翠の柩 4
小雨が降りしきる。 まだ、夕刻ではないが、この天気に遊ぶ子供はおらず、公園は静まり返っていた。 近所の本屋へ取り寄せを依頼していた本を取りに行っていた泰明は、 雨にけぶる公園に足を踏み入れ、真っ直ぐに近道となる遊歩道を目指す。 囁くような雨音は、周囲の静けさを一層際立たせる。 早く家に帰って、本を開きたい気があるので、自然泰明の足取りは速くなる。 踵が小さな水溜りを踏んで、飛沫が跳ねた。 ところが、遊歩道に入ったところで、ふと歩む速度が緩む。 この場所で偶然出会った相手に思いを巡らそうとする。 その手前で当の相手を実際に目にして、泰明は思わず目を瞠った。 白く霞む雨糸の帳の向こう側。 木立の間に、彼は初めて出会った日と同じように傘を差さずに佇んでいた。 しかし、こちらに背を向けている彼の様子がおかしい。 やや前屈みの姿勢で、荒い呼吸を繰り返しているのか、その広い肩と背中が波打っている。 その背に振り掛かる濡れた髪も重たげに、大きくうねっていた。 足元も覚束ないのか、木の幹に片手を突いている様子に、尋常でないものを感じ、 彼にはもう近づくなと言った天真の忠告も忘れて、泰明は彼の傍へと駆け寄った。 「友雅!」 名を呼びながら、その顔を覗き込むと、友雅は苦しげな息を吐きながら、伏せていた顔を僅かに上げた。 濡れた髪の合い間から覗く虚ろな瞳が宙を彷徨う。 「どうした!胸が痛むのか?!」 友雅が片手で己の胸を掴むように抑えているのを見て、泰明は問い掛ける。 発作でも起こしたのかもしれない。 泰明は表情を引き締め、抱えていた本を、傘を持った腕に抱えなおして、空いた手を伸ばす。 問い掛ける澄んだ声音を辿るように動いた友雅の碧い瞳が、泰明の翠と橙の瞳とかち合った。 その瞳に、確かに捉えられたと感じた瞬間、 友雅の身体を支えようと伸ばされた泰明の細い手が、逆に友雅の手に捉えられる。 「っ…!友雅?!」 そのまま、手荒に引き寄せられ、泰明の華奢な身体は、瞬く間に友雅の腕の中に閉じ込められる。 ビニール袋に入れられた本が泰明の腕から離れ、濡れた芝生の上に、ばさりと落ちる。 傘は僅かに空に舞い上がり、やや離れた場所に逆さまになって転がった。 腕も胸も脚も、触れていないところが殆ど無いほど密着した状態で、強く抱き締められ、 その息苦しさに思わず泰明は仰け反るように顔を上げる。 「とも…っ…!?」 名を呼ぼうとした唇が、友雅の唇に塞がれた。
瞬間。
(痛い…!)
指先に口付けられた、あの日よりも鋭く強い痛みが全身に走る。 驚いた泰明は反射的に、己を拘束する友雅の身体を突き飛ばそうとする。 だが、その為に上げ掛けた腕を、途中で止めた。 この痛みは、友雅が抱えている痛みではないかとふと、思ったからだ。 目には見えない、心の痛み。 ただの思い過ごしかもしれない。 だが、もしそうであるのなら…
突き放してはいけない。
泰明の華奢な身体を容赦なく抱き締める腕や、深くえぐるような口付けにも、気付けば縋るような気配がある。 泰明は苦痛に耐えながら、上げ掛けた腕を動かす。 そうして、そっと相手の広い背中に腕を回した。 触れたその背が僅かに震えたような気がした。 泰明は波立つ心を、友雅の心ごと宥めるように、瞳を閉じて、ふたりを取り囲む雨と木々に意識を向ける。 囁くような雨音。 翠の葉から次々に滴る雫。 合間に零れる葉擦れ。 それらの声に優しく撫でられ、泰明の心は徐々に落ち着いてくる。 同時に、身を苛む苦痛も徐々に和らいできた。 友雅の痛みも同じように和らいでいると良い。 そう思いながら、泰明は友雅の腕にその身を任せていた。
どれくらいそうしていただろう。 ふと、友雅が抱き締める腕を緩め、長い口付けから泰明を解放する。 「…っ…!」 力が抜けて、そのまま崩れそうになった泰明の細い身体を、友雅の腕が今度は優しく抱き留める。 「…すまなかったね、泰明」 濡れて紅味を増した泰明の柔らかな唇を、指先で軽く拭いながら、友雅はやっと言葉を発した。 口付けの余韻で、息も絶え絶えとなりながら、泰明はどうにか言葉を紡ぐ。 「お前…は…だい…じょうぶ…か?」 その言葉に、友雅は碧い瞳を瞠り、それから苦笑した。 「それはこちらの台詞だよ。君こそ大丈夫かい?何処か傷めたところはない?」 「…大丈夫だ。問題ない」 「良かった」 ようやく落ち着いた泰明が頷くと、友雅は微笑み、その細い背中を優しく撫でてから、腕を解いた。 「いきなり、乱暴なことをして、驚いただろう?本当にすまなかったね」 口元から笑みを消し、僅かに表情を曇らせて謝る友雅に、泰明は首を振る。 