王の宝珠 6
泰明と別れた男は、海辺を離れ、石畳で舗装された通りをそぞろ歩いていた。
「旅先で思わぬ宝玉に出逢えるものだ…」
小さく、だが、快げに笑いつつ、一人呟く。
と、
「友雅様!お探ししましたよ!何処へ行っていらしたのですか?!」
大きな声で名を呼ばわる声に、男は肩を竦めた。
「近くの海辺にまで散歩をしに行っただけだよ」
「例え、お近くだとしても、お出掛けの際には供をお連れ下さい!ここは白蓮(ハクレン)ではないのですから」
「やれやれ、窮屈だねえ…折角の旅先なのだ。少しは羽を伸ばしたいものだが…」
供の者に苦笑交じりに応え、友雅は再び歩き出す。
「貴方様は単なる旅行者ではなく、れっきとした白蓮の使節なのですよ!常よりもいっそう慎んでもらわねば困ります。
よもや、こちらでのお役目をお忘れになったとは仰らないで下さいませ」
友雅の後に従いつつも、途切れることなく、愚痴を零す従者に、友雅はふと歩みを止め、肩越しに振り返る。
「勿論、忘れてなどいないさ。だが、君も控えたまえ。少々声が大きい」
友雅の指摘に従者は、はっとしたように口を噤む。
「申し訳御座いません…」
「こうしてわざわざ私を探しに来たということは、何かあったのだろう」
「はい。手配の者が到着しまして御座います」
「そうか、分かった。詳しくは部屋に戻ってから聞くとしよう」
そうして、目を戻す先には、既に宿として宛がわれた館の門が見えている。
友雅はふと、視線を上げ、清々しいほどに青い空を見上げた。
「れっきとした使節…ねえ…」
声なく呟いた唇が、皮肉気な笑みに歪む。
「これからやろうとしていることは、辺りのごろつきとそう変わらないと思うけどね…」
「今日の散歩はどうであった、泰明?」
夜。
居室の長椅子にゆったりと腰掛けていたアクラムは、傍らにある泰明の華奢な肩を抱き寄せながら問うた。
素直にアクラムの胸元に身を添わせながら、泰明は大きな瞳でアクラムを見上げ、微笑む。
「愉しかった」
「そうか。何か変わったことはあったか?」
「…変わったこと?」
泰明は無垢に首を傾げる。
その様子に偽りの気配は微塵もない。
散歩中に泰明に声を掛けてきた男については、既にセフルから報告を受けていた。
セフルは警戒していたようだが、泰明にとっては心に留まることのない、取るに足らぬ出来事であったらしい。
微かに苦笑いしながら、アクラムは首を振る。
「いや、何もないのなら、良い」
泰明の絹糸のような髪を梳き撫でながら、アクラムはふと秀麗な眉根を寄せる。
口を突いて出たのが、幾度も繰り返した問いだった。
「泰明。他に望みはないか?」
「ない。今のままで充分だ」
やはり、幾度も繰り返された答えが返ってくる。
ただ、城の近くの海岸に行って帰るだけの散歩を愉しい、と言う泰明。
外に出ない日も、城の図書室には興味深い書物が沢山あって飽きないと言う。
毎日同じことの繰り返しでは退屈ではないかと問うても、そんなことはないと首を振る。
今のままで充分だと微笑むのだ。
しかし、その微笑みに僅かな翳りが混じることがある。
今夜もそうだった。
アクラムは青い瞳をす、と細めた。
「私が僅かだとて、己の宝玉の曇りを見逃すと思うか?どんな些細なことでも良い。望みがあるなら口にせよ。必ず叶えよう」
目を見開いた泰明は、しかし、首を振る。
そのまま身を離そうとするのを、アクラムは、細い手首を掴み、やや強引に引き寄せる。
「強情な…私に無理強いをさせる気か?お前を虐めるのは私の本意ではないが…どうする?」
「違う…」
泰明は再び首を振った。
動きに合わせて長い髪がさやさやと揺れる。
心の迷いを映すように、色違いの瞳も部屋の灯りに揺らめく。
この宝玉は、曇り、ましてや傷があっても、その美しさが損なわれることがない。
だから、尚更手放せなくなるのだ。
全く性質が悪い。
そう考えるともなく、考えながら、アクラムはどんな細かな表情の変化も見逃すまいと、泰明の色違いの瞳を見据える。
その視線を避けるように俯いた泰明だったが、やがて、小さな声で言った。
「…叶えられては…困る」
「…………」
想定外の答えに、返す言葉を失ったアクラムは、更に泰明に見入った。
真珠の光沢を持つ泰明の頬が、徐々に淡く色付いていく。
そこで、ようやく分かった。
知らず口元が綻びそうになるのを堪えながら、アクラムは溜息を吐いてみせる。
薄い夜着に包まれた泰明の細い肩が、ぴくりと震える。
