翠の柩 2

 

「安倍さん」

 午前の外来診療を終え、休憩に入ろうとしていた泰明は、呼声に振り返る。

 己を呼び止めた相手を認め、怪訝そうに瞬きをした。

「お前は確か内科の…」

「沢(サワ)だよ。まだ、覚えてくれていて良かった」

 泰明と同じく白衣を着た男が、ほっと息を付く。

「同期の医師を忘れはしない」

「だが、研修が終わってすぐに、僕は内科に、君は外科に配属されただろ。少し不安だったんだ」

 この時間の病院の廊下は、医師や看護士はもちろん、患者やその見舞い客が行き交い、かなりの賑わいだ。

 当の本人だけは知らないが、この病院一の美貌の医師と噂される泰明に、何とか気付いてもらおうと、

騒がないようにアピールする来院女性たちには一向気付くことなく、泰明はすたすたと沢へと近付く。

「どうしたのだ?わざわざ訊ねて来るなど、何かあったのか?」

「君は相変わらずだね」

 澄んだ瞳で真っ直ぐに見詰めて問う泰明に、沢は少し照れたように苦笑して、顔付きを改めた。

「申し訳ないんだが、君に頼みがあるんだ…ちょっと来てくれないか?」

 多くの人で賑わう病院の廊下では話しにくいことなのだと促され、

泰明は怪訝に思いつつ、沢の後に付いて外科病棟を出た。

 

 人通りの少ない中庭を囲む渡り廊下までやって来て、泰明はふと、先日の雨の中で出会った男を思い出す。

ちょうどそのとき、前を歩いていた沢が足を止めて、口を開いた。

「診療科の違う君に、こんなことを頼むのは気が引けるんだが…」

 そんな風に前置きをして、沢は言いにくそうに言を継ぐ。

「僕は今、心療内科に配属されているんだが…僕が担当している来談者の中にひとり…

一年位かな、症状は重くないけれど、長く通院されている方がいらっしゃってね。

…実はその方が、君に会いたいと希望されているんだ」

「……何故だ?」

 予想外の言葉に目を瞠って訊ねる泰明に、沢は苦笑して肩を竦めた。

「さあ。急に君の名前を出して、会ってみたいと言ってね。いつも確かなことは仰らない方なんだよ」

 泰明は柳眉を顰めて首を傾げる。

 今だかつて、担当外の患者にこのような呼び出しを受けたことはない。

そんな泰明を沢が気遣わしげに見る。

「どうかな?安倍さん。会って貰えるかな?」

首を捻りつつも、泰明は頷く。

「何故、担当でないところか、診療科も違う私を指名したのかは不可解だが…

訪れる診療科が違っても、その者がこの病院の患者であることに違いはないだろう。

その要請を断る理由はない。何時だ?」

相手は何時己に会いたいと言っているのだと訊ねると、沢は更に言いにくそうに応えた。

「今、その方は、中庭の奥のベンチにいらっしゃるんだ」

 泰明はひとつ大きな瞬きをする。

「今か?」

「突然で申し訳ない。時間は大丈夫かな?」

泰明は今日これからの予定に思いを巡らしてから、再び頷く。

今日受け持つ外来診療は午前のみで、午後は自身の研究に費やすつもりでいたのだ。

その一部の時間を来院者との会話に費やすくらい、どうということはない。

「それじゃあ、頼むよ。僕はここで待っているから。その方は安倍さんとふたりで会うことをご所望なんだ」

「分かった。何か私が留意すべきことはあるか?」

「いや、何も特別なことはしなくていい。ただ、彼の話を聞いてくれればいいよ。

カウンセリングめいたことをする必要もないしね」

「…承知した」

 詳しいことはまた後で、と沢に送り出され、泰明は中庭へと足を踏み出した。

 元々、ひとと会話することが得手ではなく、正直気は進まなかったが、

これも仕事のうちだと割り切り、泰明は歩を進める。

 明るい陽射しに青々と輝く木々の葉が、通り過ぎる風に愉しげな囁きを零す。

 呼応するように樹上で囀る鳥の声。

 それらに知らず張り詰めていた気を解されて、泰明はひとつ息を吐く。

 そうして、目を上げた先にいたのは見覚えのある人物だった。

泰明は思わず立ち止まって呟く。

「お前は…」

正面のベンチにゆったりと腰掛けて、泰明を待ち受けていたのは、つい先ほど泰明がふと思い出した、あの男だった。

 

