王の宝珠 5
「何で僕がこんなこと…」
不貞腐れた顔で、セフルは文句を言う。
「大体、僕は国王付きの侍従なんだ。他の奴のお守りが仕事なんじゃない」
とはいえ、この任が国王直々の命とあれば、放り出す訳にもいかない。
セフルは忌々しげに岩場の向こうを見遣った。
場所は城近くの海辺である。
岩場の向こうには、国王の唯一の妃候補である泰明がいる。
今日は、国王が宝箱に仕舞い込むように大切に扱っている泰明に許した、週に二回の散歩の日。
何故か、その際の護衛役に、セフルは抜擢されてしまったのである。
(それに、僕なんかいなくても、あいつはきっと大丈夫だろ。見掛けより強そうだし…)
そ知らぬ振りを装いつつ、セフルは背後の大きな岩に軽く寄り掛かった。
しかし、晴れた青空を眺めながら、意識はつい、泰明へと向いてしまう。
(アクラム様の命だものな…気に食わないけど、仕方ない…)
それだけではないような気もしたが、そう理由付けて、セフルは泰明の護衛を続けていた。
複雑な心境のセフルを他所に、泰明はこの散歩を愉しんでいた。
ちょうど良い形の岩に腰を掛け、打ち寄せる波に足を遊ばせる。
たくし上げられたドレスの裾から覗く白い素足が陽の光に眩しい。
戯れ掛かるように飛沫を散らせる波に、泰明は飽くことなく見入っていた。
ふと、波が齎すものとは違う泡が、海中から揺れる水面に次々と浮かび上がってくるのに、気付く。
泡は水面に達すると同時に、弾けて消える。
その微かな音の狭間に、囁くような呼び掛けがあった。
『泰明…』
波音に紛れて消えてしまいそうなささやかな声音だ。
しかし、それを泰明は確かに聞き分けて、唇を綻ばせた。
「お師匠」
『泰明、久し振りだ。大事はないか?』
泰明の育ての親でもあるセイレーンの長が、遥か沖の水底から、海の泡を媒介として言葉を届けてきたのだ。
「この通り、息災でいる。しかし、わざわざ陸まで遣いを寄越すとは、そちらこそ大事があったのか?」
『何を言う。陸のお前の様子が一向知れぬものだから、様子見に遣ったのだ。
お前が船で沖まで出てくれば、ある程度の様子も知れようものだが、そのようなことはなかったしな』
気掛かりだったのだぞ、と言われ、泰明は細い眉尻を下げた。
「すまない…」
『良いさ。大方、王が宝玉を箱に厳重に仕舞い込むが如く、お前を城に閉じ込めにしていたのだろう?』
「閉じ込めになどと…私が自ら望んでアクラムの傍にいるのだ。アクラムの所為ではない」
『ああ、分かっている。そう向きになるな。
だが、私にとってあの王は、箱入り弟子を奪った張本人に他ならない。多少の嫌味を言うくらいは許せ』
やや皮肉気な口調で紡がれていた言葉が途切れる。
『とにかく…お前が息災でいることが分かって良かった』
次いで、届けられた言葉には、包み込むような温かさがあった。
応えて、泰明は花が開くように微笑む。
「有難うお師匠。今や、セイレーンではなく、只人に過ぎぬ私をこうまで気に掛けてくれて、嬉しい」
『お前が何者であろうと、我が愛弟子であることには変わりない。いつでもお前の幸せを願っている。
それと…王に愛想が尽きたら、いつでも戻ってきて構わぬぞ。お前のその様子では、儚い期待だろうがな。
また、折を見て、様子を見に来よう。ではな…』
ひとつ大きな泡が弾け、師の言葉は途絶えた。
泰明は澄んだ瞳で、彼方を見晴るかすように、目前に拡がる海を見詰めた。
不意に耳に流れ込んできた歌声に、セフルははっとして、泰明のいる岩場へと目を向ける。
美しい旋律。
それを紡ぎ出す声は、深みがありながらも澄んで辺りに響き、染み渡る。
セフルは思わず耳を奪われ、恍惚として立ち尽くした。
頭の片隅で、泰明が美しい歌声で船子を惑わし、船を沈めるというセイレーンであったという噂を思い出す。
そんな荒唐無稽な噂も頷けるほどの美しい歌声。
海や空、風すらもその歌声に聞き惚れ、息を潜めているかのようだった。
「ほう…これは驚いた」
突如として、感嘆混じりの声音が、空気を揺らした。
泰明は紡いでいた旋律をぴたりと途切れさせ、声のした方へ振り返る。
「誰だ?」
相手は振り向いた泰明の容貌に軽く目を瞠ったが、すぐに微笑んで優雅に腰を折った。
「失礼。こちらの海岸を散歩している折に、耳に触れた美しい歌声に誘われて参りました」
艶やかに響く声音でそう挨拶して、顔を上げたその男は、再び泰明を正面から見詰め、微笑んだ。
「歌声ばかりではなく、そのお姿もお美しい。貴方はもしかして、セイレーンの化身でいらっしゃるのかな?」
「……」
初対面で正体を言い当てられ、泰明はどう反応をして良いか分からず、沈黙する。
その様子を相手は、違う意味に解釈したらしい。
「初対面で不躾なことを聞いてしまったかな?それとも、警戒させてしまったかな?」
微苦笑して、肩を竦めてみせる相手に、泰明は緩やかに首を振る。
「いや…」
「それは良かった」
微笑む相手が波打つ青緑色の長い髪を靡かせながら、ゆったりとした足取りで、岩に腰を下ろしたままの泰明の傍へと近付いてくる。
泰明がゆっくりと瞬きをする間に、間近に辿り着くと、誘い掛けるように乞う。
