翠の柩 3

 

「離人症?」

 訊き返した泰明に、沢は頷いて補足をする。

「そう。簡単に言えば、自分の存在や身体、周囲を取り巻く世界に対する現実感を失ってしまう症状のことだよ」

「とても、そんな症状に悩まされているようには見えなかった」

「うん、橘さんの場合は、症状がごくごく軽いからね。離人症と類似した症状と言った方が正しいと思う。

例えば…自分の身体や知覚に対する現実感が乏しくなる所為で、

怪我をしたのに、その痛みが認識できないときがあったり…

周囲の景色やできごとを夢か幻のように感じたりすることも橘さんは多いみたいだね」

沢の説明に泰明は、気付くことがあった。

そう言えば、初めて出会ったとき、友雅は泰明が指摘するまで、手の甲の引っ掻き傷に気付かなかった。

先程、泰明に傷の具合を診てくれと言ったのも、傷の痛みをそうと自覚できないからか…?

そして…

 

『あの雨の日、出逢った君は、もしかしたら、幻かもしれないと思っていたんだ』

 

 友雅の口調があまりにも軽やかだったので、泰明も軽く流してしまったが、

この言葉には、泰明が想像もしていなかった友雅の強い不安が隠されていたのかもしれない。

 もっと気を付けて会話をすべきだったか。

 

 突如、表情を曇らせる泰明の様子に、彼の考えていることを察した沢が、元気付けるように微笑む。

「でも、さっきも言ったとおり、橘さんの症状は本当に軽いんだ。

症状を理解して、自分である程度コントロールすることも出来るから、社会生活にも殆ど影響はない。

実際、それくらいの症状だったら、通院せずに済ませている人も多いしね」

「そうなのか…」

 慰めるような沢の言葉に頷きつつも、泰明の表情は晴れない。

 幾ら症状が軽いといっても、苦しくない筈はないのだから。

 そんな泰明の様子を気遣わしげに見詰めつつ、沢は話を続ける。

「ただ、時折強い症状が発作的に起こることがあって…それを、橘さん自身と…何より傍にいる方が気にされてね…」

「傍にいる方…家族か」

 友雅を迎えに来た女性を思い出しつつ、何気なく泰明が呟くと、沢は苦笑した。

「家族…まあ、家族と言ってもいいのかな…」

「?」

 曖昧に言葉を濁す沢に、泰明は首を傾げる。

「…まあ、社会生活に異常をきたすほどの症状ではないから、橘さんは精神科ではなく、心療内科に通われているんだよ」

沢はそれ以上、その話題に触れることなく、話を締めくくった。

友雅が訊ねてきた柩のことについても、沢に訊こうかと考えていた泰明だったが、

担当医師でもない己がこれ以上、友雅のことに立ち入るのは、友雅にとっても迷惑だろうと考え直す。

「だいたいの事情は分かった。有難う」

「こちらこそ。担当外のことに巻き込んでしまって本当に申し訳なかった」

 沢の言葉に、そんなことはないと首を振って、泰明は沢と別れた。

 渡り廊下を外科病棟に向かって、歩き出しながら、泰明は中庭の翠を見上げ、呟く。

「柩か…」

 木々をざわめかせる風が、雨の気配を運んできた。

 

 

