幻夢ノ蝶 9

 

「来るか…」

 本館へ向かう渡り廊下の途中で、泰明は呟く。

 暗黒色の空に掛かる白い月が、薄墨色の雲に隠される。

 舞い降りた闇に招かれるように、何処からか煙のように霧が湧き上がり、瞬く間に辺りを満たした。

 応じて、泰明は歩き出す。

 黒い細身のジーンズに白いシャツという簡素な服装の上に、華やかな振袖を羽織った常どおりの出で立ちだ。

 羽織るのは、昼間アクラムに半ば押し付けられるように贈られた、桜の振袖。

 それは、泰明の艶やかな翡翠色の髪と共に、白い闇の中でも鮮やかに翻る。

「今夜で片が付くか?」

 変わらず、泰明の背後を守るように付き随う雷牙が問い掛けるのに、泰明は靄に閉ざされた前方を見据えながら、頷く。

「そのつもりだ」

 凛と澄んだ声音が、霧を纏った夜気に溶けていった。

 

 昨夜と同じくらい濃い靄だが、今夜は妨げられることなく、本館の玄関へと辿り着くことが叶う。

「どういうことじゃ?」

 雷牙は怪訝そうに眉を顰めたが、すぐに顔色を変えた。

「邪気が館の内部に集中している…」

 玄関ホールに佇んだ泰明もまた、鋭い眼差しで正面の螺旋階段を見上げる。

「邪気の源は…」

 

「何の用でしょうか、父上?」

 自室へ戻った後も、パソコンを開いて仕事をしていたアクラムは、突然訪れた当主を、溜息を堪えながら、出迎えた。

 夜更けで邸の使用人は全て、別棟で寝んでいる。

 アクラムは自ら、傍らの棚に置いてある洋酒のボトルとグラスを取り出し、部屋の中心に置かれた低いテーブルへ置く。

「今まで何をしていた?」

「御覧の通り、仕事ですよ。お蔭様でなかなか忙しくさせて頂いております」

 グラスに酒を注ぎながら、ささやかな皮肉を他人行儀なほどの丁重な口調に包んで応える。

「父上?」

 しかし、常ならば、断りもせずにソファに腰掛け、グラスを手に取るはずの父親が、扉の前で立ち尽くしている。

 訝しげに呼び掛けながら、アクラムが顔を上げると、当主は無表情に、息子を見据えていた。

「お前は私を、父だと認識しているのだな」

「…当たり前ではありませんか。何を仰るんです?」

 主の様子がおかしい。

 アクラムは整った眉を顰めて、改めて父親を見た。

 今までにはない気配を纏って、当主は立ち尽くしている。

「アクラム。この家の当主は誰だ?」

「勿論、父上です」

「だが、一族の者は誰一人として、そう思ってはいないようだぞ」

「そのようなことは…」

「嘘を言うな」

 低い声音で、当主はアクラムの言葉を遮る。

「嘘を…言うな…分かっているとも。皆が当主の私よりもお前を頼りにしていることは。

今、事業や邸内のことについて、全ての采配を揮っているのはお前だ。

何か事が起これば、皆はまず、私にではなく、お前に伺いを立てる…私はただの飾りに過ぎん」

 思わぬ非難めいた言葉に、アクラムは不快そうに更に眉根を寄せる。

「お言葉ですが、そのように仕向けたのは、他ならぬ父上ではないのですか?

私は当主である貴方の意向に従ったまで。そのように、責められる謂れはありません」

 そこまで言って、やや感情的になってしまったことに気付き、内心で舌打ちする。

 と、俯きがちに佇んでいた当主が低く笑い出した。

「…そう、分かっているとも。お前が出来の良過ぎる息子であることくらい。

周囲が、私が名ばかりの当主の座を一日も早く退き、お前が名実共に、一族の当主となること期待しているのも…」

「父上…っ!」

 突如として、父親の背後から黒い霧のようなものが湧き上がり、アクラムは目を見開く。

 霧は瞬く間に渦を巻き、凝ったかと見えると、無数の手となり、アクラムへと襲い掛かった。

 アクラムは驚愕しながらも、両足を踏みしめ、顔の前で腕を交差させて防御の姿勢を取る。

 果たして効果があるかどうかは分からないが。

 そんな考えが頭を掠めて、アクラムはうっすらと微笑む。

 そのとき。

「浄!」

 凛とした声が空間を切り裂き、黒い手の動きを止め、霧散せしめた。

 アクラムが顔を上げると、蝶を思わせる軽やかさで、泰明が駆けて来る。

 庇うように、アクラムに背を向けて立ち、正面へ白い手を翳す。

「結界を張った。これで、当主から発する邪気は、お前を捉えられない」

 泰明に続いて飛び込んできた雷牙は、未だ黒い邪気を発し続ける当主へと向かって身構える。

「生霊の類は儂に任せろ!」

 一方アクラムは、泰明の姿に目を細める。

「ほう、早速その着物を身に着けてくださったか。光栄ですね。澱んだ闇を祓う清らかな花のようなお姿だ…」

「お主はこの期に及んでまで、そのようなことをぬかすかッ!!」

 すかさず雷牙は怒鳴ったが、泰明は冷静な眼差しで、アクラムを一瞥しただけで、すぐに正面を向いた。

「つれないことだ」

 懲りずに戯言を吐いた後、アクラムはす、と細めた青の瞳に、冷たい光を宿す。

 泰明が手を翳し、気を張り詰めながら見据えているのは、当主のいる方向ではない。

「あの天狗が父を抑えているというのに、結界を張ったということは…次が来るか?」

 アクラムの問いに、泰明は振り向かぬまま頷く。

「そうだ。間もなく、当主の邪気に引き寄せられた死霊が集まって来る。怪異の源である怨霊もな」

 泰明の言葉に応えるように、徐々に周囲が靄が掛かったように白くなり始めた。

 



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