ガレキの楽園 2
ただ、子供が欲しかっただけなのだ。
そう言って、あの人は笑った。
その言葉に違わず、己を本当の子供のように慈しんでくれた。
もう一つの、己だけの名をくれた。
夢見るように、幼かった頃の話をして、海と空が青かったことを教えてくれた。
ひたすら、訓練に明け暮れた日々。
己を見る人々の冷たい眼差し。
決して、楽しい日々ではなかった。
それでも。
あの人がいてくれた。
優しく抱き締めてくれる腕があった。
いつだったか、試みに「父」と呼んだことがある。
あの人は照れくさそうに、嬉しそうに頭を撫でてくれた。
楽しかった。
幸せだった。
あの人が名前を呼んでくれるだけで。
「泰明」
低く、甘い響きのある声が呼んだ。
失われてしまった筈の声。
今、己が何処にいるのか一瞬分からなくなる。
過去の追憶に沈潜していた泰明は、何度か瞬きを繰り返す。
薄闇の中、碧い瞳が見下ろしている。
次いで、緩く癖のついた青緑色の髪が頬に落ちてくる。
「友雅…」
「父」ではない。
「何処に行っていたの?」
「何処にも行っていない。ここにいた」
「身体はね。私が言っているのはこことここのことだよ」
咎めるでもない口調でそう言って、友雅は泰明の白い額と柔らかさを感じるほど滑らかな胸元に口付ける。
旅立っていたのは思考と心。
優しく触れてくる唇がくすぐったくて、思わず身を捩ると、低い笑い声が降ってくる。
懐かしい声。
「せめて、こういうときには集中してくれないとね。心あらずな素振りをされてしまうと、男としてはちょっと情けない気分になってしまうんだよ?」
何処か悪戯っぽい声音に諭されて、泰明は神妙に頷く。
「すまない。今から集中する」
首にしがみつくように腕を回すと、華奢な身体を自らの腕の中に抱き取りながら、友雅は笑み混じりに囁く。
「まあ、君を集中させることのできない私にも問題はあるんだろうけどね」
首を振って、否定の言葉を口にしようとする前に、唇を封じられる。
後はもう、言葉もなく、徐々に押し寄せてくる優しい心地良さに身を委ねる。
その行為はただ優しいばかりではなく、痛みを伴ったものであったけれど。
それでも、優しいと感じた。
この時間が、いや、彼と過ごす全ての時間が心地良かった。
それは、「父」と過ごした時にも似ていて。
彼と初めて会ったとき。
己は呆然と海辺に佇んでいた。
暮れていく海を眺めながら、その澱んだ赤に、そのときはまだ生々しかった記憶を刺激され、動くことができなかった。
目の前で撃たれ、動かなくなった「父」の身体から流れる鮮やかな色。
その周りに倒れ伏す男たちの身体から流れ出る血も同じように鮮やかで。
…己の手も同じ色に染まっていた。
嵐のように荒れ狂った感情が治まった後は、恐怖とも後悔ともつかない感情に襲われて、その場から逃げ出し、気付けば海に辿り着いていた。
それでも、銃を離さなかった己が滑稽だった。
「父」からあれほど人間と変わらぬ愛情を注がれたのにも関わらず、やはり己はどうあっても、人間を傷付ける道具にしかなりえないのか。
ならば、その本分のままに、己に相応しいことをなそう。
己を愛してくれた「父」のために。
己の得た全てを以ってその願いを叶えよう。
そんな絶望と決意に身を浸していたとき、ふいに彼から声を掛けられたのだ。
驚いた。
その声があまりにも「父」に酷似していたから。
だからなのだろう。
懐かしさを感じるほど、彼と過ごす時間が心地良いのは。
そう考えることしかできなかった。
しかし、時折訪れる甘苦しい心地は「父」と過ごしていた頃にはなかったもので。
それは己と彼との間に、他の誰とも違う何がしかの繋がりが、元々あったのではないかという錯覚まで抱かせる。
そんなことがある筈はないのに。
優しく触れてくる彼の頭を胸に抱きながら、泰明は気付かれぬよう、ひっそりと僅かな苦笑を唇に刻んだ。
そんな心地良いときも、もうすぐ終わる。
