桔梗姫恋語〈夜宴〉
その日は、昼を過ぎる頃から、桔梗の出席する宵の宴の支度に、妓楼は大忙しだった。
宴自体の準備は、旦那と茶屋側で進められるので、妓楼が忙しくしているのは、正確には宴後の支度の為である。
何といっても、花街一の花姫が、ついに迎えた客と共に過ごす初夜だ。
その支度に、妓楼を挙げて走り回るのも無理からぬことであった。
噂を聞き付けた桔梗の常連客も、今夜の相手を羨みながらも、祝いと称して次々と贈り物を届けてきている。
そんな花街全体が浮き足立ったような空気の中、当の桔梗は常と変わりない凛然とした面持ちだった。
「これはまた、何とお美しい…!」
「永泉様がお贈りくだすったお衣裳なのですよ。本当に良くお似合いでいらっしゃる…」
「まるで花精の化身のよう……」
波のように幾重にも重なる藤花が水面に映り込む様を、金銀交えて絢爛に縫い取った着物。
衣裳の着付けを手伝った秋津を始めとした側仕えと花妓見習いが、着飾った桔梗を囲みながら、
その品良い艶姿に溜め息零しつつ、うっとりと魅入っている。
そんな彼らを、桔梗は静かな眼差しで見返した。
「後の支度はひとりでできる故、すまぬが席を外してくれぬか?」
桔梗の頼みに、秋津らは戸惑って顔を見合わせる。
今まで、桔梗が彼らに向かって、そのようなことを言ってきたことはなかったからだ。
そんな彼らに、桔梗は艶やかな目尻にほんの僅か愁いのようなものを滲ませた。
「少し…独りになりたいのだ。頼む」
「…分かりました。それでは私たちは暫し、席を外します」
「隣室に控えておりますので、何か御座いましたら、すぐにお呼び下さいませ」
今夜は、桔梗にとって初めて体験する夜となる筈だ。
はしたなく表に出すことはしないが、内心では恐らく緊張しているのだろう。
気を落ち着ける為には自分たちの存在は却って邪魔なのかもしれぬ。
そう判断した秋津らは、殆ど初めて桔梗を部屋にひとりにして、下がっていった。
煌びやかな着物の裾を捌いて、桔梗は鏡台の前に腰を下ろした。
胸の下で結われた色鮮やかな蝶が舞い遊ぶ金襴の帯が少し邪魔だ。
だが、それには構わず、引き出しから取り出した紅を、
常と変わらぬ淡々とした手付きで、柔らかな輪郭を描く唇へと載せていく。
手早く最後の仕上げを済ませ、指に残る紅を拭い取ろうと傍らに置かれた懐紙へと伸ばされた手が、ふと止まる。
桔梗は鏡の中の自分の顔を見詰める。
紅を注した唇に、細い指先でそっと触れた。
そのとき。
「桔梗姫」
聞き慣れた、しかし、ここ一年の間は遠い存在となっていた声に、
扉越しに静かに名を呼ばれ、桔梗…いや、泰明は思わずびくりと細い肩を揺らした。
今は、秋津を含めた側仕えの者は皆、下がっている。
「桔梗姫?」
常なら、すぐに返る応えが無いことを訝しんだのか、もう一度名を呼ばれる。
だが、泰明は何故か声を出すことができなかった。
「…失礼致しますよ」
暫しの間を置いて、するりと扉が開けられる。
思わず身を固くした泰明は、振り向けない。
「こちらの準備は整いました。桔梗姫は……」
常どおり滑らかに紡がれていた言葉が不自然に途切れる。
泰明が部屋にひとりでいることに気付いたのだろう。
「…これはどうしたことか。おひとりでいらっしゃるとは…」
僅かな動揺が伝わってくる。
いつも穏やかで、ゆったり構えている彼が、隠し切れない感情を声音に滲ませるなど珍しい。
が、その動揺もすぐに消え、声音は常の調子を取り戻す。
「失礼致しました。また、後ほどお伺い致します」
「…っ待て!」
去ろうとする気配に、泰明は弾かれるように、振り向いた。
結い上げた髪に挿した簪がさざめくように揺れ、結い残して背に流してある艶やかな髪の房が乱れる。
髪を飾る藤の花房から、花がひとつだけ、ぱらりと床に零れ落ちた。
「桔梗姫?」
僅かに目を瞠る友雅の顔を正面に見る。
しかし、その眼差しはすぐに泰明から逸らされようとする。
そんな友雅を引き止めるように、泰明は問いを投げ掛けた。
「良いのか?」
「…何のことでしょうか?」
「友雅は、私が今夜…」
続けられる泰明の言葉を強引に断ち切るように、友雅が応えた。
「桔梗姫がご自身でお決めになったことなら、私には何も言うことはありません。私に貴方の言動を制する資格は無い」
「……」
「私のことは気になさらず、どうぞ貴方のご自由になさるといい」