その日の夕食は久し振りに、天真と一緒だった。

同じ部屋に暮らしているとはいえ、お互い定時のない仕事をしているので、共にいる時間はそれほど多くない。

だからこそ、その時間が一層楽しいのも事実だ。

その席で、泰明が友雅と思わぬ再会をしたことを告げると、天真は箸を持ったまま、怪訝そうに眉を顰める。

「この前の雨の日に会った男って…?」

 顔を合わせたのが一瞬だった為か、天真は友雅のことを覚えていない様子だ。

「病院の中庭で伽野を助けてくれた男だ」

 足元で、小皿のミルクを舐めている伽野の小さな頭を、細い指先で軽く撫でながら、泰明がそう補足すると、

やっと天真は思い出したようだ。

「…ああ、あの男か。で?どんなことを話したんだよ?」

 思い出したと同時に、天真はやや不機嫌そうな顔になった。

 それを疑問に思いつつも、泰明は天真の問いに応える。

「その男、友雅というのだ。伽野に引っ掻かれた傷はもう大分良くなっていたぞ。友雅はあの病院に通院していて…」

 友雅と話したことを、泰明は殆どそのまま天真に伝えた。

 天真は時折、泰明が会った人のことや話した内容などを訊くことがある。

 泰明としても、それらは別段隠すようなことではないので、訊かれれば素直に話していた。

 しかし、今回は、沢から聞いた友雅の病気に纏わること、そして、柩のことについては、一切口にしなかった。

 何故か今回ばかりは、それらのことを口にすることが躊躇われたのだ。

 今まで天真には何でも話していたのに。

 気持ちの揺れを隠しておけずに、泰明の淡々とした口調に僅かな乱れが生じる。

長い付き合いの天真は、それに気付いただろう。

 食卓に片頬杖を突きつつ、泰明の話を最後まで聞いた天真は、泰明が唇を閉じると、僅かに逸らしていた目を戻す。

「泰明」

「何だ?」

「その友雅っていう奴さ、あんまり係わり合いにならない方がいいんじゃねえか?」

 唐突な言に、泰明はきょとんとして大きな目を瞬く。

「何故だ?」

「そいつ、会って二度目だってのに、お前の指にキスしたんだろ?」

「ああ。友雅は悪戯のつもりだったようだが、それが何故…」

 その件には全く注意を払っていなかった泰明は、不思議そうな瞬きを繰り返す。

あまりにも無垢、無防備な様子に、天真は大きく溜め息を吐いて、苛立たしげに長い前髪を掻き揚げ、ごちるように呟く。

「奴の悪戯がそれで済めばいいけどな…」

「??」

 腕を下ろした天真は、首を傾げる泰明を真っ直ぐ見詰める。

「悪いが、はっきりとした理由は言えない。ただの勘だからな。

だが、あいつは係わり合いにならない方が良いタイプだと思う」

 天真がこのようなことを言うのは初めてだ。

 戸惑いつつも、泰明は友雅に対する所感を口にしてみる。

「友雅は少しふざけ癖があるようだが、それほど悪い人間には見えなかったが…」

 すると、天真はもう一度溜め息を吐いた。

 それから、気持ちを切り替えるように、軽く微笑んでみせる。

「分かった。お前がそう言うんなら、あいつと今後係わり合いになるかどうかは、お前の判断に任せる。

ただ、俺の言ったことも覚えていてくれ。あいつといるとき…特に二人きりのときは、下手に無防備でいないこと。

そうすりゃ、万が一のときにでも、お前なら対処できるだろ」

 そう言えば、友雅自身にも「無防備だ」と、似たようなことを言われた。

 しかし、「万が一のとき」とは一体何を指すのか。

 確認したいと思ったが、天真があまりにも有無を言わさぬ雰囲気で、泰明を見据えているので、訊けなくなってしまう。

 ただ、天真が本気で己の身を案じてくれているのは分かったので、泰明は素直に頷く。

「…分かった。特に約してはいないから、もう会うことはないかもしれないが…もし、会うことがあれば、気を付ける」

「そうしてくれ」

 話を切り上げ、天真は再び箸を動かし始める。

 泰明もまた、食事の続きに入り、それからは、互いの仕事のこと、

次の休日が重なるときは、何処へ行くかなど、ふたりで楽しく話し合い、その日の夕食を終えた。

 

 

 それから、数日の間、泰明とまた逢いたいと言っていた友雅も、沢を通じて泰明を呼び出すということもなく、

これでもう彼との係わりも終わるだろうと頭の片隅で考えながら、泰明は日々の忙しさに追われていた。

 そんなある日の夕方である。

 久し振りに、午前で仕事が終わった泰明は、その日が休日であった天真と共に、近所のスーパーに買い物に出ていた。

 スーパーの出入口の辺りで、荷物を半分持とうとする泰明を、天真が押し止め、

少し膨れる泰明に、全体の三分の一の量の荷物を持たせる。

 一分の隙もなく、整い過ぎた美貌の為に、一見造り物の人形のような冷たさを感じさせる泰明と、

背が高く、凛々しく整った顔立ちだが、鋭い眼差しの所為できつさが際立ち、怖そうに見える天真。

そのふたりがそのようなやりとりをすると、不思議に可愛らしく目に映る。

スーパーの店員も、ふたりを知っている常連客も、ふたりのやり取りを微笑ましく見守っているのが常であった。

 

