ガレキの楽園 3
泰明が帰ってこない。
いつもならとっくに戻ってきている時刻だ。
陽が落ちると、この街はより物騒になる。
いつもの浜辺だろうか。
迎えに行こうと、立ち上がりかけたとき、カタンと物音がした。
「泰明。帰ったのかい」
近付いてくる気配に、顔を上げた友雅は、次の言葉を失った。
目の前には、予想に違わず泰明の姿があった。
常と変わらない美しい姿。
しかし、与える印象がまるで違う。
澄んでいながらも、鋭い眼差し。
ここまで走ってきたのか、華奢な肩で息をしている。
唐突に、その左手に握られたものに目が引き寄せられた。
黒い拳銃。
彼にはあまりにも不似合いだと思っていた武器。
それが今の彼にはしっくりと馴染んでいた。
彼が自ら銃を取る可能性は、充分に分かっているつもりだった。
それを取らせたくないと思うのが、独り善がりの全く身勝手な願いであることも。
しかし、実際に彼が銃を手にしている姿を前に、友雅は予想外の衝撃を受けていた。
言葉を失ったまま、そこから目を逸らすことさえできない。
「友雅」
そんな彼の気持ちを余所に、今まで聞いたことのない硬い声が名を呼ぶ。
「軍がここに来るかもしれない」
何故、軍が?
何故、泰明が軍のことを口にするのだ。
更に予想外の言葉を投げ掛けられ、友雅は混乱する。
彼の言葉に問いを返すことさえできない。
「軍は私を追っている。もし、軍がここに来て、私のことを尋ねても、知らないと…この一年は誰とも暮らしていなかったと応えてくれ。頼む。そして、もし、できうるならその後、軍に気付かれぬようこの街から離れて欲しい」
「……何故?」
「私の所為なのだ」
混乱を深めながらも、やっと搾り出すことのできた問いに、泰明は紅い唇を噛み締めた。
「だが、訳は話せない。すまない」
話せば、今以上に友雅を危険に巻き込むことになるから、と唇を噛み締めたまま、僅かに俯く。
「…本当にすまない。友雅には今まで世話になったのに。沢山のものを貰ったのに。それに何一つ報いることのないまま、去らなければならないのが、己でも口惜しい」
「…泰明」
別れを匂わせる言葉に、思わず引き止めるように名を呼ぶと、泰明が顔を上げた。
「お別れだ、友雅」
はっきりと別れを告げる言葉とは裏腹なその表情。
それまで、巧緻な人形のような無表情か、瞳と唇に僅かに刻む淡い微笑しか見せなかった泰明だ。
その彼が今、美しい顔に初めて表情らしい表情を浮かべていた。
今にも泣き出しそうな、悲しげな顔。
そんな顔を見たいのではないのに。
何故、そんな顔をする。
何故、別れを告げるのか。
そんな顔をされては、了承などできる筈がないではないか。
今にも崩折れそうな彼を抱き留める為か、或いは去ろうとするのを引き止める為か、無意識に彼へと腕を伸ばす。
しかし、その腕が彼の細い身体に触れる前に、泰明が外の気配を察したように、厳しい無表情に戻った。
「もう、追いついたか」
「泰明、待ってくれ」
身を翻そうとする彼の華奢な左腕をやっと掴まえることが叶う。
振り向いた泰明が一瞬だけ、また悲しげな笑みを浮かべた。
次いで、空いている腕を伸ばして、友雅の襟元を掴み、やや乱暴に引き寄せる。
「やすあ…!」
不意を突かれて驚く言葉を封じるように、泰明は友雅に口付ける。
引き寄せた乱暴さとはまるで正反対の口付け。
泰明は今まで友雅から貰った優しい口付けしか知らない。
「さよなら」
触れ合った唇が離れたところで静かに囁き、泰明は寄せた身体を引き離した。
追っ手のやって来る戸口とは反対の窓辺へ向かい、そこから身を躍らせる。
危なげなく、隣の低いビルの屋上に降り立った。
最後にもう一度、と振り返りたがる己を振り切るように走り出す。