放り出すような友雅の言葉に、泰明の澄んだ瞳が哀しげに揺れる。
やがて、泰明は真っ直ぐ上げていた顔を俯け、力ない声で言った。
「…分かった。もう良い。引き止めてすまなかった」
白鶴のような首を垂れる泰明。
その儚げな姿から視線を逸らした友雅の表情に、一瞬苦痛の色が過ぎる。
だが、友雅は泰明を救う言葉を口にしなかった。
「…失礼致します」
去り際に友雅が口にした言葉は、僅かな余韻を残す間もなく、空に消えていく。
残されたのは、床に落ちた藤の花。
そして、悄然と俯く艶やかな花のみ。
「桔梗姫」
これまでになく盛大な宴の後。
夜が濃くなる時分に、秋津に案内され、部屋に入ってきた客を、泰明は宴の時の装いを解かずに、自室で迎えた。
若々しく優しい声で呼び掛ける相手に、慎ましい辞儀をする。
顔を上げると、声音と同じく優しげで品良い微笑があった。
ささやかな酒肴の支度を整えた後、秋津が部屋を辞すと、部屋にはふたりだけが残された。
部屋の四隅に置かれた行燈が、仄かに照らす室内。
向き合って座った永泉がそっと、藤の袖から覗く泰明の輝くように白い指先を捧げ持つように触れる。
泰明はぴくりと僅かに身を震わせたが、真っ直ぐに永泉を見詰める。
その翡翠と黄玉の瞳に微笑み返し、永泉は口を開いた。
「私を選んで下さいまして有難う御座います。貴方とこうして夜を過ごすことができるなど…夢のようです」
「…一介の花妓を相手に大袈裟なことを言う」
「大袈裟なことではありませんよ。貴方はご自分の魅力をご存知でないから、そのように仰るのでしょう。
こうして、一度で良いから、貴方と共に過ごしたいと願う男は星の数ほどいる筈ですよ」
そこまで言った永泉は、唇に浮かべた笑みをふと消して、薄闇に浮かび上がる泰明の白い美貌を見詰める。
「…ですが、本当に宜しいのですか?私などが相手で」
その問いに、泰明は色付いた花弁の唇を僅かに綻ばせた。
「今更ではないか。構わぬ。もう決めたことなのだから」
「そう…ですね」
何か気掛かりなことがあるのか、まだ少し瞳に躊躇いの色を滲ませつつ、永泉は頷く。
が、清々しくも甘い香りを放つ花を前にして、手折らずに過ぎる男はいない。
やがて、躊躇いを振り切った永泉が、握っていた手に力を込めて泰明の細身を引き寄せる。
もう一方の手で豪奢な衣に包まれた華奢な肩を抱き寄せながら、優しい手付きで、髪を飾る花簪を抜き取る。
結いを解かれた翠の絹糸が、次々に着物の肩や背中をはらはらと零れ、滑り落ち、床に模様を描きながら拡がった。
明るい光の下では、桜色の泰明の肌も、夜の仄暗い室内で見ると、白磁か象牙のような白さだ。
その白い頬に触れると、応じて泰明が滑らかな瞼を閉じる。
優雅に反り返る長い睫。
僅かに開かれた紅の唇。
仄かに漂う花のような香り。
それらに引き寄せられるように、永泉は泰明の唇へと己の唇を寄せていく。
…だが。
唇が触れるほんの手前で、永泉は動きを止める。
いつの間にか身を固くしていた泰明の耳元で、永泉が小さく笑う。
身を離す気配に、泰明は閉じていた瞳を開く。
「永泉?」
訝しげに華奢な首を傾げる泰明に、永泉は苦笑顔を向けた。
片手で握っていた泰明の白い手を、包むように両手で握りなおす。
「桔梗姫、ご無理はいけません」
「何を言う、永泉。私は無理など…」
否定しようとする泰明を、永泉は穏やかに首を振って止める。
「私を受け入れてくださると仰る貴方の言葉を嘘だと言うのではありません。
きっと貴方ご自身でも意識していらっしゃらないのでしょう。
ですが…貴方の心と身体は、私が踏み込むことを許してくださっていない。私には…分かります」
これでも、貴方に逢って以来、貴方だけを見詰め、恋い焦がれてきたのだから。
そのひとの気持ちが自分にあるかどうかくらいは分かるのだ、と。
諭すように言われ、泰明は細い肩を落とした。
肩に留まる細い髪が衣擦れめいた微かな音を立てて、滑り落ちる。
「すまない…」
「いいえ。どうか謝らないでください」
俯く泰明を掬い上げるように、永泉は泰明に微笑み掛ける。
「…想う方がいらっしゃるのですね?」
優しい声音での問いに、泰明は俯いていた顔をぱっと上げる。
見開いた瞳を二三度瞬かせ、再び俯く。
「良く…分からない…」
幼い子供のように心細げに呟く泰明のほっそりとした手を、永泉は宥めるように軽く握る。
「…宜しければ、私に話してくださいませんか?
