幻夢ノ蝶 3

 

「いや、良かった、良かった!これで、私も枕を高くして眠れるというものです!」

「安心なさるにはまだ早過ぎる。まだ、この家を襲う怪異が鎮まった訳ではないのだから」

「勿論、分かっておりますとも。しかし、こうして貴方様がいらして下さったのなら、遠からず怪異が除かれるのは確実」

 泰明の忠告に、この家の主人は頷く。

 しかし、泰明の言葉が本当に届いているかは疑わしい。

 泰明は主人の背後に控えるアクラムへと目を向ける。

 視線に気付いたアクラムは、ただ整った唇に僅かに皮肉気な笑みを浮かべて見せた。

 彼の父である主人もまた、金髪碧眼。

 顔立ちも整って、実年齢よりも若く見える。

 が、圧倒的な美貌と存在感を誇る息子と比べると、いささか迫力と威厳に欠けていた。

 その主人は上機嫌だった。

 名高い陰陽師である泰明が来たからには、もう既に問題は解決済みだと思っているらしい。

 まだ、泰明がこの家に起こる怪異がどのようなものか、確認すらしていないというのにだ。

 初対面での態度がまるで嘘のような変貌振りだ。

 

「貴方が…安倍泰明殿か?」

 泰明を出迎えた主人は、顔を合わせた途端、訝しげにじろじろと泰明の姿を上から下まで眺め回した。

「そうだ」

 泰明は頷くのみで、他には何を言い添えることもなかった。

 主人はちらりと背後に控える息子へと視線を向ける。

 視線を受け、アクラムは静かに口を開いた。

「この方が安倍泰明殿であることは間違いありません。しかし、父上が疑われるのも尤もなこと」

 その丁重な口振りを少々意外に思いながら、泰明は聞き流していた。

 と、そのアクラムと視線が合う。

 その冷たい瞳に揶揄の色が浮かぶ。

「陰陽師としての評判と比して、この方はあまりにもお若く、お美しい。そこで安倍殿。

ここで貴方の陰陽師としての能力の一端を見せていただくというのは如何ですかな?」

「おお、それは良い考えだ。安倍殿、是非お願いする」

 息子の提案に、主人も同意する。

 思わぬ要請に、泰明は僅かに柳眉を顰めた。

「陰陽術は見世物ではない」

「そう、仰らず。私を助けると思ってやってくださいませんか」

(思いの他、口の回る男じゃな)

 別の空間から様子を見ていた雷牙の呟きが、泰明の耳にするりと滑り込んできた。

(そう苛立つな)

 泰明は言葉を発することなく、雷牙を宥める。

そうして、唇には違う言葉を乗せた。

「紙を一枚、頂けないか」

「紙?どのような?」

「未使用であれば、どのようなものでも構わない」

「それでは、これは如何ですかな?」

 アクラムが傍らの棚から、便箋を一枚取り出して差し出す。

 結構だ、と頷いて、泰明はそれを受け取り、徐に折り出した。

 訝しげな眼差しを他所に、ごく簡単に鳥の形を折ると、片方の掌の上に載せる。

 口の中で小さく呪を唱えると、紙の鳥がふわりと浮き上がった。

 主人が小さく息を呑む気配がする。

 次の瞬間、鳥が淡く発光すると同時に、ばさりと大きく翼を広げた。

「おお!」

 見る間に、紙の鳥が本物の鳥となり、広い居室中を飛び回るのを、主人は大きな感嘆の声を上げて目で追う。

 一方、アクラムは冷たい眼差しで、それを見ていたが、要望に応えた泰明は、主人の信頼を勝ち得たのだった。

 

「さて、貴方様には暫く我が家に滞在していただくことになりますが…お部屋はどうなさいますかな?

この本館にも客室は御座いますが、御希望ならば離れも御使用できますぞ」

「では、離れを」

 迷わずにそう希望した泰明へ、相変わらず主人の背後に控えたままのアクラムが、

何か言いたげな眼差しを向けるが、言葉を発することはなかった。

「その代わり、夜間に本館に出入りする許しを貰いたい。それまで少し、部屋で休ませて頂きたい。

それと、あまり人の気配で気を乱されると、肝心の怪異の元となる怨霊の気配を捕らえ損ねる。

滞在中、離れへの人の出入りは最小限に抑えて頂きたい」

「勿論、構いませんとも。アクラム、安倍殿を離れの部屋までご案内しろ」

「畏まりました、父上」

 

