翠の柩 1

 

 囁くような微かな音を立てて、小雨が降る。

 細かな雨は、眼前にある中庭の緑や、その向こう側に広がる景色をも紗で被い、煙らせている。

 その様が却って遙かな奥行きを感じさせ、見慣れた勤め先である病院の中庭の景色も、ちょっとした別世界に見える。

 迎えに来ると言った相手を待ちながら、泰明は興味深げに、雨に彩られた中庭に見入っていた。

 ふと、その耳に、雨糸のささめきを縫うように、聞き慣れた仔猫の泣き声が届いた。

「…伽野?」

 泰明は確かめるようにその名を口にする。

 こんなところで、同居人の一人…いや、一匹である猫の声を聞くことは初めてだが、元々外出を自由にさせているのだ。

 泰明が知らなかっただけで、伽野はこの病院の中庭にも良く出入りしていたのかもしれない。

 とはいえ、今聞こえている伽野の声は切羽詰って助けを求めている。

(高い木の枝に登って、下りられなくなったのか…)

 人のように言語のやり取りは出来なくとも、不思議と泰明は、幼い頃から物言わぬ生き物…動植物の気持ちが分かった。

 むしろ、人よりも通じ合うところが多い。

 今も、訴えるような泣き声だけで、ほぼ事情を察し、泰明は渡り廊下の屋根の下から、小雨に煙る中庭へと歩み出した。

 ひっきりなしに鳴き続けている伽野の声を追って、泰明は躊躇うことなく、歩を進める。

 天の恵みを悦んで、一層鮮やかに葉の翠色を輝かせる木立を擦り抜け、

降り注ぐ雨に花弁を細かく震わせる花壇を通り過ぎる。

鳴き声が徐々に近くなってくる。

 すると、ふいに伽野の哀しげな鳴き声が途切れ、フーッ!!という威嚇の声に次いで、

興奮した声が響き、泰明は駆け出す。

「伽野!」

 名を呼びながら、生垣の角を曲がると、目の前に知らない男が立っていた。

 

 その大きな手の中で仔猫が暴れている。

 泰明の声を耳にするや否や、一層暴れ出し、ついにはその小さな脚で男の胸を蹴って、泰明の腕の中に飛び込んだ。

「その子は君の猫?」

 伽野の仕打ちを全く気にしていないように、目の前の男が穏やかに問う。

その問いに、泰明は宥めるように腕の中で縮こまる伽野の小さな背中を撫でながら顔を上げた。

 泰明と同じく傘を差さずに佇んでいる男。

 どのくらい雨の中にいたのだろう、緩い癖のある長い碧の髪がしっとりと濡れている。

 視線が合うと、男は僅かに碧い目を瞠った。

「?」

 泰明は細い首を傾げて男を見返す。

「私の猫ではない。だが、一緒に暮らしている」

 淡々と応えると、男は再び目を瞠り、次いでその目を笑みに細めた。

「面白いことを言うね。君はその仔猫の飼い主ではないの?」

「違う。私は伽野の主ではない。共に暮らしている仲間だ」

「君とその子は対等の立場だと言う訳だね。…面白いね」

 そう言って、本当にくすくすと笑い出した男を、泰明は更に首を傾げて怪訝そうに見る。

 随分と柔らかい雰囲気の男だ。

 背が高い。

 長身の部類に入る泰明と同じくらい、いや、それよりも高いだろうか。

 背は高くても、細身で華奢な泰明に比べて、目の前の男は、肩幅も広く、しっかりした男らしい身体つきをしている。

 それなのに、不思議と威圧感を感じない。

 優しげな瞳の輪郭と口調の所為だろうか。

 しかし…

泰明は微かに柳眉を顰める。

男の醸し出す雰囲気に、言葉に出来ない微かな違和感を覚えたのだ。

一方、当の男は、そんな泰明を、微笑んで愉しげに眺めている。

 