もちろん、お嫌なら話してくださらなくとも…或いは、話せるところまでで構いません。
私は少しでも貴方のお心を慰めるお手伝いをしたいのです」
「………」
その言葉に泰明は沈黙する。
永泉は急かさない。
ただ泰明の手を取り、握っていてくれる。
そう。
泰明は、この少年の醸し出す包み込むように優しい空気を好ましいと思っていた。
共にいると、心地良いと感じた。
だが、それは恋ではなかったのだ。
優しい空気に促され、気付けば泰明の唇から想いの断片が零れ落ちた。
「良く…分からないのだ。そのひとのことはずっと好きだった。そのひとは私を大事にしてくれた。
私も少しでもそのひとに報いることができるよう、そのひとの望むことなら何でもするつもりだった。
故に、そのひとの望むように花妓になった。それなのに…」
ふいに、泰明は苦しげに柳眉を顰め、胸を押さえるように屈み込む。
「今、そのひとはとても遠い……私はそんなことを望んではいなかったのに…」
「桔梗姫…」
永泉が労わるように肩を抱いていてくれる。
「…胸が…痛い……」
息を詰めるように言葉を途切れさせた泰明を、永泉が包み込むように抱き締めてくれた。
少しだけ胸の痛みが和らいだような気がする。
優しい人だ。
何故、このひとを恋うことができなかったのだろう。
「お前を受け入れることができれば良かったのに…」
永泉の腕の中でポツリと呟くと、再び微笑む気配がした。
「勿体無いお言葉を有難う御座います。そう思っていただけただけでも私は嬉しい。
けれど…恋は心から生まれるもの。その相手も、頭ではなく心が決めるのです」
そう言って、泰明の肩に手を置き、そっと身を離した永泉は、泰明を優しい眼差しで見詰める。
「お話し下さいまして有難う御座います、桔梗姫」
泰明は首を振って、瞳を翳らせる。
「礼を言うのは私のほうだ。それなのに私は…何もお前に返せるものがない」
「いいえ。貴方は私に大切なものを下さいましたよ。
胸が締め付けられるほど貴方に焦がれるこの想い…苦しくも心地良い恋というものを」
「胸締め付けられる想い…恋……」
自らの想いを確かめるように繰り返す泰明の白い手を取った永泉は、恭しくその甲に口付けた。
「ひとつだけ…我儘を申し上げても宜しいでしょうか?」
「何だ?」
顔を上げた泰明の華奢な身体を、永泉はふわりと抱き締める。
先程よりもほんの僅か抱き締める腕に力を籠め、永泉は泰明の首筋に顔を埋める。
「これ以上貴方に触れは致しません。ですから、どうか今夜はこのままで…せめて貴方の香りだけでも手にしたい」
抱き締められる寸前、垣間見えた切ない笑顔に、泰明は言葉を失くす。
やがて、そっとまだ頼りなさを残す少年の背を抱き締め返した。
「私にはこのようなことしかできぬ。それでも、お前が構わぬのなら、何時でもお前を迎えたいと思う」
「…有難う御座います」
耳元で囁かれた言葉は僅かに震えていた。