心焦ってそう言うと、友雅が笑った。
「今、教えてあげるよ。大丈夫。君ならば、さして手の込んだ化粧は必要ない」
空いている片手を伸ばし、ごくごく淡い紅を潜ませる白く肌理細かな頬に触れる。
「うん、やはり、君の香る桜色の肌には、過分な化粧は却って毒だ。紅を注すだけで充分だね」
そう言って、泰明を部屋の隅に立て掛けてあった鏡の前に座らせ、
細い手に手を添えて、泰明が一度で覚えられるようゆっくりと紅の注し方を教える。
「ほら、紅を注すだけで華やかになっただろう?桜色の肌がより一層映えて…綺麗だよ」
泰明は鏡の中にいる己の姿を覗き込む。
確かにいつもとは違う雰囲気になった気がする。
基本的に人の美醜に無頓着な泰明は、紅を付けたことで、
己が綺麗になったかどうかは分からなかったが、友雅がそう言うのならそうなのだろうと考える。
「今度は自分ひとりでやってみるかい?」
「ん」
友雅に頷いて、注したばかりの紅を拭き取ろうと懐を探る。
次いですぐに、懐紙を持ち歩いていなかったことに気が付いた。
「すまない、友雅。懐紙を一枚…」
背後に座る友雅に乞いながら、振り向いた泰明の細い頤を、ふいに友雅が捉えた。
気が付いたときには、唇が重なっていた。
泰明の唇を柔らかく包み込んだ友雅の唇は、注した紅を拭うように、舌先を触れてから離れていった。
突然のことに、ただ大きな瞳を瞠るだけの泰明を、不思議な眼差しで見詰め、友雅は囁く。
「他の男とは、こうしてはいけないよ」
泰明の髪に挿したままの梅の花が、ふわりと微かに香る。
それは白い着物の内に隠された泰明自身の肌の甘い香りと切なく絡み合った。