月天譚 2

 

「これは失礼。どうやら、麗しき月の精の水浴を邪魔してしまったようだ」

「構わぬ。いつものことだ」

顔に張り付いた髪を掻き上げながら、泰明が放った素っ気無い言葉に、低い笑み声が返ってくる。

 「相変わらずつれないね。邪魔になると分かっていながら、

ここでしか会うこと叶わぬ君に恋い焦がれてやってきたこの哀れな男に、少しでも情けを掛けて頂きたいものだ」

そんな戯言と共に近付く男の姿が、月の光に露わとなる。

緩く波打つ緑色の髪を靡かせる華やかな男である。

しかし、愉しげに細められた碧色の瞳や、ゆったりとした仕種の陰に、時折刃物のような鋭さが滲む。

その気配は、紛うことなく武人の持つものだ。

そんな男を真っ直ぐに見上げながら、泰明は花弁を思わせる唇を静かに動かした。

「今夜も逢えるような気がしていた。いや、逢いたかったのだ、友雅」

その言葉の内容に反して、甘さのない淡々とした響きの声に、友雅は二度三度と瞬きをする。

そうして、再び笑い出してしまいながら、言葉を返した。

「私の気持ちが通じた…ということかな。嬉しいね」

泉の辺で肩膝を付き、泰明と視線を合わせる。

月光と煌く水の雫に飾られた白い身体を惜しげもなく晒している彼の姿に、今度は溜息を吐いてみせる。

「しかし…君はどうあっても無防備なのだね。その姿を他の男に見られでもしたらどうするんだい?」

「見られたからとて、どうということはない。それに、ここで友雅以外の人間に会ったことはない」

「これからは分からないよ。いつ、他の男が君の姿を垣間見て、

君に心奪われてしまうかと考えると、不安で堪らなくなるね」

「考え過ぎだ」

お前の言うことは分からない、と、僅かに細い眉を顰めた泰明に、友雅は艶やかに微笑む。

「…君を隠してしまおうか。他の誰の目にも触れられぬようにね……」

「とも…?」

囁きながら、訝しむ泰明の白い腕を捕らえて、水の中の身体を引き寄せ、己の身体で包み込むように抱き締める。

優しく口付けられ、突然のことに戸惑いながらも、泰明は素直に柔らかな唇を開いた。

 

 

 

僅かな水音が、夜気に溶けていく。

「傷があるね…」

水の中で優しく肌を辿る指に腕の傷を見咎められ、泰明は乱れた息の下からどうにか応える。

「……掠り傷だ…大事な…あ…」

白い肌に紅い筋を描く傷に沿って舌を這わされ、泰明は細い身体を震わせる。

「例え、掠り傷でも、君の身体にこんな跡を付けた者が恨めしいよ。

叶うなら、この白い肌に紅い跡を残すのは、私だけでありたいものだ…」

こんな風に…と腕や胸元、首筋を熱い唇が辿り、小さな華のような紅い跡を残していく。

肌に触れる熱と身の内から湧き上がる熱、そして、水の冷たさに翻弄されながら、泰明は無意識に目の前の男に縋り付く。

 

受け入れる痛みに一瞬強張る身体を宥めるように、濡れた髪を撫でられ、色付いた目尻へと口付けられる。

潤んだ瞳でどうにか、触れ合う相手を見上げると、彼は優しく見詰め返してくれる。

その瞳の奥に炎のように揺らめくのは、何なのか。

心も身体も解きほぐすような微笑みに、素直に身を委ねながらも、瞳の炎に心は慄く。

だが、それすらも心地良いのだと気付いたのは、いつからだろう。

 

 

 

「月の君」

白く漂う朝靄の中で、身支度を整える泰明の華奢な身体を、友雅は後ろからそっと抱き締める。

「まだ、君の名前を教えてくれないの?」

上着の釦を留める泰明の指の動きが止まる。

「…知らぬほうが良い」

「…そう」

端から応えを承知していたような相手の苦笑が、耳に触れる。

 

言葉にせずとも、二人は理解していた。

この森に入る前、そして出た後のお互いの居場所が、全く正反対であることを。

 

「…この戦を終わらせることが出来れば、君は私の手に届くひととなるのだろうか。

それとも…ますます離れていくのかな?」

逢う度ごとに徐々に熱を帯びていく囁きに、多くの秘密を抱える泰明は、応える術を持たない。

ならば、こんなことは止めればいいと分かり過ぎるほど分かっているのに、逢うことを止められない。

 

