幻夢ノ蝶 4
案内された離れは、洋風の本館とは違う和風の造りだった。
泰明の屋敷と似ているので、少しは落ち着けるのが有難かった。
少し休みたいとの言葉通り、泰明は離れに案内されるとすぐに、縁側に腰を下ろし、日が暮れるまで、整えられた庭に向き合っていた。
アクラムは、泰明を離れまで案内するとすぐに本館へと戻っていった。
雷牙はまだ不満げに文句を言っていたが、ひとり心を落ち着かせたい泰明の様子を察すると、すぐに姿を消した。
池の端に群れ咲く萩の花が、幾つも水面に零れ落ち、辺り一面を赤紫色に染めている。
そんな庭の様子を見るともなく眺めていた泰明だったが、ふと睫長い瞳を瞬かせた。
す、と瞳細めると同時に立ち上がる。
その後を追うように、束ねた髪が流れるように揺れた。
細身のジーパンに、ゆったりとした白いシャツを纏った華奢な姿は、確かに凄腕の陰陽師という肩書きとはかけ離れている。
この一見学生のように見える身なりに、屋敷の主人が疑いを持ったのも無理はない。
しかし、分かる者には、その身に纏う雰囲気が、ただの学生が持つものではないことは、すぐに分かる。
どのように装っていようと、それは神秘的で近寄り難い。
庭を歩む白いシャツに夕陽が映えて、紅く染まる。
池の端に何時の間にか、人が佇んでいた。
「何をしている?」
泰明が静かに声を掛けると、蒼い着物を纏ったその人物は、我に返ったように振り向いた。
一瞬、宙を彷徨った切れ長の瞳が、泰明の姿を認めて僅かに見開かれる。
静謐な雰囲気を纏った青年だった。
暗赤色の髪、藍色の瞳。
やや、細面の端整な顔立ち。
左目の下にある泣き黒子が、一点の華やかさを添える。
「…庭を眺めていた。萩の花が美しくて…」
言葉を探すようにゆっくりと青年は応える。
「そうか」
頷いた泰明もまた、池の端の萩へと目を向ける。
が、痛いほどの視線を感じて、相手を見遣る。
「どうした?」
問うと、青年は静かに微笑んだ。
「花より、貴方の方が美しくて…見惚れていた」
率直な賛美に、泰明は訝しげに細い眉の片方を上げる。
「戯言を」
素っ気無く言い放って、視線を元に戻した。
青年が微かに笑みを零す気配。
ふたりの間に沈黙が落ちるが、それは穏やかで、重苦しいものではなかった。
陽が落ちていく。
空が橙から薄紫に色を移ろわせていく。
やがて、辺りに白い靄が漂い始めた。
泰明が傍らを見遣ると、既に青年の姿が、立ち込める靄で曖昧に隠されている。
垣間見える青年の顔が、何処か名残惜しげな笑みを浮かべる。
「ああ…そろそろ、戻らなければならないようだ…」
泰明は澄んだ眼差しで、真っ直ぐに青年を見詰める。
そうして、花弁のような唇を開いた。
「お前の名は?私は泰明だ」
「泰明…良い名だ。私は……」
噛み締めるように泰明の名を呟いた青年の姿が、完全に靄に隠される。
「季史……」
静かに告げられた名が、泰明の耳に残った。
そのとき、
「泰明」
力強い呼び掛けと共に、大きな羽ばたきが泰明の耳を打った。
巻き起こる風が、周囲の靄を一瞬吹き払う。
そのときには、既に季史と名乗った青年の姿は、泰明の目前から消えていた。
「泰明」
突如として、空から舞い降りた雷牙がもう一度泰明に呼び掛ける。
「分かっている」
泰明は頷いて、振り向いた。
気遣わしげな表情で佇む雷牙を見上げる。
「日が暮れたな。そろそろ準備をするか」
言いながら、すっと身を翻し、雷牙の脇を通り過ぎる。
すると、通り過ぎざま、ふわりと肩に着物を着せ掛けられた。
黒地に羽ばたく白い鳥が染め抜かれた着物だ。
「日が落ちて、肌寒くなってきたからな」
殊更ぶっきらぼうな雷牙の口調。
しかし、そこに確かに己への気遣いを感じて、泰明は淡く微笑む。
礼を口にしようとしたところで、着物を着せ掛けたまま華奢な肩に手を置いていた雷牙に、引き寄せられた。
「雷牙?」
背中から包むように抱き締められ、意表を突かれた泰明は、問うように雷牙に呼び掛ける。
泰明の細い項に鼻先を埋めるようにして、雷牙が小さく呟く。
「何処へも行くな…」
懇願の響きを持った言葉に、泰明は小さく目を瞠り、再び微笑んだ。
淡く、儚く。
「大丈夫だ。私はここに居る」