幻夢ノ蝶 8
不意に、肩にばさりと布を掛けられ、泰明は一瞬身を強張らせる。
「何だ?」
見下ろせば、見事な薄紅色の桜が染め抜かれた空色の振袖だ。
瞬きを一つして、所々に金、銀が散らされた鮮やかな着物から、背後へと目を向ける。
そこには、背高い金髪の青年が佇んでいた。
「母の形見だ。思ったとおり良く似合う」
端麗な唇に、冷たい笑みを浮かべながら、アクラムはそんな賞賛の言葉を寄越す。
「これは貴方に差し上げよう」
「母親の形見なのだろう?ならば、私は受け取ることは出来ない。もっと相応しい者に与えれば良い」
アクラムの申し出を、素っ気無く断りながら、泰明は着物を肩から滑り落とそうとする。
が、両肩を掌で包むようにやんわりと阻まれ、僅かに身を震わせた。
その無意識の反応に、アクラムが小さく笑みを零しながら、口を開く。
「そう言わずに受け取って頂きたい。残念ながら、我が家にはこの着物が似合う者がいないのでな。
かといって、このまま蔵で眠らせたままにして置くのも惜しい。が、下手な者に与えれば、誤解を招く元にもなる。
その点、貴方なら安心だ。尤も、貴方になら誤解されても一向に構わないのだが…」
「?何を誤解するのだ?」
「失礼。今のはちょっとした戯言だ。気になさるな」
僅かに柳眉を顰めて、困惑顔になる泰明に、苦笑めいた笑みを返し、言葉を継ぐ。
「これは、今回の依頼に対する報酬の一部とでも、考えて頂ければ良い。
昨夜、貴方が呪術を施す姿を見て、ふと、この振袖の存在を思い出しましてな…宜しければ、これでまた、貴方の術を披露して頂きたい」
だから、これは差し上げる、と半ば強引に押し付けた。
泰明は言い返そうと口を開き掛けるが、ふと、口を噤む。
もう一度、肩に着せ掛けられた着物を見詰める。
やがて、頷いた。
「期待に応えられるかは分からないが、善処しよう」
生真面目な応えに、アクラムはもう一度愉しげな笑みを零す。
ふと、光を纏っているかのような泰明の麗姿に、青い瞳を細める。
「これは想像以上か…」
「何がだ?」
零れた呟きを捉えた泰明が、きょとんと目を見開く。
華奢な肩を包むアクラムの掌に、僅かに力が篭る。
それを察したように、低い声音が二人の間に割って入った。
「お主、いつまで、泰明に触れておる?」
「おや、貴方もいらしたのか」
背後で気迫を漲らせて佇む雷牙に、アクラムは笑って、泰明の肩から手を離した。
「全く…油断も隙もない奴じゃな!!」
憎々しげに言う雷牙に、技とらしく肩を竦めて見せながら、アクラムは傍らのソファに腰を下ろす。
向かいのソファに座るよう泰明を促すが、泰明は首を振った。
ここはアクラムの居室。
朝から忙しくしていた彼が、やっと休憩に入った頃合いを見計らって、訪ねた泰明だった。
「それで、どうなのだ?」
泰明の問いに、雷牙と睨み合っていたアクラムが、怪訝そうに眉根を寄せた。
「…失礼。何のお話でしたかな?」
泰明は小さく溜息を吐き、アクラムを訪ねた理由でもあるところの質問を繰り返した。
「この邸の…お前の一族に恨みを抱いている者に心当たりはないか?」
「星の数ほど」
さらりと応えたアクラムは、ゆっくりと脚を組み、その上で手を組んだ。
「我が一族は時代を遡ると、この辺り一帯の地主でな…代々の当主の内には、無理な税の取立てをしたり、横暴を働く者もいたようだ。
当時の領民にはさぞ恨まれていたことだろう。気になるのなら、一族に関わる記録が残してある蔵へ御案内しよう」
「分かった。必要となったら頼む」
泰明はひとまず頷き、改めてアクラムを見詰めた。
「それでは、お前自身は?」
アクラムはす、と視線を動かして、泰明と目を合わせる。
が、すぐに逸らすように目を伏せ、皮肉気に笑った。
「流石に、星の数、とまでは行かないが、両手に余るほどではあるな。いちいち数え上げてはいられない」
「酷い奴じゃな」
「ビジネスである程度の成功を収めようとすれば、人の恨みを買うこともある。
それが逆恨みであることもしばしばだ。それら全てを気に掛けていては目的を達することなど出来ない」
口を挟んだ雷牙に、冷たい笑みを含んだ声で応え、優雅に微笑んで見せる。
「心当たりはない、ということだな」
「そういうことになりますな」
泰明が確かめると、アクラムは全く悪びれることなく頷いた。
「…失礼」
そのとき、携帯が着信を知らせ、一言断って、通話ボタンを押す。
通話相手の話に耳を傾け、一言二言指示を出してから、通話を終える。
「もう少し貴方のお相手をさせて頂きたかったが、仕事に戻らなければならないようだ」
「いや、こちらも休憩中のところに、邪魔をしてすまなかった」
そう言葉を掛けながら、泰明は立ち上がったアクラムを見上げた。
「もうひとつ訊きたいことがある」
「すぐにお応え出来ることですかな?」
「恐らく。お前は一族の事業だけではなく、邸全体のことも、中心となって切り盛りしているようだが、当主は何をしているのだ?」
「ああ…」
泰明の問いに、アクラムは嗤う。
「あの人の仕事は、公式の場で前面に出て、社交を愉しむことだ。
実際の経営や、邸内のこと等、面倒なことは全て人任せで、結構なことだ。こちらに余計な口出しをしないのが、せめてもの救いか」
皮肉交じりに、父親のことを語り、アクラムは部屋を出て行った。
「あ奴は、己の父親に随分と含むところがありそうじゃな」
雷牙の言葉を聞きながら、泰明はアクラムが去った扉を見詰めていた。