敵の本拠地へ向かって。
家々の屋根や塀の上を全速力で渡りながら、泰明は冷たい無表情に僅かに悲しい笑みを浮かべた。
これで、夢の時間は終わり。
細い背中が窓から消えるのを、友雅はただ見送ることしかできなかった。
そのとき、ふと窓辺の脇に置かれたプラスチックケースが視界に入った。
ケースに篭められた硝子の青が、呆然としていた意識を呼び戻す。
「泰明!」
窓辺に駆け寄ってみれば、屋根を伝って、その蔭に隠れたものか、泰明の姿はもう見えなくなっていた。
反射的に追い掛けようと、コートと銃を手にしたところで、無遠慮に扉を叩く音に遮られる。
もしや、と懐に銃を忍ばせながら扉を開ければ、案の定、軍の、しかも友雅にとっては会いたくない人物が、四、五人の部下を従えて立っていた。
「お久し振りですね、橘少尉」
友雅はそれと知られぬよう、僅かに整った眉を顰める。
「もう、少尉ではありませんよ。五年も前に退役しておりますから、今はもう軍とは無関係の一般民です」
「そうでしたね」
相手は冷たさを感じさせる薄い唇に、ゆったりとした笑みを浮かべる。
友雅はそんな相手に微笑み返した。
「お元気そうで何よりです。私が退役する際は貴方も少尉でしたが、今は?」
「ええ、二年前に中尉に昇進致しました」
恐らくこの男が泰明の追っ手。
しかし、何故この男が?
同じ部隊の仲間であった男を前に、和やかさを装いつつ、友雅は暗雲のように拡がる嫌な予感に耐えていた。
「貴方も、退役などなさらず、あのまま軍にいれば、私などより昇進は早かったでしょうに。そう、貴方ほどの才能と技術があればね」
穏やかに紡がれる言葉に、思わず苦い笑みが零れる。
友雅とこの男が所属していたのは、軍の中でも特殊な部隊だった。
諜報活動を兼ねる暗殺部隊だ。
その性質上、隊員は単独で動くことが多く、それぞれ、表向きは別の部隊に配属された。
決して表沙汰にしてはならない秘密部隊である。
軍内でその部隊は「エデン(楽園)」、隊員は「エンジェル(天使)」と呼ばれていた。
そのエデンでの秘密裏の実績が評価され、友雅は少尉まで昇進したのだった。
しかし……
密かに人を殺し続けたことによって、得た仕官だ。
純粋に喜ぶことなどできなかった。
エデンでのそうした暗い経験の積み重ねが、軍に対する不信と疎ましさを育てた。
士官を得て、ある程度の自由を得られた後、すぐに軍を退役した理由がそこにある。
退役して、一、二年は密かに監視される日々が続いたが、それでもあのまま軍にいるよりはよほどましだった。
退役した最も大きな理由は、別にあるのだが……
「私の当時の才能と技術をそこまで評価頂けるのは光栄ですが…」
苦笑しつつの言葉に、中尉は頷く。
「ええ、仮定の話に過ぎません。以前がどうあろうと、今の貴方は一般民だ」
「そのたかが一般民の一人である私に、軍が一体何の御用でしょうか?貴方がたの逆鱗に触れるようなことをした憶えはないのですが」
「ああ、そのようなことはありません」
一旦言葉を切った中尉が、僅かに目を細める。
「…実は探しものをしていまして」
「探しもの?」
「ええ。我々はそれが失われてから、この一年探し続けていたのですが、手掛かりさえ見付けることができませんでした。それがつい最近になって、この街にあることが分かったのです。もしや、貴方ならその行方を御存知かもしれないと思いまして」
「それだけの情報では何とも応えようがありませんね」
友雅は注意深く、しかし、態度だけは変えぬよう、中尉の言葉に耳を傾けた。
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