頭の片隅を今日見た軍の姿が過ぎる。
彼らは間違いなく、己を追って来たに違いない。
彼らを目にした途端、穏やかな日々に忘れかけていた、絶望と決意が蘇った。
いや、それらを己は今まで無意識のうちに忘れようとしていたのだ。
己は一体、何をやっていたのか。
そもそも「父」は己のために命を失ったのではないのか。
そんな薄情さが、人ではない証に思えて嫌になった。
「君は綺麗だね。君ほど綺麗な人は他に知らない」
口付けの合間に、いつもの友雅の囁きを聞く。
いつも以上に胸の奥底が痛んだ。
懐かしい空と海を仰ぐように、己を見詰める瞳に出会う度、痛みと共に罪悪感に近い気持ちが胸を塞ぐ。
告げていないことがある。
彼が言うように、己は綺麗な存在ではない。
人でさえない。
人の代わりにその手を汚す造り物でしかないのだ。
彼の理想になりきるには元より力不足。
真実を告げないまま、別れることだけが心残りといえば言えなくもなかった。
しかし、人が造り、生み出す物を疎んでいるような節のある彼には知られないままでいた方がいいのかもしれない。
ひとり、街の小路を歩みつつ、泰明は先程浜辺で拾った硝子の欠片を、光化学スモッグに遮られ、真っ直ぐに差すことのない陽光に翳す。
空と海を汚したのも人だが、この青い硝子を造り出したのも人だ。
泰明はこの硝子の欠片が好きだった。
例え、自然のものではない造り物でも、綺麗だと思った。
この青には失われてしまった海と空を懐かしむ人の心が篭められているのではないかと、夢を見る。
そうして、一度も見たことのない美しかった頃の海と空とに思いを馳せる。
本物の海と空はもっと美しかったと、「父」も友雅も言うけれど。
それでも。
綺麗だと思った。
そうして、ときどき絡んでくる男たちをかわしつつ、今いつものように、欠片を光に透かしてみて、改めて気付くことがあった。
思わず、自嘲めいた笑みが零れる。
何のことはない。
夢見ていた海と空の色よりも何よりも、この色は友雅の瞳の色と似ているのだった。
別れる覚悟はできている。
軍がやって来ている今、一刻も早くこの街から離れた方がいいだろう。
彼を巻き込まない為にも。
それでも、どうにも離れがたくて、こうしてまだここにいる。
「未練か」
ポツリと呟き、このまま彼の元へ帰らず、この街を出て行こうかと迷い、立ち止まる。
そのとき。
突如として、見慣れた黒い軍服が視界に入った。
硬直したように身体が動かなくなる。
一瞬の間を置いて、軍服の男もこちらの姿を捉えた。
その唇が一つの名を紡ぐのが、いやにゆっくりと目に映る。
A・z・r・a・e・l
その名を呼ばれた瞬間。
泰明は腰に下げていた拳銃を引き抜き、男の眉間を過たず撃ち抜いていた。
男は紅い花弁を撒き散らしつつ、それ以上声を発することのないまま、その場に崩折れる。
ばらばらと集まってくる硬い靴音を背後に聞きつつ、泰明は身を翻して別の小路に入った。
この一年は呼ばれることのなかった名。
軍から与えられた名。
それを呼ばれた瞬間に、教え込まれた技が蘇った。
一撃で人を殺す技。
その為に、己は軍によって造られたのだった。
己は一体何処に向かっているのか。
小路を走りながら、泰明は訝しく思う。
最早、一刻も早く街を離れる以外に道はないというのに。
その方が彼を巻き込まないで済むのに。
それでも、彼の元へ駆けていく己が不思議だった。
もしかしたら、軍は己が今までいた場所を突き止めているかもしれない。
ならば、否応なく彼は危険に巻き込まれることになる。
己はきっとその危険を彼に伝えるために走っているのだ。
そんな言い訳が、一瞬頭に浮かび、すぐ消える。
ただ、会いたかった。
最後に。
そうして、心に引きずられた身体はひたすら、彼の元へ。
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