「驚いたことは驚いたが…それよりもお前はどうなのだ?もう大丈夫なのか?」 「…ああ、もう大丈夫だよ」 真摯に問う泰明をはぐらかすように、友雅は微笑む。 そうして、足元に落ちている泰明の本を拾いながら、何でもないことのように言葉を紡ぐ。 「時々あるんだ。発作のようなものだよ…良かった、中は無事のようだね」 泰明に拾った本を渡し、今度は転がった傘を拾いに行きながら、言葉を続ける。 「時々だけどね、自分の存在がこの世から消えてしまいそうな… いや、既に消えて、なくなっているんじゃないかという強い不安に捕らわれるんだ。 そうなると自分を繋ぎ止めるために、誰彼構わず縋り付かずにいられなくなってしまう… 後々厄介なことになることもあるから、そういうときは、なるべく独りになるようにしているんだけれどね。 だが、今日は君を巻き込んでしまった…大分濡れてしまったね。風邪を引いたりしなければ良いけれど」 反省している、次からは気を付けるよ、と、苦笑しながら傘を差し掛けてくる友雅を、泰明は真っ直ぐ見詰めた。 「本当に…大丈夫なのか?」 「ああ。さあ、風邪を引かないよう、君は早くお帰り。こんな男で宜しければ、家までお送りするよ」 にっこり微笑む友雅を、冴えた眼差しで泰明は見据える。 差し掛けられた傘を受け取り、それを今度は友雅に差し掛けながら、彼と肩を並べる。 「送っていく」 「え?私を?」 目を丸くする友雅に、泰明は頷く。 「発作を起こしたばかりの人間を、ひとりで家に帰す訳にはいかない。私がお前を家まで送っていく」 「いや、発作のようなものとは言ったけれど、本当に発作という訳ではないんだよ?」 「分かっている。お前を家まで送るというのは、私の医者としての判断だ」 「…そう言われると、断り辛いんだけどね…私は本当にもう平気なんだよ? それに、もしかしたら、途中まで迎えが来ているかもしれないし…」 「では、途中までだ。途中まで送っていく」 強情に言い張る泰明に根負けした友雅は、肩を竦めて苦笑する。 「これ以上、押し問答を続けて、君の身体を冷やす訳にはいかないからね。 仕方がない。此度は姫君の仰せのままに従うことにしよう」 ややおどけた口調で言いつつ、差し掛けられた傘の柄を取り、泰明の代わりに傘を持った。
「友雅はこの辺りに住んでいるのか?」 「そうだね。住所としては隣町になるけれど」 「隣町から、あの公園までわざわざ来たのか?」 「私の住んでいる町には、あまり居心地の良い公園がないんだよ」 「そうなのか」 ふたりでひとつの傘を差して、通りを歩く。 途中、擦れ違った数人の反応に、友雅がくすりと笑みを零した。 「ねえ、泰明」 「何だ?」 「今擦れ違った人は、私たちをどんな関係だと思っているんだろうね?」 「?そのようなことはいちいち考えないのではないか?」 自分がどれほど目立つかの自覚がない泰明は、ほっそりした首を傾げてそんな風に応える。 その反応に、友雅は再び面白そうに笑った。 「ふふ…そうかもしれないけどね。恋人同士に見られていると良いな、とつい期待してしまったのだよ」 「また、そのような戯言を…」 困ったように柳眉を寄せる泰明に、笑みを含んだ視線を向け、友雅はふと口調を変えた。 「有難う、泰明」 唐突な言葉に、泰明はきょとんとした顔をする。 「??何がだ?」 「『発作』を起こしているときはね、誰かに縋っていてさえも、私は「独り」だった… 私以外の誰も、私の痛みや不安を理解できず、私はひとりでそれらが通り過ぎるのを待つしかなかった。 それが当たり前だと割り切ってもいた…だが、今日は違った」 そこで友雅は歩みを止め、傍らの泰明を見詰める。 「君は私の痛みを確かに感じ取り、受け取ってくれた。そう感じたのは、私の都合の良い思い込みかな?」 泰明は考えるような間を置いた後、頷く。 「…良く分からない。だが、お前に触れられたときに感じた痛みがそれならば、恐らく…」 泰明の肯定に、友雅は安堵したような溜め息を吐いた。 「君が私の痛みを受け取って、癒してくれたのかもしれないね。 だからかな、今日は『発作』が治まるのがいつもより早かったよ、有難う」 「私はお前の痛みを受け取っただけだ。お前を癒し、私を助けたのは、雨と…木々の緑だ」 「雨と木々が…?」 「私は幼い頃から、動植物などの自然が発する気のようなものを感じ取ることが出来るようなのだ。 信じられないかもしれないが…」 そこで、泰明は一旦言葉を切る。 この珍しい泰明の体質を、始めから疑うことなく受け入れてくれたのは、天真だけだった。 