背中越しに触れる相手の鼓動が熱い。

その熱さに引き摺られてしまいそうになる。

このまま全てを捨てて、相手に身を任せたいと願う気持ちも確かにある。

しかし…

 

「…離してくれ」

苦しげに言葉を紡ぐと、泰明はするりと友雅の腕の中から抜け出す。

遅れて逃げていく髪先を捕らえて、口付ける彼の姿が目の端に映る。

その長い指先から頼りなく零れ落ちていく己の髪。

 

胸が痛んだ。

 

泰明は無言で足元に拡がる薄布を拾い上げ、それを被きながら細い身を翻した。

友雅を残したまま、振り返ることなく、泉の辺から離れていく。

 

いつも通りの別れ。

しかし、次第にそれが辛くなってくるのは何故なのか。

 

泰明は、いつの間にかまた唇を強く噛んでいた。

 

 

己は迷い始めている。

友雅と出会ったのはほんの偶然。

言葉の発音の違いや仕種などからすぐに、泉での水浴びに偶然居合わせた彼が、敵軍の、

しかも、かなり地位のある武将であることは分かった。

友雅も同様に、泰明が敵方の人間であることは容易に気が付いただろう。

それでも、ここは戦場ではないから、と気さくに話し掛け、優しく接してくれた。

 

何故、己にそのように接してくれるのか問うと、一目惚れをしたのだと言われた。

友雅が敵方である己に敢えて近付いた、その裏にはおそらく別の思惑もあった筈だ。

しかし、そう言った彼の眼差しは、冗談めかしたような口調とは裏腹に真剣で。

 

いつの間にか、己も彼と同じ気持ちでいたことに気が付いた。

 

日天の御子。

月天将。

泰明。

 

友雅は、そんな肩書きや名もなしに、泰明自身を見てくれた初めてのひとだった。

だから、惹かれたのかもしれない。

また同時に、彼は泰明にとっては、初めての外国人(とつくにびと)だった。

接するごとに、泰明は、彼が永泉、また、泰明の愛する国の民たちと全く同じ人間であることを思い知らされた。

己と同じように、友雅にも拠り所とする国があり、そこには、何人もの民が、

泰明の国の民と同じように笑い、怒り、泣き、幸せを欲しながら暮らしている。

そんなごく当たり前のことに、泰明は遅ればせながら気付かされた。

己の視野は何と狭く、小さなものだったのだろう。

そんな己の目を、友雅がより広い世界へと開かせてくれたのだ。

しかし、皮肉なことに、そのことこそが今の泰明の迷いを生む結果となってしまった。

 

それまで、泰明にとっての世界は、神宮と己の国だけだった。

だから、自国の民の幸せだけを考えて進むことが出来た。

だが、敵国の民もまた、日天神の慈愛を注ぐべき人間であるのだ。

彼らもまた、泰明の国の民と同じように幸せになる権利がある。

 

では、この戦の持つ意味は一体何なのか。

聖地を奪回するという大義名分を翳していても、この戦いは結局、

相手国の民を脅かす行為に他ならないのではないか。

何よりも、聖地の豊かな資源を得るという、泰明が当初からこの戦に見出していた意義は、崩壊し掛けていた。

己は、自国民の幸せの為に、相手国の民の幸せを奪おうとしている。

その行為は潔癖な泰明にとって、到底許すことの出来ないものだった。

 

しかし、そう気付いたところで、ここまで進展してしまった戦を止めることは出来ず、

また、自ら戦うことを放棄することも出来ない。

泰明は将軍だ。

戦うごとに、常に前線へ出て、軍を率いてきた。

それでも未熟な己を、常に永泉が傍で心身ともに支えてくれている。

そんな己に従って、兵士たちも命懸けで戦ってくれている。

彼らを見捨てて、己のみがこの戦いから降りることなど出来る訳がない。

 

戦い続けるしかないのだ。

 

それでも、迷いは消えない。

「友雅…」

思わず、唇から零れた名にはっとして、立ち止まる。

 

それは、何時訪れてもおかしくない瞬間。

 

もし、戦場で彼と逢い見えることがあったとしたら。

 

 

