Blue 〜knot〜
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空から天使が降ってきた―
そんな印象だった。
雪が止んだので、詩紋は訪問販売に出ることにした。
「無理はしなくて良いんだよ。外に出るとしても、道が乾いてからにした方が良いんじゃないかね?」
心配そうに言う店主に、詩紋は笑って首を振る。
「大丈夫です。この空模様だと、また、雪が降り出しそうでしょう?
きっと、外に食べ物を買いに行きたくとも、行けない人がたくさんいると思うんです。だから、雪が止んでいる今、行ってきます」
「…本当にお前は良い子だねぇ……」
「…いいえ、そんなことないです」
目を細めて感嘆する店主に、詩紋は再び首を振って俯く。
明るい笑みを浮かべた詩紋の表情に、一瞬昏い翳りが走る。
本当の僕は、全然良い人間じゃないんです…
心の中でポツリと呟き、元の曇りの無い笑顔を取り戻してから、顔を上げる。
「それじゃあ、行ってきます」
「気を付けて行っておいで」
優しい店主に見送られ、詩紋は持ち手付きの大きな籠に、清潔な布に包んだパンを入れて、店を出発した。
訪問販売の売れ行きは、まずまずだった。
邪険に門前払いされる家もあったが、パンを買ってくれた家では、必ずと言っていいほど、詩紋に労いの言葉を掛けてくれる。
どの品物も値が安く、大きな利益は出ない。
それでも、売りに来た品物を、ひとつでも買ってくれる客がいること、そうして、自分にも声を掛けてくれることが、詩紋には嬉しかった。
空を覆う雲が、店を出たときよりも、厚く垂れ籠めてきていた。
籠に入れて売り歩いていたパンも、ようやく半分になりつつある。
「一度、お店に戻ろうかな…」
誰にともなく呟いて、踵を返した詩紋は、そこで、ぎくりと立ち竦んだ。
目の前で狭い道を塞ぐように立ちはだかるのは、五人の少年たちだ。
「よぉ、詩紋ちゃん」
正面に立つ少年が、嘲るような調子で名を呼び、ニヤリと笑う。
彼らは、詩紋がこの街に来て以来、ことあるごとに嫌がらせを仕掛けてきた。
この地域では珍しい金髪碧眼と、何よりも、詩紋の持つ力を疎んでのことである。
詩紋がわざわざこのときを選んで外出したのは、店主に言った理由の他に、
実は、この少年たちに捕まるのを避ける為もあったのだが、却って裏目に出てしまった。
詩紋は重い溜め息を堪えて俯く。
ここで溜め息を吐いては、彼らの神経を逆撫でするだけと分かっていたからだ。
しかし、詩紋がどう振舞おうとも、彼らの行動は変わらなかった。
結局、彼らは詩紋が何をしても、気に入らないのだ。
少年たちは素早く詩紋を囲い込み、強引に近くの路地へと連れ込んだ。
詩紋が大事に抱き締めていた籠は、少年たちによって、乱暴に取り上げられ、乾きかけの地面に投げ捨てられる。
ふっくらとした丸いパンが籠から幾つも転がり落ち、泥に汚れた。
それからは、いつもどおりだ。
詩紋はただ、浴びせかけられる罵声と、振り下ろされる拳に耐えた。
下手に大怪我を負わせては、大人が出てきて面倒になると分かっている少年たちは、力任せに詩紋を殴りつけることはしない。
或いは、詩紋の持つ能力に、一抹の恐れを抱いているのかもしれない。
その代わりのように、少年たちの雑言は、刃物のように鋭く、執拗に詩紋を切り付ける。
だが、黙って耐え続ければ、やがて少年たちは詩紋を苛めるのに飽きて、去っていく。
故に、詩紋を囲む少年のうちひとりが、半ば以上脅しで、手にした金属の棒を振り上げたときも、詩紋は身を固くして堪えた。
しかし、振り下ろされる瞬間は、やはり目を瞑ってしまう。
ちょうど、そのときだった。
ふわりと風が起こり、目を開いた詩紋の前に、翠色の髪をした天使が舞い降りてきたのは。
思わず詩紋が目を奪われているうちに、天使は詩紋に向かって振り下ろされた棒を打ち払い、少年たちを追い払っていた。
凛と冴えた立ち振る舞いで一層際立つ美しい姿は、慈愛の天使というよりも、戦いの天使というほうが相応しいかもしれない。
翡翠色と橙色の稀有な色違いの瞳が、詩紋に向けられる。
すらりとした細身が際立つ黒い衣服を纏っている。
その細い肩に、背に、素早い動きに煽られて宙に舞っていた絹糸のような髪が、ふわりと落ち着いていく。
長い髪に覆われた背に、羽はない。
そこでようやく、詩紋は目の前に佇む人物が、天使などではなく、人であることに思い至った。
それでも、とても綺麗なひとであることには違いない。
見る人によっては、彼自身もまた、天使のようだと評されるだろう、癖のある金の髪に青い瞳を持つ自分の容姿を棚上げにして、
詩紋はただ、目の前の綺麗なひとに見惚れる。
そうして、詩紋が呆然としていると、綺麗なひとが、柔らかな輪郭を描く唇を開いた。
「大事無いか?」
その声音は澄んでいるが、低い。
男性だ。
そのことに、納得と違和感の両方を感じてしまう。
(あれ?やっぱり、人間じゃなくて、天使なのかな?)
