月天譚 1 淡い色の空に白い月が浮かんでいる。 その様は何処までも静穏。 例え、見下ろす地上が混乱し、喧騒に包まれていても。 変わらず、高い空の片隅で、静かに地上を見詰め続ける。 「っ…!」 鋭い剣が腕を掠る。 馬の手綱を引き絞り、次の攻撃をどうにか躱すが、体勢を整えるにはまだ間が合った。 その隙を突いて、振り下ろされる敵の刃。 「泰明殿!」 すると、脇から入ってきた相棒の剣が、敵の攻撃を跳ね返した。 今度は、敵方に隙が出来た。 それを逃さず、相手の懐に飛び込み、容赦なく剣を振るう。 胸を朱に染めた敵が、馬上から落ちた。 戦の一時中断を告げる角笛が鳴り響く。 「泰明殿、お怪我は…!」 剣に付着した血を払いながら、馬首を返す泰明に、相棒の永泉が慌しく問い掛ける。 「掠り傷だ。大事無い」 「敵は一旦退くようです。私たちも陣に戻り、体勢を整えましょう」 「分かった」 軽く馬腹を蹴り走り出した泰明の颯爽とした姿に、安堵したように微笑み、永泉がその後に従う。 「最前線で戦っておられた、月天将と水天将のお戻りだ!!」 「見ろよ、あの勇ましいお姿を!」 「水天将は相変わらず、傷一つない美しいお姿だ」 「月天将の毅然とした立ち居振舞いも素晴らしい!」 陣に戻る途中、二人は見送る兵士たちから次々と賛辞を浴びせられる。 人々は、水天将の美貌に見惚れ、月天将の浮世離れした姿を、畏怖を以って見詰めた。 「月天将万歳!水天将万歳!日天万歳!!」 二人の将軍と、彼らの崇める神の御名を称える歓声。 その合間に零れる囁きがある。 「しかし…月天将の仮面は何度見ても慣れることがない。何とも…恐ろしい」 「罪人を喰い殺すという伝説の神獣の面であるからな、無理もない」 「我が天軍を率いる月天将には相応しいだろう」 「それはそうだが……」 「月天将の素顔は一体如何なるものだろうか?」 水天将と共に戦の最前線に立ち、力強く軍を率いる月天将。 戦場での彼は常に、顔のみならず、頭部全体を隠す仮面を付けている為、 一般の兵士は誰もその素顔を見たことはなかった。 彼の素顔を知る者は、王と、彼の相棒であり、王弟でもある水天将、永泉の他は、 天将と呼ばれる将軍たちの中でもごく一部であるという。 それ故、兵士たちの間では、彼が素顔を隠す理由に関して、様々な憶測が飛び交った。 最も多く噂されたのは、素顔が醜いから、もしくは顔に酷い傷痕があるからというものだった。 傍らにいる水天将が、美貌の主であることも手伝って、月天将は、醜い素顔を恥じて、 信頼する者の他には素顔を見せないのだろうと皆は囁き合った。 一方で、全く別の、しかもまことしやかに囁かれた憶測もあった。 だが、一般の兵士の身分でそれを口にすることは憚られる。 それ故、皆無意識にその憶測から目を逸らしていた。
果たして、月天将の仮面の下にあるのは、その仮面以上に恐ろしく醜い素顔なのか。 それとも…… その謎は興味深いものではあったが、兵士たちの士気を削ぐものとはなり得なかった。 月天将は、戦場では常に、真っ先に最前線へと出て、 視界の悪い仮面を付けているとは思えないほどの素早さで、敵を打ち倒す。 その勇ましくも力強い姿に、兵士たちは逆に士気を鼓舞され、結果、幾つもの勝利を上げた。 正体不明ともいえる月天将は、その行動を以って、率いる兵士たちの信頼と崇拝を充分に得ていたのだった。 陣正面奥に張られた幕舎。 その入口の白布がばさりと揺れた。 「泰明殿、傷の手当を」 「必要ない」 気遣う永泉に素っ気無く応え、泰明は仮面に手を掛ける。 一瞬後、翠色の絹糸が、幕舎内の朧な灯りに煌きながら、零れ落ちた。 