花精微睡(前編)
朝方訪れた通り雨は、庭の木々を潤した。
雨の後、雲の切れ間から差し込んできた陽光さえ、瑞々しさを得て、爽やかに明るい。
緑濃い葉や、鮮やかに匂い立つ花弁に宿る雫が、虹色に煌きながら、土の上へと滑り落ちる。
潤う秋の庭には様々な花が咲き群れていた。
竜胆、菊、秋海棠、萩、女郎花。
そして…桔梗。
生き生きとその色と美しさを競い合う花々に囲まれた庭の中、一際美しい花があった。
いや、正確には花ではない。
花の如く美しい青年だ。
先程の雨で濡れた単を細い身体に貼り付けたまま、裸足で桔梗の花群の中に佇んでいる。
彼は木の枝から葉を伝って落ちていく水の雫を、手を伸ばすでもなく、ただ眺めていた。
高い葉から落ちた雫は、桔梗の花の上で一度弾け、紫の花弁を滑りながら地に落ちていく。
ふいに、通り過ぎた風が葉や花の上に止まる水の玉を散らした。
ぱっと弾けた細かな水の粒子が目の前に拡がり、彼は思わず左右で色の違う瞳を細める。
風が去った後、降りてくる静寂。
「……」
青年は光差す空の方角を見遣った後、踵を返した。
水気を含みながらも、艶やかに翻る翠色の髪。
汚れた足も拭わずに無遠慮に対屋の階を上がる。
上がった先にある彼に与えられた部屋で、
やっと慣れてきた着物をひとりで身に付けようと、濡れた単の帯に手を掛けた。
そこで、何かの気配に導かれるように顔を上げる。
部屋の片隅に、細長い鏡があった。
背高い青年の全身を充分に映し出すことが叶うほど大きく、
瞳を縁取る濃い睫の様さえ微細に分かるほど、対象をくっきりと映し出す。
このような鏡は、京中、いや国中を探しても他に見つけ出すことは叶わないだろう。
しかし、青年はそのようなことは知らないし、また、それは彼にとって気に掛けることでもなかった。
ただ、淡々と鏡に映し出された己の華奢な姿を眺める。
面妖な形だ。
何より均衡が悪い。
そのとき、足に何か柔らかいものが触れた。
猫だ。
甘えるような鳴き声を上げながら、彼の足に身体を擦り付けてくる。
一旦視線を足元に落とした後、彼は再び今の己の姿と向き合う。
この猫のような獣は、四つの足で地にしっかりと立っている。
安定した自然な姿だ。
しかし、人間はこの獣のように四つの足と成り得るものを持っているのに、
そのうちの二つしか足として用いていない。
不安定な二本の足で何とか大地を踏み締める不自然な姿。
それが、彼には面妖に見えるのだった。
人間の使わない足は、物を掴み、作り出す手となっている。
手を用いることによって人間が得たものは大きい。
そのことは、人間たちにとって、進化と言えるのだろう。
しかし、それと引き換えに失ったものもある。
少なくとも「ひと」は他の生き物たちよりも、自然から隔絶された存在となった。
そのことを「ひと」がどう思うか…
それもまた、彼の知るところではない。
淡々とそう考えながら、足元に纏わりつく猫を抱き上げる。
猫は最初、泰明の細い腕の中で落ち着かなげに身じろいだが、すぐに安心したように喉を鳴らし始めた。
ざらざらとした舌で頬を舐められ、片目を細めると。
「泰明」
慣れぬ名を呼ばれ、一瞬反応が遅れる。
「…晴明か」
狩衣の背に漆黒の髪を打ち流した陰陽師が、几帳の背後から現れ、軽く、しかし、丁重に腰を折る。
「そのように畏まる必要はない。私はお前に捕らえられた存在なのだから」
「そうでしたね」
笑って顔を上げた晴明が、泰明の腕の中の猫を見て、少し目を丸くする。
「…おや、何処に行ったのかと思えば、伽野(かの)は貴方のところにお邪魔していたのですね」
「かの…この猫の名か」
「ええ」
泰明が意識するでもなく、腕の中の温かい生き物を撫でていると、
「お優しいですね」
そう晴明から声を掛けられた。
「やさしい、とはどういうことだ」
「ひと」としての生を歩みだしたばかりの泰明には「優しい」という言葉は分かりかねた。
「今の貴方のような仕種と表情のことですよ」
「分からぬ」
「いずれお分かりになります」
にっこりと微笑みながらの晴明の言葉は、訊いたことへの応えにはなっていなかったが、泰明は拘らなかった。
「そうか」
「神」であった頃の己に対する無頓着さ、或いは鷹揚さを発揮して、泰明は頷く。
いずれ分かるというのならそのときまで待てばよい。
意識せずにまた、猫に触れる。
その触れ方は、晴明の指摘したとおり、意外なほど優しい。
猫は更に心地よさげに大きく喉を鳴らし、それを見る晴明の瞳も嬉しげに細められる。
「貴方はきっと素晴らしい「ひと」になれるでしょう」
「何故だ」
「しがない呪術師の予言ですよ。少しばかりの願望も入っていますがね」
「この容姿(すがた)がお前の妻と似通うからか」
「そうと言えばそう。そうではないと言えばそうではないような…」
「お前は話が回りくどい上に分かり難いのだな」