「分かった。叶えるとは言わぬ。ただ、お前の内にある想いを口にせよ。包み隠さず晒せ」
「……」
アクラムが促しても、泰明は黙したままだ。
それでも辛抱強く待ち続けていると、ようやく閉ざされていた桜貝の唇が開いた。
「今日の散歩も…アクラムが居たのならもっと愉しかった。もっと、お前の傍に居たい。これがお前の妨げにしかならぬ身勝手な願いだと分かっているのに、私は…ッ!」
気が付けば、アクラムはようやく開かせた唇を、自ら再び塞いでしまっていた。
我儘な願いを自らの内に封じようとする泰明が、哀れなほど愛おしい。
何も望まぬ泰明が、もどかしいほど愛おしい。
そうして、衝動のままに紅玉の唇に触れてしまえば、溶けるような淡い感触に、愛おしさは更に募る。
片時も離さず、傍らに置いておきたいと、焼け付くほどに願う。
しかし、それを言葉にすることはせぬまま、ただ、アクラムは口付けを深めていった。
アクラムの突然の行動に驚いて身を固くしていた泰明も、やがて、身体の力を抜き、アクラムに身を任せる。
暫くして口付けを解いたアクラムは、くったりと長椅子に横たわる華奢な身体を抱き上げ、隣り合う寝室の扉へと向かっていった。
セフルは書類を抱えて、宮廷の大廊下を歩んでいた。
今日は泰明の散歩の日ではないので、本来の侍従としての仕事をこなしている。
主人の様子を見るに、昨日報告した無礼な男については、気にする必要はないらしい。
(でも、何か気に食わない奴だったんだよな)
とはいえ、身元も定かではないあの男に関して、現時点で自分が出来ることはない。
ひとまず、無防備な泰明が厄介ごとに巻き込まれぬよう、監視することだ。
「全く、めんどくさいな…」
小さな声で悪態を吐くが、その口調ほど、表情は嫌そうではない。
磨き上げられて鏡のようになっている大理石の床に、口元が綻びかけている己の顔が映り、セフルは慌てて表情を引き締める。
と、こちらへ近付いてくる複数の足音が聞こえてきた。
脇へ避けて、相手に道を譲ろうとさり気なく視線を向けたセフルは、思わず声を上げそうになった。
慌てて相手がこちらに気付く前に、大きな柱の陰へと身を隠す。
別の侍従に先導されて、歩を進める一団の中に見知った顔があった。
あのときは解き放していた緩く波打つ髪を、一つに纏めて、それなりに畏まった装いだが、
仄かに笑みを刻んだ口元には、何処か飄々とした雰囲気がある。
見間違いようがない。
昨日、泰明に声を掛けてきた男だ。
緩やかに列をなして歩く一団の先頭にいるこの男が、その中心であることは容易に知れた。
まさか、王宮内でその姿を見ようとは思いもしなかった。
警戒心を強めながら、セフルは息を殺して、柱の陰から男を見据える。
ふと、件の男が足を止める。
気付かれたかとセフルは身を竦めたが、男の視線の先は柱とは反対の窓側へと向けられている。
案内役の侍従が振り向いて、怪訝そうに声を掛ける。
「如何なされました、御使者殿?」
男はちらりと、侍従へと視線を投げ、すぐに窓外へと戻した。
「昨日、城下を散策した折に見た海も美しかったが…この宮廷の庭もまた、美しい」
「は、恐れ入ります」
畏まって、軽く腰を折る侍従に振り向くことなく、男は何処か遠い眼差しでゆったりと微笑んだ。
「この国には、心惹かれる美しいものが多くありますな。羨ましいことだ…」
呟くように言うと、矢庭に足を踏み出す。
「こちらのお庭も散策させて頂いても宜しいかな?」
「は?」
「友雅様!」
付き随う者が慌てて声を掛けるが、その時にはもう男の手は、窓を開け放っていた。
そのまま、ゆったりとした歩調で男は庭に足を踏み入れる。
そこでようやく、それまで呆然としていた者たちが我に返り、動き出した。
「御使者殿!」
「友雅様!」
それぞれ男の名を呼びながら、早足で皆、庭へと出ていく。
慌てる周囲をものともせず、戯れめいた指先で、咲き誇る花弁に触れている男の姿が木々の合間から垣間見えていた。
その様を睨むように見据えながら、セフルはゆっくりと後ずさる。
彼らの姿が視界から消えると、すぐさま身を翻し、走り出した。
途中、速度を落として、すれ違う者を、何食わぬ顔でやり過ごしながら、王の執務室を目指して駆けていく。
目指す部屋の扉が見えたとき、ちょうどそれが開いて、宰相が出てくるのが目に入った。
その瞬間、セフルは声を上げていた。
「イクティダール!!」
「セフル?どうした?」
切羽詰まった呼び掛けに、青い隻眼を瞠るイクティダールの元に、セフルは駆け寄っていった。