幻夢ノ蝶 2
濃紺の夜空に白い三日月が掛かっている。
薄く靄が掛かっている所為か、その輪郭は曖昧に滲んでいた。
泰明は庭に面した廊下で、月明かりに照らされる庭を眺めていた。
華奢な体躯に、白い単衣を纏い、昼と同じ蝶の振袖を羽織った格好だ。
しかし、羽織った着物は殆ど脱げ掛け、辛うじて半身を覆うのみ。
薄い単衣にくっきりと浮かび上がる細い肩の一方は、すっかり露わとなっていた。
開いた硝子戸に背を預け、片足を無造作に外側へ投げ出している。
着物の裾から、細く形の良い脚が白く浮かび上がるように覗いていた。
昼間の凛とした姿とは雰囲気を異にするやや気だるげで儚げな風情。
湯上りでやや水気を残す翡翠色の髪を、夜風が梳いていく。
ふと、泰明が視線を動かす。
己の半身を覆い、廊下にまで大きく拡がる着物を見る。
そこにも拡がる仮初の夜空に舞う蝶。
不意に、そのうちの一頭が羽を震わせる。
一瞬後には、布地の上へ浮き上がり、大きく羽を打ち振るわせた。
やがて、それは羽を羽ばたかせて、宙に舞い上がる。
月光に燐粉を煌かせながら、夜の庭を飛び回る。
やがて、ゆっくりと泰明の周囲を巡り、彼が掲げた白く整った指先に仮の居所を定めた。
蝶の行く先を目で追っていた泰明が、再び視線を外へと向ける。
その視線の先に、何時の間にか一人の青年が立っていた。
「雷牙か」
泰明の静かな呼び掛けに青年は、凛々しい眉を顰める。
整った精悍な顔立ちの青年である。
背が高く、逞しい身体つき。
炎のように広がる緋色の髪。
昼間客人として訪れた青年の氷のような青とは違う、明るい真昼の空を思わせる青い瞳。
山で修行する修験者のような着物を纏っている。
しかし、その青年には、明らかに人とは違う特徴があった。
その背に広がる大きな羽だ。
彼は人とは別種の存在…天狗族の末裔である。
自らの意志で泰明の使い魔になることを望んだ式神でもある。
しかし、泰明は彼を器物に宿らせる式神のようには扱わない。
彼は泰明にとって唯一まともに話の出来る友人だった。
「どうした?姿は見せなかったが、昼間もいただろう?」
指先に蝶を止まらせたまま、微笑んで問う泰明に、雷牙は顔を顰めたままむっつりと答えた。
「気に入らん」
「何がだ?」
「あの男だ。昼間ここに客として来た…」
「ああ…」
泰明のあまりに気のない返事に、雷牙は意表を突かれたように、一瞬黙る。
が、すぐに気を取り直したように勢い込んで、言い募った。
「端からお主を信用していないような言い草だっただろう。
己の火の粉は己で払う主義だなんぞと抜かしおって!あのでかい態度が気に入らん!!」
雷牙の言い分を聞きながら、泰明は蝶を止まらせていた手を更に高く掲げた。
蝶が飛び立つ。
かと見えたその瞬間、その姿は空に掻き消える。
微かに煌く燐粉が舞うが、それもまた、跡形もなく消えた。
幻の蝶。
「あの者の態度は常通りのものなのだろう。気にすべきことではない。
相手にどう思われようと、仕事は仕事。私は私に与えられた役目を果たすだけだ」
だが、お前の気遣いには礼を言う。
そう呟いて、泰明は淡く微笑んだ。
美しく、だからこそ儚げな笑み。
雷牙はぐっと言葉を呑む。
僅かに俯いて、ぶつぶつと呟く。
「それにあやつは、お主のことを捕らわれの蝶などと…」
「?私が何だと?」
雷牙の呟きを捉えた泰明が、澄んだ瞳を丸くして訊いてくる。
「いや、お主が気にしていないのなら良い」
どうやら、泰明は気付いていないようだ。
そのことに内心安堵して、雷牙は首を振った。
改めて気を取り直して、顔を上げる。
「とにかく、今度の依頼には、儂も同行するぞ!」
「お前が?しかし、お前の手を煩わせるほどの件ではないかも知れないぞ」
「そんなことは関係ない!儂はお前の式神だぞ!!」
寄り掛かっていた身を起こして、戸惑ったように瞬きを繰り返す泰明の足元に雷牙は跪く。
「もっと儂を頼ってくれ。儂はその為に居るのだから」
そう言って、目の前にある泰明が纏う着物の裾を手に取り、誓うかの如く口付ける。
そうして、真摯に見上げてくる雷牙を見返して、泰明は再び淡く微笑んだ。
「有難う、雷牙。宜しく頼む」
「おう!任しておけ!!」
威勢良く請け負いながら、雷牙は力強く笑い返して立ち上がる。
ふと、笑みを消して、再び手を伸ばす。
夜風に靡く翡翠色の髪を指先で捉える。
しかし、絹糸の手触りのそれは、するすると雷牙の手から逃げていく。
儚く、切ない手触り。
「雷牙?」
泰明の怪訝そうな呼び掛けに、雷牙は微苦笑して首を振った。