己は一体どうするのだろうか。

 

 

 

 

戦況は今だ五分と五分だった。

「奇襲?」

「そうです」

途中から戦線に加わった歳若い将軍の提案に、他の将軍たちは難色を示す。

しかし、彼らの反応に件の将軍は、全く堪えた様子を見せない。

「私は反対だ。我らは元を正せば、王族直属の正規の軍隊だぞ。そこらの山賊ならともかく、奇襲など…卑怯ではないか」

「では、いつまでもこの戦を長引かせるおつもりですか?」

「そのようなつもりはない」

「戦況は今だ五分と五分。しかし、長引く戦に兵たちも疲弊してきています。

それは相手方も同様だと思われますが…彼らは想像以上に結束力がある。

私が正式に軍に加わるまでの間、彼らの実力を侮り、こちらの兵力を過信した為に、

幾つもの大敗を喫したことを将軍もお忘れではありますまい」

「むぅ…それは」

痛い指摘に、反対の意を唱えた将軍は、口を噤む。

「戦況を動かす為には、正攻法では限度がある。更に我らが勝利を得る為には…奇襲しかないでしょう」

戦況を今の五分の状態まで引き上げた実績のある将軍の言葉に、反論する者はもはやいなかった。

「そこまで言うからには、具体的な策を考えておるのだろうな」

「もちろん」

先程口を封じられた将軍がやや悔しげな口調で問い掛けるのに、応えて、ゆったりと腕を組む。

「敵軍が、今の陣から、戦場にしている草原に到るには、我らの陣の背後にもある森を通る道を通らねばなりません。

その道幅は狭く、必然的に隊列は縦長の状態となる。その隊列の形は横合いからの攻撃に弱い。

そこを狙わない手はないでしょう。人数は要りません。多くて、四十人ほど。

弓の腕に優れた者を特に選んで、夜のうちに背後の森を抜け、道沿いの木々の陰に潜ませる。

あとは敵軍が通るのを待って、奇襲を掛ければよい」

「馬鹿な!あの森は「迷いの森」だぞ!少数とは言え、どうやって反対側へ抜けると言うのだ!」

 「私が知っています」

 「!何と…」

 「仮にも提案者ですからね。私が奇襲の為の精鋭を率います。…敵軍の結束力の要は、二人の将軍です。

月天将と水天将。特に月天将の英雄性と神秘性には目を瞠るものがある。

常に前線で戦いながら、一度も敗れたことがないことも考え合わせると、かなりの強敵だと言えるでしょう。

逆に言えば、彼を仕留めることができれば、敵、天軍の結束力を削ぎ、抑えることは容易い。

奇襲の際、隙があれば、彼の首も取ってくることと致しましょう」

 「何と豪胆な…」

 「頼もしいですぞ、橘将軍」

驚き、感嘆する将軍たちに、友雅は微笑んだ。

 歳も身分も上の将軍たちを圧しながら、その笑みはどこか投げやりで自嘲的なものだった。

 

 奇襲の決行は明朝。

それを目指して、今夜、陣を出立する。

幕舎から出ると、まだ、陽は高い位置にあった。

守りの手勢と奇襲に参加する数十名を残して、多くの兵が戦に出ているので、陣内は閑散としている。

一体今、敵方も含めて幾人の命が失われていることか。

軍は聖地を守るという大義名分を掲げてはいるが、結局はかの地の資源を独占したいだけに過ぎない。

果たして、この戦は多くの命と引き換えにしてまで続けるほど、価値あるものなのか。

 

…愚かなことだ。

 

見上げた視界の隅に、白い色が映る。

惹かれるように、視点を転じると、遠い空に浮かぶように、真昼の月があった。

思い浮かぶのは、自軍にとって手強い敵である「月天将」ではなく、名も知らぬ美しい少女のような青年の姿だ。

 

彼を自分は「月の君」と呼んでいた。

 

「今夜は逢えないな…」

白い月に、凛としていながらも儚げな青年の面影を重ね合わせつつ、友雅は苦笑する。

彼と逢う為だけに使っていた、森の抜け道。

それを多くの軍靴で汚すことを、彼は怒るだろうか。

…いや、彼はきっと怒らない。

罪悪感を抱いているのはむしろ、自分の方なのだ。

しかし、自分にはそんな感情を抱く資格はない。

 