美しい髪は、水の流れのように、よく見れば驚くほど華奢な肩や背中を覆っていく。 翠色の髪に縁取られた月天将、泰明の白い素顔。 それは、兵士たちの大方の予想を裏切るものだった。 傷一つない滑らかな肌。 その容貌は、傍らの永泉の美貌に負けずとも劣らない。 まさに、息を呑むほどに美しい。 清冽で凛とした美貌に、見慣れている筈の永泉も感嘆の溜息を吐く。 その美貌を更に印象付けるのは左右色違いの瞳だ。 左が髪と同じ翠色、右が黄金に近い琥珀色。 そして、この瞳こそが、泰明が素顔を隠す理由であった。 この美しくも稀有な瞳は、ごく稀に、しかも、王族の血を引く者にのみ現れる特徴だ。 その特徴を持って生まれた者は、その稀有さゆえに、代々、日天神の子として、神の化身の如く崇められる。 王族とはいえ、末端の生まれの泰明だったが、 この稀有な瞳の為、長い間、神宮の奥深くという特殊な環境の中で育った。 しかし、泰明という名こそ知られていないが、現在、神宮奥深くに坐す日天神の子の容貌は、 噂という形で、広く民衆にも伝わっている。 曰く、神の子の証である瞳に加えて、更に稀な、翠色の髪と美貌を備えたおかただ…と。 最前線で軍を率いて戦う将軍が、神の化身と尊ばれる、浮世離れした存在であることが明らかになれば、 軍、特に一般兵士たちは動揺し、混乱するだろう。 そのような事態を避けたい王の命によって、泰明は戦場では仮面を被り、 事情を知る者以外の前では、自らの容貌を隠すこととなったのだ。 そうまでして軍に参加することは、他ならぬ泰明自身の望みだった。
夜が近付いてきた。 幕舎の外から、夜営の為に兵士たちが、篝火を灯す等して動き回る気配が伝わってくる。 泰明の遠縁であり、幼馴染とも言える永泉は、吊り燈篭の灯りを強くしてから、僅かに眉を寄せ、表情を曇らせた。 万が一の急襲に備え、日が暮れるまでは戦装束のままであった泰明が、ようやく装束を解き始めた。 身軽さを重視した、将軍の地位にあるにしては、簡素な戦装束を解いていく泰明を眺め、先程とは違う溜息を吐く。 「…泰明殿らしくない不覚でした」 先程の戦いで泰明が作ってしまった隙。 永泉の静かだが、鋭い指摘に泰明は一瞬、動きを止める。 「すまない」 弁解をしない彼の表情は、降り掛かる髪に遮られて見えない。 しかし、泰明のことだ、恐らく自分を責めているのだろう。 永泉は表情を和らげ、優しく話し掛ける。 「この度の戦は、予想以上に長引いております。ですから、泰明殿はお疲れになられているのでしょう。 今夜はどうぞゆっくりとお寝みください」 「この戦況下でゆっくり寝むなど無理だ」 「それはそうかもしれませんが、貴方はいささか気を張り詰め過ぎているように思うのです。 今後あのような不覚がないよう、休めるときに休んでおかなければ」 振り向いた泰明が、淡く色付いた唇を僅かに綻ばせる。 「手厳しいな」 「ええ。私は貴方が、つまらないことで傷付くのは見たくないのです」 穏やかながらもきっぱりと言った永泉は、真っ直ぐに泰明を見詰める。 「どうか、私を信頼してください。…貴方の重荷を少しでも分けて下さい。 貴方がお寝みの間は、私が陣を守ります。貴方を…守ります」 「…永泉」 向けられる真摯な眼差しに、泰明は戸惑ったように瞬きをする。 次いで、その視線から逃れるように長い睫を伏せた。 「有難う、永泉」 そう応えた泰明の表情は穏やかで、何処か切なげだった。 「泰明殿」 心配そうに呼び掛ける永泉を振り切るように、泰明は身を翻す。 「少し、出掛ける」 「…どちらへ」 「……翌朝までには戻る」 永泉は再び眉を寄せる。