大抵の者は、まず首を傾げ、次いで、泰明に疑いの眼差しを向ける。 友雅も不思議そうな顔をしている。 しかし、それは当然の反応なのだ。 泰明は気を取り直して、言葉を継ぐ。 「…だから、私に礼を言う必要は無い」 泰明の言葉に、不思議そうな表情を改めた友雅は、優しく微笑んだ。 「それでも、君が感じ取った自然の気を私に分け与えてくれたから、私は癒されることが出来たのだろう? 君がいなければ、そんなことは起こらなかったのだから、やはり、君のおかげだよ」 有難う、と囁くように言う友雅の瞳に、泰明の言葉に対する疑いの色は無い。 その碧い瞳には、時折、漂っていた虚ろな気配もなく、ただ泰明の姿が映っていた。 「不思議だな…初めて出逢ったときから、君の姿は鮮やかに私の目に映った。 今日も…帳に遮られたように霞む視界の中で、君の姿だけは、はっきりと見ることが出来たんだ。 それは君が綺麗だからだと思っていたけれど…でも、それだけじゃない」 ふいに人通りが絶えた通りで、友雅はそっと空いている手を伸ばし、泰明の僅かに血の色を滲ませる白い頬に軽く触れた。 「今日、私があの公園に行ったのは、もしかしたら無意識のうちに君に会えることを期待していたからなのかもしれない… 何故だろうね?ひとつ見当を付けた答えがあるのだけれど…言ってみてもいいかな?」 「何だ?」 泰明は細い首を傾げ、素直にその応えを待ったが、友雅は小さく苦笑して、泰明の頬に触れた手を離した。 「いや、今はまだ、そのときではないかな…さて、あの通りを渡ると、隣町に入るね。 送ってくれるのはここまでで良いよ。有難う、泰明」 「え?しかし…」 「早く家に帰って温まらないと、本当に風邪を引いてしまうよ?さっき触れた頬が冷たかった」 渋ろうとした泰明だったが、友雅にそう指摘されて、己の頬に触れる。 確かに冷たい。 「私はこれくらいで風邪など引かな…っくしゅん!」 それでも、強情に言い張ろうとした言葉を裏切って、くしゃみが出てしまう。 「ほらね」 そんな泰明の様子に、友雅は軽く声を立てて笑う。 その笑い声には、何処か労わるような優しい響きがあった。 「…それに、このまま君に私の家まで付き合わせてしまったら、送って貰うだけでは済まなくなってしまいそうだから」 「?それは、どういう…」 泰明は、いつものように、把握し辛い言葉の真意を知るべく、問いを口にし掛けたが、ふと途中で口を噤む。 冗談めかした口調とは裏腹に、友雅の言葉には、別の何かが潜んでいるように感じられたのだ。 その何かに触れることになるだろう問いを発することが、何故か、躊躇われた。 困惑した表情のまま、黙り込んでしまった泰明に、友雅は再び苦笑めいた笑みを浮かべる。 「ではね、泰明」 泰明に傘を渡し、宥めるように泰明の小さな頭を、真っ直ぐに流れる髪に沿って軽く撫でてから、 友雅はゆっくりと身を翻す。 そこで、我に返った泰明は、慌てて声を上げた。 「お前も家に帰ったら、風邪を引かぬよう温まるのだぞ!」 振り向かないかと思ったが、友雅は泰明の呼び掛けに、肩越しに振り向いて微笑んだ。 「可憐なお医者様のご忠告、しかと肝に銘じておくよ」 そうして、先ほどの危なげな様子を微塵も感じさせない、しっかりとした足取りで、友雅は通りの向こうに消えていった。
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…この後の天真とやっすんの場面まで話を進めたかったのですが、ともやすシーンだけで終わってしまいました(苦笑)。 何はともあれ急展開で、急接近となったともやすおふたり。 そこで、結構激しい(?)ちゅうまでは行ったものの、結局「送られ狼友雅」までは実現に到らずで(苦笑)。 告白もまだなのに、そこまで即行したら、流石に節操なさ過ぎるかなと危ぶんだ訳です、友雅氏が!(責任転嫁か/笑) まあ、殆ど告白してるような言動はしまくってますが、 肝心のやっすんに通じてないので、告白したことにはならないのです!(笑) しかし、そのやっすんの心にも変化の兆しが! 次回は、クライマックスかな? やっとキリリクシーンが!(笑) …長引いたら、話が二回に分かれるかもしれませんが(汗)。 余談ですが、友雅氏の身を案じて、家まで送ると言う凛々しい(凛々しいか?/笑)やっすんが、密かにツボです♪ 「送り姫と送られ狼」(笑)という通常なら逆であろうシチュエーションが、何故か好きなのです。 あっ、でも、やす受が逆転することは絶対無いですから!!(何を今更/笑) 前へ 戻る 次へ