「不躾ついでに、歌の続きを聞かせていただけると嬉しいのだが…どうかな?」
何時の間にか、膝に軽く置いていた手も取られている。
泰明は戸惑って、跪いている男の顔を見上げた。
男の碧い瞳が緩やかに細められる。
「美しい瞳だ。まるで、翡翠と黄玉で拵えたようだね…」
そう嘯く男が、今しも泰明の手に口付けしようとした瞬間。
鋭い声がそれを遮った。
「何をしている!」
切り付けるように言いながら、駆け込んで来たのはセフルである。
彼は男と泰明の間に無理矢理割って入り、ふたりを引き離した。
「…おや」
邪魔をされた男は、さして腹を立てた様子もなく、むしろ、愉しげにセフルを見た。
セフルは背中で泰明を庇うようにして、きつい眼差しで男を睨み上げる。
「お前が何者かは知らないが、こちらの方は、そのように気安く触れてよい方ではない!今すぐ立ち去れ!!」
激しい調子で言われても、男はびくともしない。
ただ、優雅に肩を竦めて見せた。
「君のような騎士が出てくるほど、高貴なお方ということかな?」
「お前に教える謂れはない。去れ!」
男は再び笑った。
気負い込むこどもを微笑ましく眺めるような笑みに、セフルは神経を逆撫でされる。
が、怒鳴りたい気持ちをどうにか堪え、更に強く相手を睨み据える。
すると、男は笑みを浮かべたまま、すいと視線をセフルの背後の泰明へと向けた。
そうして、優雅に礼をする。
「数々の御無礼、失礼致しました。これ以上、無礼を重ねる前に、私は退散すると致しましょう」
男とセフルのやり取りを眺めていた泰明は、すっと、腰掛けていた岩から立ち上がった。
「お前はただ、私に声を掛け、問い掛けただけだろう。何を、無礼と言っているのか分からぬが…」
「貴方はいったい何を…うわ!」
あまりにも無防備、無自覚な泰明の言に、セフルは振り向いて大声を上げ掛けるが、
足場の悪い岩の上で、足を滑らせそうになり、慌てて踏みとどまる。
「危ないぞ」
「〜〜〜〜っ!!」
平然と声を掛ける泰明と悔しそうな表情を隠しきれないセフル。
ふたりの姿をやや呆気に取られて眺めていた男が、堪え切れぬように吹き出す。
軽やかな笑い声が辺りに響いた。
「…ッ無礼な!」
憤慨するセフルに、謝罪するように片手を上げ、男はどうにか笑いを治める。
「これは重ね重ね失礼した」
そう言って、柔らかな眼差しで泰明を見る。
「貴方が私の戯言めいた言動を無礼だと思っていらっしゃらないのなら、幸いです。
ですが、貴方の歌を聴きたいと言ったのは、戯言ではありませんよ。いつかもう一度、お聞かせ願えると有難い。それでは…」
男はもう一度、一礼すると、踵を返し、平地を歩くかのような優雅さで、去っていった。
その後姿が見えなくなってから、セフルは悪態を吐く。
「何て、気障で芝居がかった奴なんだ!!」
そうして、傍らに佇む泰明を睨み上げ、噛み付くように捲くし立てる。
「あんたもあんただ!!仮にも王の妃候補が見ず知らずの男の前で、隙を見せるな!!」
「隙…とは?」
泰明はきょとんとして首を傾げる。
セフルは胡乱な眼差しで、泰明を見上げた。
「あんた…今の奴に何をされようとしたか、分かってるのか?」
「?私の歌を聴いてやって来て、続きを歌って欲しいと…」
「そうじゃない!!」
泰明の的外れな応えを途中で遮り、セフルは怒鳴る。
「あんたはさっき、あの男に口付けされそうになっていたんだぞ!!僕が割って入らなかったら、確実にされてた!!」
その剣幕に、泰明はますますきょとんとして、睫長い瞳を瞬かせる。
暫く、考え込むように黙り込み、再び首を傾げた。
「そうなのか…全く気付かなかった」
「………」
セフルは泰明のあまりの鈍感ぶりに呆れ返り、肩を落とした。
「これじゃあ、怒る気も失せるよ…」
溜息混じりぼやく。
すると、首を傾げたままであった泰明が、ふと思いついたように口を開いた。
「では、お前は私をあの男から庇ってくれたということか?」
「なッ…!」
セフルは思わず真っ赤になって、言い訳めいたことを喚き散らす。
「それは…ッ!アクラム様から直々にお前の護衛をするよう、仰せ付かったからだッ!!好きで庇った訳じゃない!!」
「そうか。有難う」
ふわりと無垢に微笑まれ、ますます頬が熱くなった。
それを隠すように、ふん!と盛大に鼻を鳴らし、胸を反らせてセフルは尊大に言い放つ。
「とにかく、これからはもっと気を付けるんだな!さあ、もう散歩の時間は終わりだ。城に帰るぞ!」
「分かった」
泰明は素直にこくんと頷き、ひらりひらりと軽い足取りで岩場を渡っていく。
その後を、まだ覚束ない足取りで追いながら、セフルはふと、先ほど現れた男に思いを巡らす。
まるで、貴族のような物腰だった。
しかし、国内の貴族に、あのような者はいないはずだ。
だとすると…
「国外の貴族か…?」
泰明に声を掛けたのが、ただの酔狂なら大した問題ではない。
しかし、そのことに何らかの意図があるのだとしたら…
(一応、あの男について、アクラム様に御報告したほうが良いかもしれないな)
セフルはひとりそう結論付けた。