帰り道の途中の公園に差し掛かったところで、天真が親指でくいと、その出入口を指し示した。

いつもどおり、公園の中を突っ切って、近道をしようというのである。

泰明は頷いて、手にした荷物を持ち直し、天真に続いて公園に入った。

公園で遊んでいる子供たちは、そろそろ帰宅の時間なのだろう、

次々と砂場やブランコ、滑り台から離れ、迎えに来た親と共に公園を出て行く。

 天真と泰明が公園の中ほどに到るころには、殆ど人気が無くなっていた。

 ふたりは奥にある大きな木々に囲まれた小さな遊歩道を目指す。

 その遊歩道を抜けた先に、公園のもうひとつの出入口があるのだ。

 夕焼けに染まる遊歩道に入り、暫く歩んでいくと、ふいに人の声が聞こえた。

「何だ?」

 天真が怪訝そうに立ち止まり、泰明も歩みを止めて、耳を傾けた。

 甲高いトーンの、ふたりの女性の声。

 明らかに何事かを言い争っている様子だ。

「この遊歩道の先からだな」

 どうするかと、ふたりは一瞬目を見合わせる。

 それから、頷き合って、再び歩き出した。

 己に関係がないことでも、人が争っているのを見て見ぬ振りをするのは、気持ちの良いものではない。

 それに、興奮して言い争っている女性たちも、第三者が急に現れれば、我に返るかもしれない。

 曲がりくねった小道を歩いていくに連れ、言い争う声は大きくなる。

 やがて、天真と泰明の目に、睨み合う女性ふたりの姿が見えてきた。

 そして、彼女たちの向こう側にもうひとり…

「…!」

 まず、泰明が驚いて立ち止まり、続いて、前を行く天真が立ち止まった。

「あいつは…」

「友雅…」

 天真の呟きと同時に、泰明もまた呟く。

 そこにいたのは、友雅だった。

 ふたりの女性のうちのひとりにも、泰明は見覚えがあった。

 あの鮮やかな色模様のワンピースを着た女性は、二度目に友雅と会ったとき、彼を迎えに来ていた女性ではなかったか。

 そして、もうひとりの淡い色のスーツを纏っている女性は…

 そのときふと、泰明は雨の帳に紛れた白いワンピースを思い出した。

 あの雨の日に、友雅を迎えに来ていたのはこの女性だったのか。

 泰明はてっきり、同じ女性だと思っていたが、違っていたのだ。

 また、こうして見ると、女性たちは友雅の家族だという雰囲気でもなかった。

 少なくとも、気安い間柄ではない。

 彼らとはまだ、位置が離れているので、互いにまくし立てるように言い争う女性たちの言葉の内容までは聞き取れない。

 だが、彼女たちの様子を見ていると、どうやら言い争う原因は、共にいる友雅にあるようだった。

 泰明に分かったのはそこまでだったが、天真はその先まで察することができたらしい。

「やっぱり、ロクな男じゃなかったじゃねえか」

 苛立たしげに小さく舌打ちする。

 一方、友雅は目の前の女性ふたりが、自分のことで言い争っているのにも関わらず、

全く他人事のような表情で佇んでいた。

 或いは、実際に他人事のように感じているのかもしれない。

 優しげで虚ろな眼差しが宙を泳ぎ、ある一点でぴたりと止まる。

「!」

 目が合った泰明は、小さく息を呑む。

友雅の碧い瞳が己に向かって焦点を結んでいくのが、離れていても、はっきりと分かった。

次の瞬間、

「泰明!」

整った唇を綻ばせた友雅が、名を呼んだ。

 その僅かな艶を孕んだ穏やかな声は、いやに大きく響き、同時に、女性たちの言い争う声がぴたりと止んだ。

 我に返った女性たちは、どこか呆然とした様子で友雅を見る。

 その視線を全く意に介さない様子で、友雅は女性たちの間を擦り抜け、泰明に向かって近付いてくる。

 女性たちの容赦ない視線が、己にも集まってくるのを感じて、他人の目には無頓着な泰明も居心地が悪くなってきた。

「こんなところで逢えるなんて奇遇だね。逢えて嬉しいよ」

 それなのに、友雅は穏やかに、泰明に話し掛けてくる。

「あ、ああ…」

 何とか、応えた泰明に向けられる女性たちの視線に、次第に棘のようなものが混じり始める。

出来れば争いを止めさせようと、こちらに来た筈だったが、もしかしたら、己が更に状況を悪化させたかもしれない。

 彼女たちの痛い眼差しに、泰明は何とはなしにそう気付かされた。