とにかく、彼が伽野を木の上から下ろしてくれたのは事実だ。

 それなのに、泰明と彼の同居人にしか懐かない伽野は、

知らない手に驚いて、助けられたにも拘らず暴れてしまったのである。

 それまで口にしそびれていた礼と謝罪の為に、泰明は再び唇を開き掛ける。

ちょうどそのとき、その男の手の甲にある大きな引っ掻き傷が目に入った。

「!怪我をしたのか!」

 泰明は驚き、男の傍に駆け寄る。

「…ああ。そうみたいだね」

 泰明に指摘されてやっと気付いたように、男は傷付いた手を見る。

「すまない。伽野が傷付けたのだな」

泰明は、みぃ、と鳴いて身じろぎする伽野を、肩の上に移動させて、

ジャケットの内ポケットから、携帯用の救急セットを取り出した。

「失礼する」

 一言断って、男の手を取り、手早く傷の手当を始めた。

 素人にしては無駄のない手捌きに、男が意外そうに問う。

「君は…もしかしてお医者さまなの?」

「ああ」

「この病院には割と良く来ているけれど、君のようなお医者さまがいるなんて知らなかったよ」

「お前が良く来ていると言ったのは、あの木立の向こうにある内科病棟だろう?」

「ああ、そうだね」

「ならば、顔を合わせないのも道理だ。私が勤めているのは、内科病棟とは反対側に位置している外科病棟だからな」

 この病院は、上空から見ると、鳥が翼を広げたような形をしている。

 広大な中庭を挟んで、内科病棟と外科病棟はそれぞれ翼の先端部分に当たる最も離れた場所に位置し、入口も違う。

 そう簡潔に答えて、泰明は手当てを終える。

 そうして、引こうとした手を、ふいに男が捉えた。

「何だ?」

 怪訝そうに問う泰明の瞳を見詰めて、男はゆっくりと微笑む。

「君に診てもらえる患者は皆、こうして君に触れてもらう度に、至福のときを味わうのだろうね」

「……?」

 唐突過ぎる言葉の意味が理解できず、泰明は呆気に取られて、男をまじまじと見詰め返してしまう。

 男はそんな泰明と目を合わせたまま、捉えた泰明の手を笑みを浮かべた唇へと持っていく。

「綺麗な瞳だ。澄んだ翡翠と黄玉の…宝石のようだね。

それに…綺麗な手だ。硝子細工のように繊細で、白磁か磨かれた象牙のように滑らかで…それでいて、柔らかい」

 微笑んだ唇に、細い指先が触れるかと見えたそのとき。

 

