幻夢ノ蝶 10
白い闇の中から浮かび上がるように、突如として人影が現れた。
青い着物を纏った背高い青年。
ただならぬ気配を漂わせ、俯きがちに佇んでいる。
ふと、くすんだ灰色の髪が揺れ、金色に光る瞳が露わになった。
異様な光を宿すその瞳が、目前に佇む泰明と、その背後のアクラムを捉えて見開かれる。
「やはり貴方はその者を…」
絶望と諦めの入り混じる掠れた声音で青年は呟く。
「何故…私から全てを奪おうとする…私ノ…大切ナモノヲ……」
瞳の光を炎のように燃え上がらせ、睨み据えたのはアクラムだ。
異様な気配を一気に強める青年から、目線を外さぬまま、泰明が問う。
「この者を知っているか?」
「いや。誰かと間違えているようだな…貴方も含めて」
応えたアクラムは、皮肉気に嗤った。
「が、見間違えるということは、私の血縁である可能性は高いな。貴方のほうは分からないが」
そうして、す、と冷たい眼差しを泰明に向ける。
「どうやら、貴方はこの怨霊を知っているらしい。お手並みを拝見させていただく」
泰明は応えず、懐から呪符を幾枚も取り出す。
怨霊が霧を割って、凄まじい勢いでアクラムに迫る。
それに向かって、泰明は手にした呪符を一気に放った。
呪符は泰明の細い指から放たれると同時に、白い鳥へと姿を変え、矢のように飛翔し、怨霊へと殺到する。
思わぬ先制攻撃に、怨霊は動きを封じられた。
背後でアクラムが、ほう、と感嘆の声を上げる。
「今回は紙の式神か」
その呟きは聞き捨て、更に泰明は、怨霊に向かって式神を放ち、懐からもう一枚、今までとは別の呪符を取り出した。
それを揃えた指先で持って、口元に寄せる。
花弁の唇が低い声音で呪を紡ぎ出す。
「…縛!」
呪の詠唱が終わると同時に、符を高く掲げた。
符に記された呪言が青い光を放ち、怨霊と対峙する泰明の眼前に、同じ青い輝きを放つ五芒星が現れる。
それは瞬く間に解けて光の網となり、怨霊へと絡み付いた。
怨霊の動きを抑えていた鳥もまた、光の網に同化し、その動きを封じた。
怨霊が苦しげに呻く。
「これはまた、容赦のない」
アクラムの揶揄めいた言葉にも、泰明は眉一つ動かさなかった。
雷牙が抑える当主は、己の邪念に操られ、自我を失ったようになっている。
その身を傷付けぬよう、雷牙は黒い触手と化した邪気だけを引き摺り出し、浄化していた。
が、泰明が立て続けに式神を操っているのに気付き、振り向く。
「泰明!」
無理をするな、と口にしようとした瞬間、寄越された泰明の目線に、言葉の先を封じられる。
その凛と澄んだ眼差しは、何も言うな、手出しもするな、と言っている。
一切の干渉を拒絶する眼差し。
基本的に聞き訳が良い泰明だが、こうなると強情だ。
どんな無理を押してでも、己の意志を貫き、決めたことをやり遂げようとする。
雷牙は内心で溜息を吐く。
「大変だな」
心の内を見透かしたようなアクラムの言葉に、雷牙は凛々しい眉を顰める。
「誰の所為だ!」
「これでも少しは申し訳なく思っているのだがな。私に出来ることがあれば、お手伝いしよう」
微かに笑みを含んだ真意の知れない応えに、雷牙は再び浄化に集中しながら、忌々しげに言葉を返す。
「お主の出来ること…いや、やるべきことは一つ。お主自身が怨霊に喰らわれぬよう、その身を守ることだ。それ以外にはない」
「…なるほど」
アクラムは頷き、改めて傍らの細い背を見る。
「少々もどかしいか……」
聞こえるか、聞こえないかの声音で呟いた。
部屋に満ちる邪気に導かれて、昨夜の紅い手が現れる。
が、それは昨夜に比べて数が少なく、透けていた。
訴えるようにアクラムに向かって伸ばされた手は、届く手前で見えない壁に遮られる。
泰明の張った結界が作用しているのだろう。
これらは恐らく、長年を掛けて積み重なった一族への恨みの形だ。
だが、それら全てをアクラム一人が引き受けることは出来ない。
アクラムは冷えた無機質な眼差しを紅い手に注ぐ。
その冷気に耐え兼ねたように、幾つかの紅い手が霧散した。
ちょうどそのとき。
怨霊と対峙していた泰明が、足を踏み出した。
「何処へ行く」
思わず、アクラムはその手首を掴み、その思わぬ細さに内心戸惑う。
「放せ」
一言そう言って、泰明はアクラムの手を振り解いた。
静かだが、断固とした口調に、アクラムはそれ以上引き止めることはせず、離れていく翡翠色の髪の流れを目で追う。
怨霊は動きを封じられているものの、炎のように噴出す邪気は治まらい。
凄まじい邪気に中てられて、張り巡らされた緊縛の網が少しずつ剥がれていく。
依然として危うい気配を纏う怨霊の前に、泰明は羽織った着物を蝶の翅のように閃かせ、無防備とも見える様子で立った。