「…ああ、やはり君だった」

 そう言って、男は端正な口元を綻ばせる。

「…お前が患者だったのか」

 意外の念を隠さずに言うと、男はあの日と同じように、くすり、と笑った。

「そうだよ。何だと思っていた?」

 訊ねながら、泰明を手招きする。

「通院する患者の付き添いなのかと思っていた。あのとき、お前には何処も悪いところは見受けられなかった」

「私の悪いところは、直接目で見ることができないからね」

 他人事のように言いながら、男は微笑む。

 そうして、招かれて隣に腰を下ろした泰明を見詰め、唐突に言った。

「良かった。ちゃんといたね」

「何のことだ?」

 不可解そうに細い眉を寄せる泰明に、男は微笑みながら不可思議な応えを返した。

「あの雨の日、出逢った君は、もしかしたら、幻かもしれないと思っていたんだ」

「何故だ?」

「…君があまりにも綺麗だったから」

 臆面もなくそう言い放ち、男はじっと泰明を見詰める。

「全てに白い紗が掛かったような景色の中から、現れた君は美しくて儚げで…

それでいて、淡い光を纏っているように、鮮やかにこの目に入ってきた。

あのとき、確かに言葉を交わして、手も触れて君の存在を確かめた筈なのに、別れた後、何だか不安になってしまってね。

もしかしたら、君は煙る雨の中で、私が生み出した妖精か天使かもしれないと」

「…埒も無いことを」

 泰明は再び呆気に取られ、次いで、呆れた声音を隠そうともせずに言い放った。

「私はそんなものではない。お前と同様の人間だ」

「そうみたいだね。安心したよ」

 くすくすと愉しげに笑いながら、男はさり気なく手を伸ばす。

 邪魔にならぬよう後頭部の少し高めの位置で、ひとつに束ねている泰明の癖の無い翡翠色の髪が微風に揺れている。

 手元に流れてくるその幾筋かの長い絹糸の先を、男の指が戯れに捉えた。

「…でも、こうして明るい陽射しの中で見ても、君はやはり綺麗だね。それも小雨の見せる幻覚ではなくて良かった」

「戯言を言う」

 己の容姿には全く無頓着である泰明には、男の褒め言葉は疑わしいものだった。

素っ気無く言い捨てる泰明を、それでも、男は愉しそうに見詰めている。

「戯言なんかじゃないよ。君を目にした人は残らずそう思う筈だ。現に、この病院でも、君は有名人じゃないか。

私も噂は聞いていたけれど、本当に…いや、噂以上だね。そんなひととこうして話が出来るなんて光栄だよ、安倍先生」

「「先生」はよせ」

 それだけは聞き捨てることが出来ずに、泰明は口を挟む。

「お前は私の担当する患者ではない。何より、「先生」という呼び方はあまり好きではない。

そもそも医師と患者の間に、立場の上下は無い筈だ」

「それが君のポリシーなんだね。承知したよ。じゃあ、泰明」

「…それでいい」

 いきなりの呼び捨てに、泰明は少々面喰らいつつも、淡々と頷く。

「ああ、そう言えば、私のほうの自己紹介がまだだったね。沢先生から聞いているかい?」

「いや」

「そう。私は橘友雅。「友雅」と呼んでおくれ」

「分かった、友雅」

「では、改めて宜しく。泰明」

 指に絡めた泰明の髪をゆっくりと手放しながら、男、友雅は泰明を見詰めて、柔らかい輪郭を描く瞳を細めた。

 

「あの猫…伽野は元気?」

一瞬の沈黙の後、思い出したように友雅が問うのに、彼の不意の言動に少し慣れた泰明は、動じることなく応える。

「ああ。今日も自由に外を出歩いている筈だ。お前の傷の具合はどうだ?」

「大分良くなったと思うよ、多分」

「多分?」

「診てくれないかな?泰明」

 妙な言い方をすると、首を傾げる泰明の前に、友雅が傷のあった手を差し出す。

 泰明は素直にその手を取り、ガーゼを外して、傷の具合を診た。

「殆ど傷は塞がっている。念のため、もう一度消毒をして…あとは絆創膏を貼るだけで充分だろう」

 医師の性で、再び手持ちの救急セットを取り出し、泰明は自らの手で言ったとおりの処置を施す。

 処置を終えて手を放そうとすると、友雅の手がくるりと翻り、再び泰明の細い手を捉えた。

「…っ何?」

「無防備だね、君は」

 くすくすと笑いながら、友雅は捉えた泰明の手を引き寄せる。

「そんなところもとても好ましいとは思うけれど、少しは警戒をした方がいいかもしれないよ?

特に私のような男とふたりきりの時はね」

「言っている意味が良く分からないが…?」

問い返すと、友雅が小さく笑う。

微笑む友雅から、初めて出会った日に感じたのと同じ違和感が漂ってくる。

「ああ、そうだ。君にも訊いておこうかな…」

「…?」

 

「私にはどんな柩が合うと思う?」

 