 本館を出て、離れに繋がる渡り廊下へと出る。

 行き交う使用人の姿が途切れたところで、前を行くアクラムが、ふと立ち止まる。

 泰明も立ち止まると、アクラムが振り返った。

 唇には皮肉気な笑みがある。

「なかなかの手品だった」

「何だとう?!」

 嘲弄の響きのある言葉に、本館を出てから、ずっと泰明に寄り添っていた雷牙が、目を剥いて怒鳴った。

 しかし、姿も声も隠しているので、泰明のようにある程度霊力のある者以外には、雷牙の姿は見えないし、その声も聞こえない。

 耳元で大声を出された泰明は、思わず眉を顰めた。

(うるさいぞ、雷牙)

 声なき声で窘めようとしたとき、アクラムの視線の先に気付く。

 その冷たい視線は、確かに雷牙の存在を捉えていた。

 雷牙もまた、その視線に気付く。

「お主…儂が見えておるのか?」

 アクラムが、ふ、と笑う。

「天狗族の末裔か…大した守護者がいて、結構なことだ。いや、籠の番人というべきか?」

「何?!」

「雷牙、落ち着け」

 激昂する雷牙を泰明が宥める。

「どうだ、あの父は?暢気だろう」

 煽り立てておきながら、アクラムは我関せずとばかりに、泰明に問い掛ける。

「…確かにそう見える」

 泰明は頷く。

 尋常ならざる気は、この屋敷に足を踏み入れた瞬間から渦巻いていた。

 その中であれだけ平然としていられるのだから。

「お前の父親には、霊力が全くないのだろう。お前は違うようだが」

 アクラムは小さく笑いながら、渡り廊下の欄干に寄り掛かった。

「目に見える怪異が起これば、滑稽なほどに怯えて、大騒ぎをするのだがな。普段はあの通りだ」

「鈍感なだけではないのか?」

 不愉快そうに眉を顰めたままの雷牙が口を挟む。

 アクラムは声を立てて笑った。

「確かにそうだ。霊力がなくとも、この屋敷を取り巻く異様な空気を感じ取り、怯えて辞めていく使用人も多いというのにな。

お陰で使用人が少なくなって、いささか困っている。だから、こうして私が客人を部屋まで案内する役目まで命じられてしまう」

 さして困ってもいない口調でそう言った後、泰明を貫くように見る。

「しかし、滞在場所に離れを指定するとは、意外だった。

この屋敷の状況をそこまで把握しているのならば、依頼主の寝泊りする本館を希望するかと思ったが」

 何処か責めるようなアクラムの口調に、雷牙は不機嫌そうに精悍な唇を歪めるが、当の泰明は淡々と応えた。

「状況を理解すればこそだ。先程も少し触れたが、あれほど雑多な気が充満した場所では、肝心の気配を掴み損ねる。

距離を置いて、気配を探る方が対象が明確になり、私にはやり易い。勿論、怪異が起これば、いつでも駆け付ける」

 アクラムが再び皮肉気に嗤う。

「なるほど、貴方は人ならぬ者の気配も苦手と見える。

清浄に保たれた結界の中で、極力何者とも接触を避けて過ごし、こうして仕事に出るときは、番人が付く。まさに深窓の佳人だな」

「お主、それ以上泰明を馬鹿にすると…!」

「雷牙」

 堪りかねたように、アクラムに掴み掛かろうとする雷牙を、再び泰明が抑える。

「雷牙は番人ではない。私の仕事を補佐する式神だ。また、仕事以外でも私を支えてくれる友人でもある。

私のことが気に入らないのなら、それはそれで構わない。お前が私に対して何を言おうと、気にはしない。

だが、雷牙を貶めるような発言は控えて欲しい」

 そう言いながら、泰明はアクラムの冷たい眼光に怯えることなく、真っ直ぐに見詰め返す。

 アクラムの唇から一瞬笑みが消えた。

 が、すぐに笑みを取り戻したアクラムは、寄り掛かっていた欄干から身を起こす。

「どうやら、誤解をさせてしまったようだ。私は貴方を嫌っている訳ではない。

先ほどはつい、言い過ぎてしまったが、清浄を保ってこそ、陰陽師としての貴方の優れた霊力が保たれるのだろう。

貴方のやり方に文句を付ける気はない。黙ってそのお手並みを拝見させて頂こう」

「ならば、助かる」

 淡く微笑むと、アクラムはついと視線を外し、再び歩き出す。

 不満げな雷牙の肩を宥めるように叩いてから、泰明も後に続いた。

「先ほど、貴方が口にしたが…」

 振り向かぬまま、アクラムが口を開く。

「やはり、怪異の原因は怨霊か?」

 泰明は僅かに色違いの瞳を細め、頷く。

 

「ああ、怨霊だ」

 



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