この戦が始まって間もない頃からだ。 このように、泰明が行き先も告げず、陣を抜け出すようになったのは。 いつも彼は約束どおりに戻って来るし、このことが戦の進展に直接影響を与えているとは思われない。 だが、最近泰明の様子がおかしい。 傍にいる自分だけが気付くことのできる小さな変化。 例えば、先程戦場で作った隙。 それはほんの些細なものに過ぎない。 しかし、そんな些細な隙さえなかったこの戦以前の泰明を思えば、見過ごせない変化だった。 己の信じる道を真っ直ぐ見据えていた曇りない瞳。 今、その瞳が時折泡立つように不思議な色合いを醸し出す。 澄んだ瞳の奥で揺れる光は、不安か或いは迷いか。 彼は陣を抜け出していつも何をしているのか。 それこそが彼の変化の原因であると、永泉は確信していた。 しかし、行き先を訊ねても応えない彼に、そのことを更に問い質すことは躊躇われた。 結局は、泰明の頑なであると同時に、何処か思い詰めたような気配に、問いを封じられてしまうのが常だった。 このときも、永泉はそれ以上問い詰めることはせず、 「…お気を付けて」 一言のみで口を噤む。 そんな彼に、 「すまない」 淡く微笑んで、泰明は仮面の変わりに上半身をすっぽりと覆う薄布を被り、幕舎から出て行った。 その細い背中が、入口の布に遮られるように隠され、永泉は静かに溜息を吐いた。 幕舎を出た泰明は、人目を避けるように素早く陣脇の薄暗い森の中へと入った。 この深く広大な森は、木々が密集し、慣れぬ者はすぐに迷ってしまう。 それ故、ここから奇襲される恐れは少なく、自然の砦としては申し分なかった。 敵軍にとってもそれは同様であるらしく、この森を抜けた反対側には、敵の陣が敷いてある。 自ら戦地に赴くことは泰明自身の意志だった。 生まれてからずっと、神宮の奥深くで、神の申し子として、王にさえも敬意を払われ、神司や宮司らに傅かれて育った。 しかし、泰明はそんな神宮のみを彼の世界の全てとすることが出来なかった。 神司らは、泰明を崇める一方で、彼に神の慈愛と教えを説き、 また、彼も生来の素直な気質そのままに、全ての民の幸福を目指すという神の教えを吸収した。 だからこそ、神宮の奥で大切に守られるだけの己に納得がいかなかった。 彼は外の世界へ出ることを望んだ。 その望みは、王弟である永泉と出会い、彼から日々の苦しい生活に喘ぐ民がいることを知らされたことで、 ますます深まった。 それからは、己の身を守る術を憶えたいからと理由を付けて剣を習い、 永泉から密かに、神学書以外の実用書を借りて、繰り返し読んだ。 何事にも熱心な泰明は、すぐに人並み以上の剣技と知識を得るようになった。 また、神司らの目を盗んで、永泉と共に密かに街へ出て、民の実際の生活を見ることもあった。 そうして気付く、神の教える理想とはあまりにも違う現実。 この国には、民を養うだけの資源が徹底的に不足しているのだ。 このままでは、民は幸せになれない。 このままでいい筈がない。 しかし、守られるだけの己に一体何が出来るだろう。 己は彼らの為に何も出来ないのか。 何か…出来ることはないのか。 そんな焦燥に駆られていたとき、隣国の支配下に置かれている聖地奪回の戦が始まると知り、 泰明は迷わず軍への参加を王に願った。 聖地は鉱山の多い資源豊かな土地であったから。 全ての民の幸福を目指す為には、聖地を得ることが最も近い道だ。 そう信じて、泰明は今まで戦ってきた。 しかし…… 深い森の中を迷いなく歩を進めながら、泰明は知らず紅い唇を噛む。 己は迷い始めている。 己の信じてきた道が揺らぎ始めているのだ。 何故なら…知ってしまったから。 ……出会ってしまったから。 