何処か飄々とした晴明の応えに、泰明は少し柳眉を顰め、首を傾げた。
その少女のように愛らしい仕種さえ、彼は無意識でしているのだろう。
「要は愉しければ良いのですよ。少なくとも貴方のお姿と言動は、耳目の保養になりますね」
「私には面妖な容姿(かたち)としか見えぬが」
淡々とした声音に心底不思議そうな響きがある。
それが面白くて、晴明はまた笑った。
「…ああ、そうそう。貴方との会話が面白くて忘れてしまうところでした」
そう言って、花精たる神を捕らえた陰陽師は、少々顔付きを改める。
「貴方が「ひと」として生まれて、一週間経ちました。
天狗とも相談したのですが、そろそろこの邸の外へお出でになる準備をした方が宜しいかと」
「お前がそう言うのならそうしよう」
「貴方も「ひと」としての生活に大分慣れてきたように見受けられたので、問題はないと思ったのですが…」
今だ、その華奢な腕の中に猫を抱えたまま、生真面目に頷く泰明の姿を改めて眺め、晴明は溜息を吐いてみせる。
「やはり、まだ「完全」という訳には参りませんね。
伽野が、お着替えの途中を邪魔されたのでしょうか。お召しの単が脱ぎ掛けのままですよ。
まあ、私も貴方のお着替えを邪魔した者となるのでしょうが…
それにしても…ああ、先程までお庭に出られていたのですか。足も拭わずお上がりになって…」
言いながら、手を叩く。
すると、何処からともなく使用人らしき者が現れた。
素早く階から床の上まで付いた泰明の足跡を綺麗に拭いて、新しい布を晴明に差し出す。
傍に跪いた使用人の姿を見て、泰明は目を瞬かせた。
普通の人間ならば、悲鳴を上げたかもしれない。
その者の顔は、犬とも狐ともつかぬ獣のものだったのだ。
「何だこれは」
「「式神」ですよ」
「それがこの者の名か」
「いえ、我々陰陽師が使役する鬼を総称してそう呼びます」
「鬼?しかし、これは人間だ」
多くの人間はその顔の奇怪さに目を奪われて恐怖に慄くが、
よく見れば何のことはない、精巧な面を付けているだけである。
「やはりお分かりになりますか」
一目で真実を看破した泰明に、晴明はふ、と微笑む。
「彼を始め、うちで抱えている「人間」の式神には、使用人として働いて貰う他に、
海の向こうの進んだ技術で、我が邸のからくりを造って貰っています。
人がいないのに、門が開いたり、御簾が下りたりするあれですね。
他には、辻占い師や旅芸人の姿で都や諸国を巡り、様々な情報を集めてきて貰っている者もいますよ」
控える顔を隠した男が、泰明に向かって僅かに会釈する。
「彼らのうち殆どが渡来人でしてね。元々我々とは少々異なる容貌の者が多いのです。
未知の容貌と未知の技術…能力を持っているが故に、彼らは昔から「鬼」と呼ばれていました。
ならば、いっそもっと「鬼」らしくなってみようということで、
邸内ではこのような仮面を付けさせて、客の応対もさせています」
まあ、一種の箔付けですよ、と晴明は悪びれずに言う。
「それは意味のあることか」
「少なくとも、今の宮中での私の陰陽師としての立場が優位になるでしょうね」
「それが意味あることなのか」
「…どうでしょうね。実のところ、あまり意味はないのかもしれません」
透明な眼差しを注いでくる泰明に微苦笑して、晴明は「式神」から布を受け取り、彼を下がらせた。
さて、今年もやって参りました、やっすんお誕生日!! この度の「やっすんお誕生日おめで有難う話」は、奇しくも昨年の予告通り、「花精招来」の続編となりました。 神から「ひと」となったやっすんと彼を育てるお師匠の生活の一場面を 切り取ってみました的コンセプト(謎)で、今年はお送り致します。 ぢつは、やっすんに傅くお師匠を書きたかっただけかもしれません(笑)。 お師匠、初っ端からやっすんを猫可愛がり♪な話です、多分。 しかも、つらつらと書いていたら、ま〜た続いちゃうんだなあ、これが(苦笑)。 取り敢えず、書けたところまでアップしたので、どのくらい続くのかは不明。 前編と銘打っているので、多くても中編、後編の三話で終わらせたいとは思ってますが…どうかな? 来週続きをアップできるかどうかも…不明……が、頑張る……(汗) ところで、今回のタイトル、またも、字面で決めたので、どう読むか悩むところです。 「かせいびすい」だと、個人的になんか雰囲気じゃない…… という訳で、送り仮名がありませんが、「かせいまどろむ」で宜しくお願い致します。←? 晴明が優れた技術を持つ渡来人を式神として召し使っていた…という説を面白いので使ってみたり。 晴明邸は忍者屋敷張りのからくり屋敷だ!(笑) 式神の彼らは京の人々との共存を選んだ「鬼」であり、 逆に共存することを拒否した「鬼」がアクラム一派…みたいな。 公式設定的にも破綻はない…です……よね?←気にし過ぎ(苦笑)。 戻る 次へ