彼が敵方の人間であることは分かっていた。

一目で心惹かれずにはおれない美貌と清しい雰囲気を纏ったひと。

同時に、彼の持つ稀有な色違いの瞳は、友雅に敵国に潜ませていた間者の話を思い出させた。

神宮の奥深くにいるはずの日天神の御子。

彼は、恐らくそうに違いない。

しかし、尊ばれ、守られるべき存在が、何故、血生臭い戦場にいるのか。

このように細い腕では、剣さえ握ることさえ出来ないだろうに。

が、その疑問は、彼と接するうちに次第に解けていった。

 

彼は自国の民を心から愛している。

その民が今、命を賭けて戦っているのだ。

自ら戦うことが出来なくとも、彼らのことを見守りたいと思っているのだろう。

 

名前さえ名乗らぬ彼が、仮にも敵国人である男相手に、自分の心を晒す訳がない。

 しかし、言葉にしなくとも、その思いは、彼の仕種、表情にまで滲んで見えた。

 その切ないまでの慈愛が、こちらの心にまで届くほどに。

 

 少しでも、敵軍の情報を得る為に、彼に近付いた友雅だったが、彼の内面まで澄んだ美しさに触れるうちに、

いつのまにか、そんなことはどうでも良くなっていた。

 

ただ、逢いたい。

傍にいたい。

そして、叶うことなら手に入れたい。

 

天に輝く月に焦がれるように、ただ、彼と逢う為に、森の泉へと向かった。

そうして、思い掛けず、自分の想いが通じたときは、天にも昇る心地だった。

 

焦がれていた月を手に入れることが出来たのだと思った。

 

しかし。

 

月は月。

地上にいる者の手には決して届かない遠い存在だ。

触れ合う悦びは、ほんのひととき。

どんなに強く抱き締めても、瞬く間にこの腕から擦り抜けていく。

手に入れることは叶わない。

 

それでも。

 

全てを叩き壊し、天地を逆さまに覆してでも、その月を手に入れたいと思うのだ。

そう、例え、そのひとの愛するものを犠牲にし、そのひとを悲しませたとしても。

 

「最も愚かなのは私かもしれないな」

 

友雅は静かに嘲笑を零した。

そうして、一瞬瞳を閉じる。

 

再び開かれた瞳には、冷たい刃のような光が宿っていた。

 

軍の為ではない。

国の為でもない。

 

ただ、己だけの月を得る為に。

 


…つー訳で、次回、とうとう運命の瞬間が訪れます。
ここに到ってやっと、キリリクに沿ったお話となって参りました。
今回頂いたリクエストは、「禁断の恋バージョンのともやす」でした。
いつ、戦場で見えるか分からない(しかも、それぞれが軍でかなり重要な役目を担っている)敵同士という設定で、
「禁断」の状況を作り出してはみましたが…いまいちパンチが足りない……←?
そこで、三角関係も織り交ぜてしまえ〜、と永泉の登場と相成ったのでありました…

今回のらぶシーン…頑張って長めに書いたのですが、こうして見ると、
やっぱり温いですね…というか、先の展開に呑まれている感じが(汗)。
個人的には翌朝の別れのシーン辺りが、一番書いてて楽しかったです♪
思うに任せないじれったさというか、擦れ違いというか…そんなところが。
苦悩するやっすんはやっぱり、麗しい…♪ということですよ!!(はいはい/呆)
このお話は当初、主にやっすん視点で書くつもりだったのですが、
どうにもこうにもやっすんを愛で足りなかったので(笑)、やっぱり友雅氏視点も入れました。
奇襲の方法等の不自然な点はどうか、目を瞑ってやってくださいませ…(汗)
今回の友雅氏は、煮詰まり系、或いは燻り系で……←??(既に友雅氏じゃないかも)
「全てを叩き壊して…」とか言うかな、このひと…(謎)
ちなみに、この台詞の出典(というのか)は四龍島だったり。書いてるうちにそうなってました(苦笑)。
でも、こういう過激な思考形態も書いてて楽しいです♪(書く分には)

作者の感情が反映される為か(笑)、えてして、姫には甘々な王子(?)が登場する遙かパロディですが、
もしかすると、今回はちょっと違うかもしれません。

ちょっと思い出した言葉。↓

"cry for the moon"(得られないものを欲しがる、できないことを望むこと)

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