花精微睡(中編)
『もうすぐ私はこの世を去る』
『…貴方からそんな冗談を聞かされるとは思いませんでした。しかも性質が悪い』
『冗談ではない。事実だ』
『……寂しいですね。私たちはそれほど仲睦まじい夫婦ではなかった。
それでも、こうして貴方が去ってしまうことを思うと……言いようもなく寂しい』
『…そうか』
静かに訴えると、横たわるひともその青褪めた唇に、寂しげな笑みを浮かべたように見えた。
『…聞け、晴明』
ふいに、伸ばされた白く細い手が、思いも寄らぬ強さでこちらの腕を掴んだ。
『私が死んだら、この空になった身体を、お前の溜まり過ぎた陰の気を注ぐ器とせよ。
元は稲荷明神の巫女であった身だ。そこらの人間の躯よりはよほど役に立つだろう』
『…何を仰る』
『私の身体だけでは、お前の抱える陰の気を全て受け入れることは叶わぬかも知れぬが…手は打ってある。
良いか、これは遺言だ。必ず実行せよ。…さすればお前は唯人として死ぬことができる』
『……利花殿』
『それがお前の望みであろう?伊達に数十年、お前の妻をやっていた訳ではないぞ、それぐらいは分かる』
『………』
『…暫しの別れだ、我が夫(つま)。くれぐれもこの遺言を忘れるな。
それと……短気を起こして、私を再び起こそうとはしてくれるなよ……』
『…利花殿』
『…先に行って、待っている……』
『利花…!』
「晴明」
低いながらも澄んで響く不思議な声音に名を呼ばれ、晴明は追憶から引き戻される。
目の前には、怪訝そうにこちらを窺う泰明の瑞々しい美貌。
若い頃の利花がそのまま蘇ったかのような姿に、再び過去に迷ってしまいそうになる。
しかし、目の前に佇むのは、彼の妻ではない。
「…ああ、度々失礼致しました。らしくもない物思いに捕らわれていたようです。やはり、歳ですね」
謝罪しながら、渡された布を手に泰明へと近付く。
「そう、「式神」には他にも呪符から造るもの、動植物の精霊を呼び出してその協力を請うものなどがありますよ。
動植物の精霊を扱うのは問題ないとして…呪符から「式神」を造る方法は、これから私がお教えしましょう」
「それは意味あることか」
「ええ。貴方を「ひと」にするには。
以前にもお伝えしましたが、私は貴方を弟子として、外に出すつもりですので。
陰陽師の弟子が式神を使えないと話にならないのです。
さ、ひとまず話はこのくらいにして足をお拭きしましょう」
そう言って跪くと、晴明は手ずから泰明の汚れた足を拭き始めた。
「いいのか」
「何がです?」
「私がお前の弟子ということは、お前は師となるのだろう?
師がこのように弟子の前で跪くのはおかしいことではないのか?」
「おや、誰からそのようなことをお聞きになったのでしょう?」
「こどもだ。名は…」
言葉が途切れ、泰明は小さなくしゃみをした。
くちっ!という自らが発した音に、目を瞬かせる。
「何だ、今のは」
初めての体験を前にきょとんとしている泰明とは裏腹に、足を拭き終わった晴明は慌てて立ち上がった。
「濡れた着物を纏ったままでいらしたから、身体が冷えてしまったのですよ。
風邪を引いたら大変です。急いで着替えましょう」
そう言って、泰明の腕の中に収まったままの伽野を抱き下ろし、傍らに用意してあった着替えの着物を広げる。
「まったく、手の掛かることですね。まだ、色々と物慣れない貴方ですから仕方ないのでしょうが…」
「すまない」
「謝られることはありません。こうして、貴方の世話を焼くのも愉しいですから。
持ったことのない娘を得たような気分ですよ」
丁寧に着物を着付けてやりながら、晴明は笑う。
「私は娘ではない」
「冗談ですよ」
大人しく着物の袖に腕を通しながら、何処かあどけない様子で目を瞬く泰明に、晴明はまた笑った。
「また、話が途中となってしまいましたね。…そう、貴方はこどもとお会いになったのですね」
「そうだ。その者は「きさらぎ」と名乗った」