 次の瞬間、耳に飛び込んできた唐突過ぎる問いに、泰明は目を瞬く。

「柩とは…故人の遺体を納めるあの柩のことか?」

「そう。その柩だよ。君は、私の遺体を納める柩はどんなものが良いと思う?」

「……そうだな…少なくとも、普通より大きいものの方が良いのではないか?」

 半ば唖然としながらも、泰明は友雅の問いに思い付いたまま応える。

 友雅は背が高いから、その分柩も大きくなければならないだろう。

 すると、目の前の碧い瞳が丸くなった。

「どうしたのだ?」

 相手の驚いた様子に、泰明も面喰って問うと、友雅はくすくすと心底おかしそうに笑い出した。

「何なのだ、一体…」

 そんな友雅の反応が不可解で、泰明が華奢な首を傾げる。

「いや…そんな風にまともに応えてくれたのは、君が初めてだったから」

 そう応えながら、友雅はようやく笑いを収める。

 口元に笑みの気配を残しつつ、泰明を見返す。

「私がこの質問をするとね、皆決まって何故そんなことを訊くのかと訊き返して来るんだよ。

そうして、きっと良くなるから気を落とすなと励ましたり、そんなことを言うなと叱ったりするのが大概の反応でね。

…相手が女性だとそう言いながら、泣き出す場合もあったかな。私が欲しい答えはそんなものじゃないのにね」

「私もお前が何故、そんなことを訊くのかは訊きたいが」

 そう泰明が口を挟むと、友雅は気を悪くした風もなく、笑みを宿した声で応える。

「だって、ひとは遅かれ早かれ必ず死ぬだろう?

ならば、生きているうちに、そのときのために予め自分に合う柩を用意しておくのも悪くないと思ってね」

「そうか」

 そんな考え方もあるのだろうと、泰明が素直に頷くと、友雅は、くすりと笑みを零す。

「良かった。君が幻でなくて。私の想像以上に優しいひとで」

「私はそれほど優しくはない」

そう返して、顔を上げた泰明と友雅の目が合う。

「優しいよ。君は身も心も綺麗なひとだ」

 噛み締めるような口調で言いながら、友雅は引き寄せた泰明の細く整った指先に口付ける。

「…っ!?」

 瞬間、口付けられた場所からだろうか、ピリッとした鋭い痛みを感じて、泰明は反射的に己の手を引き戻す。

 あっさりと泰明の手を放した友雅が、僅かに苦笑した。

「驚かせてしまったかな?」

「…いや」

 今の感覚をどう言い表せばよいのか分からず、泰明は暫し逡巡する。

 それから小さく溜め息を付いて、言葉を発した。

「すまない。何でもないのだ」

「謝らなくていいよ。質の悪い悪戯を仕掛けたのは私のほうだしね」

 優しげな笑顔。

 穏やかな声。

 それなのに、時折、帳一枚隔てたように遠く、よそよそしく感じられる。

 ふたりの間を風が通り過ぎる。

 その風が翡翠色の真っ直ぐな髪と碧色の波打つ髪を靡かせ、

それぞれの肩に落ち着こうとするとき、芝生を踏む足音が聞こえた。

 その音に友雅の視線が先に逸れる。

「ああ、迎えが来た。残念だけど、今日の逢瀬の時間は終わりのようだ」

 友雅の視線を追って振り向くと、ふたりが座るベンチからは、まだ少し離れている場所で、

鮮やかな色彩のツーピースを着た女性が、泰明に向かって会釈した。

あの雨の日、友雅の迎えに来ていた白いワンピースの女性かと、泰明は当たり前のように判断しかけ、

「…?」

どうもあの女性とは別人のような気がして、首を傾げる。

 しかし、あの日は雨で、その上遠目だったので、恐らく気のせいだろう。

「それじゃあ、泰明」

「…あ、ああ」

 ベンチから立ち上がった友雅に声を掛けられ、我に返った泰明も立ち上がる。

「また、君に逢うことができて嬉しかった。柩についての貴重なご意見も有難う。参考にさせてもらうよ」

「あまり参考にならないと思うが」

「そんなことはないよ」

 友雅は少し笑い、泰明を見詰めた。

「君と話をするのは想像以上に愉しかった。また、君にこうして逢える日を愉しみにしているよ」

 そう言葉を残し、友雅は泰明から離れていく。

 ゆっくりとした足取りで待っていた女性の元まで行き、やがて連れ立って歩き出す。

 友雅がその女性に向けた微笑みを見て、泰明はやっと、彼からときどき漂ってくる違和感の正体に気が付いた。

 彼の穏やかで優しげな笑み。

…遠い笑み。

 

そこに滲むのは、寒々とした虚しさだった。

 

やっと、友雅氏の名前が出てきました。
セカンドコンタクトにして姫への、指先ちゅうを成功させた彼ですが、
ますます問題がありそうな匂いも増して来た模様(苦笑)。
ホントは、友雅氏の病名(いちおうちゃんと決めてあるのです)が明らかになるところまで話を進めたかったのですが、
思いの他再会シーンが長引いてしまい…天真の出番もなし(苦笑)。
それは偏に、口説きを交えながら会話する友雅氏の所為なのだと思われます。
やはり、病院一の美貌を誇る姫を前にしては、ストーリーの進行を妨げてでも、口説かずにおれないんでしょうねえ…♪(笑)
まあ、そんな場面を書いてるこちらも愉しかったので、良しとします(自己満足)。
もしかしたら、友雅氏の病名を既に察してらっしゃる方もいるかも…というか、病気にしちゃっていいんでしょうか?
リクエストくださった紅子様は大丈夫(?)なご様子なのですが、
他の友雅ファンの方に怒られやしないかと内心ドキドキです(汗)。
…しかしながら、今更方向転換は無理なので、このまま行きます。

次回、友雅氏の病名が明らかに。今度は天真も登場します。
そして、できれば、やっすんとのサードコンタクトまで、話を持って行きたいなあ…

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