「こら、泰明!!」

 少し怒ったような声と共に、ぐいと泰明の頭上に、傘が差し掛けられた。

 その瞬間、ふっと男の手から力が抜けて、泰明の手は自由になる。

 弾かれたように振り向いて、声の主を認めた泰明は、大きな瞳を二三度瞬かせた。

「天真…」

 泰明の同居人で、最も親しい友人である茶色い髪の青年は、やや眉を顰めて泰明を軽く睨む。

「何で、約束した場所にいねえんだよ!探しちまったじゃねえか!!」

「…っ!すまない」

 伽野を見付けたら、すぐに戻るつもりだったのだが、待ち合わせの時間は疾うに過ぎてしまったらしい。

 差し出された傘を受け取りながら、肩を落として神妙に謝る泰明に、天真は腕を伸ばす。

「しかも、幾ら小雨とはいえ、傘も差さずに歩き回って…

風邪でも引いたらどうするんだよ?医者の不養生なんてカッコつかないだろうが!」

 言いながら、泰明の翠色の髪を、くしゃくしゃと掻き回すように撫でた。

 天真の言葉尻はきついが、その手は温かい。

 いつも…温かい。

 大好きな友人の気遣いに心を温められつつ、もう一度泰明は謝る。

「…すまない」

 心配を掛けてしまって。

「みゃあ」

 そのとき、泰明の声に被さるようにして、雨に濡れるのを嫌がって、

泰明の細い項と長い髪の間の温かい場所に、頭を潜り込ませていた伽野が顔を出して鳴いた。

「…って、ありゃ?伽野か!何でここに…」

 泰明の細い肩から、意表を突かれて驚く天真のしっかりした腕の中へ、伽野は、ぽんと飛び移る。

 そんなふたりの背後でくす、と小さな笑いが聞こえた。

 天真と泰明が同時に振り向くと、男は柔らかく微笑んだ。

「どうやら、姫君を守る騎士の登場のようだね」

 再び理解しがたいことを言われて、泰明は再び首を傾げる。

 一方、天真はもとより鋭い眼差しを更に鋭くさせて男を見返す。

「…どちらさん?」

 泰明を庇うように男の前へ出る天真。

「天真!」

 その様子が怒っているように感じられて、泰明はますます訳が分からなくなったが、

天真が目の前の男について、何か誤解をしているらしいことだけは察する。

 急いで天真の腕を掴み、己に注意を向けさせると、泰明はこれまでの経緯を簡単に説明する。

「…そうか、あんたが伽野を…」

 事情を知った天真の眼差しが少し和らぐ。

「悪かったな。怪我をさせた上に、睨んだりしちまって」

「いや、構わないよ。傷もきちんと手当してもらったしね」

 潔く自分の誤解を詫びた天真だったが、その瞳からまだ、警戒の色は拭われない。

 相変わらず、泰明を庇う立ち位置を守ったまま、そろそろ行くぞ、と肩越しに泰明に振り向く。

 それに逆らう理由はなく、泰明は素直に、こくんと頷いた。

「…あ、今更かもしれないけど、これ、使うか?こっちには二つあるし」

 伽野を肩の上に移動させ、開いた手で泰明の手を取りつつ、天真は自分が差していた傘を男に差し出した。

 すると、男が再びくす、と笑う。

「何だよ」

「いや、なかなか情け深い騎士だと思ってね」

「何だそりゃ」

 男は濡れて額に張り付いた前髪を掻き揚げつつ、眉を顰める天真に、笑みを返す。

「お気遣いだけ有難く頂くよ。もう充分濡れてしまっているから、これ以上濡れるのは気にならない。それに…」

 男の視線が、ふ、と脇に逸れる。

「こちらにも迎えが来たようだ」

 ではね、と軽く手を上げ、男はあっさりと身を翻す。

 後は振り返ることなく、ゆったりした足取りで遠ざかっていく。

「…何か、ちょっと変わった奴だな」

 やっと警戒を解いたらしい天真が、やや呆れたように呟く。

 が、すぐに気持ちを切り替えるように肩を竦め、泰明に振り向いた。

「さて!帰るか」

「…ああ」

「みゃう」

 天真の明るい笑顔に、釣られるように泰明は微笑んで頷く。

 泰明の応えに伽野が和し、天真は一層笑み崩れてから、泰明の華奢な手を軽く握って歩き出す。

 天真のすぐ後ろを付いていきながら、泰明は何かに引かれるように、そっと後ろを見遣る。

 白い紗に被われた景色に男の後姿が紛れていく。

そこに、傘を持って駆け寄る人影があった。

 辛うじて見えたのは、白い傘に、白いワンピース。

(…家族か)

 何となくそう考えながら、泰明は視線を前方に戻す。

 確かに、天真が言うように、変わった雰囲気の男ではあった。

理解し難い妙なことを言う。

 だが、そんな言動はともかく、良くこの病院に来ていると言ったあの男は、全く健康そのものに見えた。

 ならば、恐らく通院する家族の付き添いで、この病院を訪れているのだろう。

そう結論付けながら、泰明は心に引っ掛かるものを感じていた。

あの男から、一瞬漂ってきた違和感だ。

それが今も何故か、澱のように心に蟠っている。

 

(そう言えば、内科病棟には、心療内科が設置されていたな)

 

 ふと、そんな思いが頭を過ぎり、泰明は無駄な思考を振り切るように首を振った。

 

29000hitキリリクです。
リクエスト下さいましたのは、紅子様です。有難う御座います♪
…とはいえ、続き物です(苦笑)。
リクエスト内容にもまだ触れておりませんので、そこに到るまでリクエスト内容は伏せておきますね。

とある雨の日、勤め先の病院の中庭で、謎めいた…と言えば、聞こえは良いが、
その実、問題ありそうな匂いのぷんぷんする(笑)男性(名前出てませんが、友雅氏です)と出逢ったやっすん。
話としては、さてこれからどうなるか…という序章部分です。
当初の予定では、ふたりの出逢いはもっとあっさり目だったのですが、書いてみたらちょっと濃ゆ目になってしまいました…
おかしいな、今回は「ビタースウィート」(何)を目指していた筈なのに。
まさか、初っ端から友雅氏がやっすんに対して口説き体勢に入ってくれようとは…(笑)
可愛いやっすんを前にして、口説かずにはおれなかったんでしょうかね?(笑)

…あ、念のため、ここでご注意を。
てんやす現代版の設定と被っているところがありますが、このお話での天真とやっすんは、恋人同士ではありません。
あくまでも仲の良い友人同士であり、同棲ではなく、同居です。もちろん、お布団も別(笑)。
しかし、天真はやっすんに想いを寄せていて、やっすんも彼を大切に思っているので、
このまま何事もなく一緒に過ごして行けたら、恋人になれそう…という距離感。
そこに、新たな男が現れた!という感じで(笑)。
…いやはや、他にも一緒に暮らしてる猫の名前とか、色んな話の設定とごっちゃになってて、すみませんです(汗)。
それもまた楽しいと書いてる本人は思っているのですが(自己満足)、
御覧になってくださる方もそう受け取ってくださるでしょうか…(苦笑)

これまた縁起悪い(汗)タイトルに1と銘打ってありますが、それほど長い連載にはならないと思います。
暫しお付き合いのほどを宜しくお願い致します(平伏)。

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