「ああ、やはり。私の息子の一人ですよ。彼がこちらにお邪魔したのですね」
「…息子?お前の血を引いている者だということか」
「まあ、一般的にはそうなのでしょうが…」
「あの者には、お前と同じ血の気配を感じぬ」
冷静な指摘に、晴明は思わず、と言ったように大きな息をつく。
「貴方の眼力には感服するばかりです。確かに彼、如月丸と私の間に血の繋がりはありません。
私には如月ともうひとり、皐月丸という息子がおりますが、ふたりとも貰い子なのです。
…私は子を持てませんのでね」
「そうか」
「貰い子とはいえ、ふたりとも才能ある良い子です。
きっと陰陽家としての安倍一族を確立させる礎となってくれると期待しておりますよ」
「そうか」
自分はその礎に含まれないことを、晴明はそれとなく示唆するが、泰明は拘らずに頷く。
「貴方は訊かないのですね」
「何をだ」
「例えば、私が子を持てない理由など…それとも、訊かずとも、お分かりだということなのでしょうか?」
「分からぬ…お前の気は、今尚、陰陽相乱れて読み難い故。
だが、その理由を知ることは、お前の言う「ひと」となる為には必要なことか?」
「いえ…貴方ご自身がお気になさっていらっしゃらないなら良いのです」
着替えとして用意された狩衣は、表が白、裏が薄縹の襲ね色目のものだった。
仕上げとばかりに、泰明の細い腰に帯を締めつつ、晴明は目を細める。
「桔梗の襲ねはもちろんですが、本日の花薄(はなすすき)の襲ねも良くお似合いですね」
しかし、晴明の賞賛の言葉は、泰明の耳には入っていなかった。
如月丸と出会ったときの状況を思い出しているように、僅かに首を傾けつつ、言葉を継ぐ。
「その如月という者、私を別の名で呼ぼうとして、途中で止めたのだ」
「ああ、恐らく、妻の名前でしょう。「利花」と」
「ああ、そうかもしれぬ」
………設定大王と呼んで下さい……ガクリ(討死)。 このお話を書くために作った設定が、書き進めるにつれて膨張(汗)。 お師匠の奥さんの他に、また、新たな人物の影が見えてきちゃったよ? もう、どうするつもりなんだよ……(呆) …ってか、「如月丸」と「皐月丸」って何さ、船の名前かよ(汗)。 一応、元服前の幼名なんですが…いや、もう、思い付かなかったのよ……いい名前がな〜んにも(苦笑)。 取り敢えず、冒頭のシーンで「花精招来」の一部補完をしてみたり。 晴明の奥さんの名前。残存する物語に出てくる彼女の名前に充てられる漢字は様々です、他にも「梨花」とか「李花」とか。 こちらでは、一番シンプルで、一発変換で出てきたものを使わせて頂きました(笑)。 この奥さん、お話によっては道満法師と通じた上に、彼と図って晴明を死に追いやるという 実にスキャンダラスでデンジャラスなおひと。 拙作ではそこまでの危険度はないものの(笑)、雄々しい気性のひととして描写してみました。 このエピソードでは、「夫(つま)」という言葉を使えたので、その点では満足。 ホントはやっすんに使わせたかったんだけどな〜、やっすんが旦那さま(誰?/笑)を 「夫(つま)だ」って淡々と紹介するの。いいなあ、それ♪←私は変なところにツボを持っているらしいです(苦笑)。 今回はお師匠、やっすんを着せ替えて楽しんでいるようです(笑)。 やっすんは可愛いので、何でも似合うよね…♪ ちなみに、襲ねの桔梗は表が縹、裏も縹の色目のことを言うそう。 一応、桔梗も花薄も秋の色目… 縹は薄い藍色…つまりは青? しかし、この時代の「青」って緑色のことなんですね! だから「青々とした緑の木々」っていう訳だ…(何を今更) ちなみに、私の手持ちの平安期の主な資料は、高校のときの国語総覧と古語辞典ですので(苦)、 どっか間違ってても、目を瞑ってやってください(汗)。 とにかく!次回には何が何でも区切りを付けるつもりです!! どんな設定にももう惑わされないわ!掛かって来い!!←? 前へ 戻る 次へ