下草を踏む僅かな音が途切れ、泰明は立ち止まる。 森の中心辺り。 そこには清水が湧き出す泉がある。 重なり合う葉の合間から零れる月光が、水面を煌かせている。 するりと被いた薄衣を滑り落とし、泰明は辺りを見回す。 来ていないようだ。 そのようなことを確認する己の仕種に、自嘲の笑みが零れる。 別に約束をしている訳ではないのだ。 だが、会いたいと思うときはいつも来てくれるので、いつの間にか期待する癖が付いてしまったらしい。 そんな己に呆れるように、また、思いを振り切るように首を振ると、泰明は身につけた衣服をその場に脱ぎ捨てた。 薄闇に朧な光を放つ白い裸身を隠すように、泉の中にその身を浸す。 この泉は何処もだいたい腰ほどの水の深さだ。 腕に負った傷が僅かに染みる。 しかし、一度冷たい水の中に全身を潜らせると、少しすっきりした気分となった。 そぼ濡れて、顔や身体に貼り付く髪もそのままに、滴る雫越しに夜闇に輝く月を見上げた。 夜空の主となるときを迎えて、晧晧と輝く月。 が、注ぐ光は、その輝きを太陽に譲っているときと同じように何処までも静かで穏やかだ。 「孤高の月か…」 自らの呼び名でもあるそれを眺めながら呟き、次いで苦笑する。 そのとき。 下草を踏み分ける音が耳に届く。 泰明は、はっとして振り向いた。 |
当サイト、最後のキリ番4000hitをお踏み頂きましたのは、寿 桜子様でした♪ 毎度こんなへぼサイトのキリ番をご申告頂いた上にリクエストも頂いてしまいまして、 有難う御座いますっ!!(平伏) しかしこのお話、御覧になって、「あれっ?」と思われること間違いなしだと思います……(冷汗) …ええと、言い訳させて頂きますと、このお話は、ぱっと見、えいやすですが、ともやすになる筈なのです!(苦)。 頂きましたリクエストが「○○のともやす」(ネタばれになるので、伏せさせて頂きました。)だったもので… それでも、何処に永泉の入る隙間が?(謎)と、皆様思われること請け合い(汗)。 しかも、まだ友雅氏登場してないし…… その上、御覧になられますと、お分かりのように、続き物です…(大汗) 前後編で終わる自信がなかったので、題名も「月天譚 1」…… またも、嵩張る代物を書いているわたくし…… ももも、申し訳御座いません、寿様!!(平謝) 宜しかったら…本当に宜しかったらで結構ですので、受け取って頂けますと嬉しいです! 返品或いは、書き直しも受け付けておりますので〜(汗) 更には、「中世ヨーロッパ風〜♪」(どうも、十字軍辺りを少しイメージしていたらしい/苦笑)なんぞと言いながら、 書いてるうちに次第に無国籍な代物と成り果てました……(焦) ちなみに、やっすんが戦場で恐ろしい仮面を付けているというのは、かの有名な中国の南北朝時代の武将、 蘭陵王からアイデア頂きました(はっ、無国籍になったのはもしやその所為かっ?)。 人並みはずれた美貌を隠すために、戦場では仮面を付けてたってひとね♪ なので、ア○ラムから頂いたネタではありません、念のため(笑)。 しかし、正直、冒頭部分を書いていて、やっすんは登場してるのに、 仮面の所為で彼の美貌を称えることが出来なくて、思った以上にストレス溜まりました(笑)。 そして…続きはまだ、書いてません!!(コラ) でも、ラストシーンは決めているので、それに向ってひたすら書くのみ!! 次回は、やっと友雅氏登場で、らぶシーンになる予定。 さて、何処まで書けるか……(恐らく、大したことないです。/苦笑) とにもかくにも! ここまで御覧頂きまして、有難う御座いました!! 完結までお付き合い頂けたら幸いで御座います♪ 戻る 次へ