 すると、泰明の変化に気付いた傍らの天真が、泰明を守るように女性たちを睨み返した。

 きつく睨まれ、女性たちはびくりとして、泰明から目を逸らす。

 女性たちを萎縮させておいて、次に、天真は強引に泰明と友雅の間に割って入る。

「おや、騎士殿もいたのだね」

「ああ、そうだよ。お前は泰明しか目に入ってなかったみたいだけどな」

 女性たちに向けたもの以上にきつい眼差しで天真に睨まれても、友雅は一向応えた様子はない。

 愉しそうに小さく笑う。

「ねえ…」

「ちょっと…」

 ふたりの女性が、それぞれ縋るような調子で友雅の背に呼び掛けるが、友雅は振り向かない。

「買い物の帰りかい?」

まるで彼女たちがいないかのように、泰明に問う。

「あ、ああ」

 泰明は戸惑いつつも頷く。

「もしかして、この近くに住んでるのかい?」

「そんなのあんたに関係ないだろ」

 友雅の問いを天真が遮る。

「言っておくが、ふたりきりになるのを狙って、泰明の家を訪ねるつもりなら生憎だったな。泰明は俺と一緒に暮らしてる」

「おや、それは残念。では、君がいないときを狙うかな」

「何だと…!」

 揶揄するような友雅の口調に、思わず天真が気色ばんだ、そのとき。

友雅の背後で立ち尽くしている女性たちが、耐え切れなくなったように、身を翻した。

 ワンピースの女性は憤然と、スーツの女性は涙ぐみながら、次々に小走りでその場を後にする。

「あ…!」

 友雅の肩越しにその様子を正面で目にした泰明が、内心慌てて友雅を見上げる。

「友雅…」

「いいんだよ」

 言い掛ける泰明の言葉を、友雅はやんわりと遮った。

「そろそろ彼女たちの押し付けがましさに、うんざりしていたところだから」

 そう言葉を紡ぐ友雅の声音は、穏やかな口調とは裏腹に、突き放すように冷たかった。

その反応に泰明は戸惑い、天真は一層腹立たしげな様子となる。

「帰るぞ、泰明」

ぶっきらぼうにそう言って、天真は泰明の買い物の荷物を持っていないほうの手首を強引に掴む。

「っ!天真?!」

 驚きの声を上げる泰明に有無を言わせず、天真は泰明の細い身体を引きずるようにして、歩き出した。

 天真に強引に手を引かれながら、泰明は友雅に振り返る。

 そんな泰明に、友雅は柔らかく微笑んで、こう言った。

 

「またね、泰明」

 

…つまり、友雅氏は二股を掛けていたと。
問題ありな友雅氏の本領発揮です、すみません…余裕のある大人な友雅がお好きな方(汗)。
しかし、それは内面に抱えてる病の所為ということで、どうかお許しを(苦笑)。
さて、「離人症」とは、「自我や外界の実在感が希薄化ないし消失する現象。
この現象は通常、ウェルニッケの体験世界の分類を適用して、1)外界精神、2)身体精神、
3)自己精神の3領域に分けて記述される。…」(平凡社『心理学事典』)と微妙に??な解説がされておりますが、
上記で沢医師が言っているようなことだと、私は理解しています。違っている場合もあるかもしれません(苦笑)。
友雅氏が以前CDで「この世の全ては他人事」みたいなことを言ってたのを聞いて、
「この感覚がエスカレートしたら離人症になりそうだなあ、このひと…」と一瞬考えたのがこのネタの切っ掛けです。
しかし、この話の友雅氏の場合は、あくまでも「離人症」と似た症状があるということになっています。
そして、彼がこのような症状を起こすに到った原因については、
話の収拾が付かなくなりそうなので(苦笑)、今回は触れない方向で行くつもりです。
ちなみに、離人症を起こす原因として、解離性障害のような精神的外傷経験が潜んでいるとの見方がありますが、
友雅氏の場合はそこまで大きいものじゃなさそうな感じでひとつ(何)。
…と、少々小難しい話をしてしまいましたが、結局全ては、リクエストシーンに到るまでの布石なのです(笑)。

取り敢えず、目標のサードコンタクトまで書けました!
しかし、やっすんと友雅氏の仲(?)は進んでおりません。むしろ、後退?(汗)
やっすんはまだ、友雅氏に対する戸惑いの方が大きいみたいです。
一方、天真の友雅氏に対する警戒心は更に増した模様(苦笑)。
次回、急展開です!
あと2話くらいで話の収拾を付けたいなあ…という希望。

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