青年は何処までも怜悧な無表情で、内心で再び首を傾げた詩紋を見詰めている。
それなのに、顔立ち自体は少女のようなあどけなさがあって、その所為で無垢な印象が強まり、
青年をより人間離れした存在に感じさせてしまうのだ。
その青年の細い眉が微かに寄せられ、怪訝そうな表情が生まれる。
「私の言葉が分からぬか?」
何時まで経っても、問いに応えない詩紋の様子に、言葉が通じないのかと美しい青年は、懸念したらしい。
そこに至ってやっと我に返った詩紋は、首を振って、慌てて立ち上がる。
「あ、すみません!大丈夫です」
言った傍から、勢い余ってふらりとよろめいてしまう。
すると、白い手を伸ばした青年が、詩紋の腕を取って、身体がふらついたのを支えてくれた。
ほっそりとしたなよやかな手なのに、意外に力がある。
「…あ、有難う御座います」
ようやく落ち着きを取り戻した詩紋は、手を離した青年を見上げてにこり、と微笑む。
「さっきも…助けてくれて、有難う御座いました」
「大事は無いのだな?」
「はい!」
「小さな傷は幾つも負っているようだが」
「…このくらいは平気です。掠り傷ですから」
そうか、と頷いた青年は、詩紋に興味を失ったかのように、す、と視線を逸らす。
と、同時に滑るように動いた。
流れるような動きに、つい詩紋が目を奪われていると、路地を出た青年が、不意に身を屈めた。
そうして、そこに転がっていた籠を拾い起こし、周囲に落ちているパンを拾い始める。
「あ、良いですよ、そのままで!それは僕が拾いますから」
詩紋は慌てて止めるが、青年は無視して、細い指で丸いパンを次々と拾って行く。
そこで、更に慌てた詩紋は、そちらへ駆けて行って、パンを拾うのに加わった。
「これらのパンはどうする?」
「あ、それじゃあ、この籠の中に入れて下さい…有難う御座います」
泰明が拾ったパンを籠に入れると、少年はやや困惑気味ながらも、微笑んで礼を言った。
そうして、ふと、泰明の手に目を留め、あ、と声を上げる。
「どうした?」
「すみません、右手を見せてもらえますか?ええと、掌ではなくて、甲の方を…ああ、やっぱり血が出てる」
泰明の白い手の甲に走る傷から滲む紅を見付けて、少年は痛ましげに眉を顰める。
「きっと、僕を助けてくれたときに、怪我をしちゃったんですね。ごめんなさい、僕の所為で…」
「これこそ掠り傷だ。問題ない。それに、これはお前の所為ではない。私が力不足で、上手く立ち回れなかっただけのこと」
両手で、泰明の右手を捧げ持ち、悲しげな顔をする少年に、泰明は淡々と告げた。
そうして、するりと手を振り解こうとすると、慌てたように抑えられた。
「でも、このままにしておいたら、痕が残ってしまいます!せっかく綺麗な手なのに…すみません、少しいいですか?」
「?」
少年は、泰明の右手を片手に持ち替え、空いた手で泰明の手の甲を上から包み込むように覆う。
「…!」
怪訝そうに少年がするがままに任せていた泰明は、不意に目を瞠った。
少年がゆっくりと、手の甲を覆っていた手をずらす。
つい先ほどまで紅い血を流していた傷が消えている。
ピリピリとした痛みも消えていた。
(…治癒能力か!)
瞬時に少年の能力を悟った泰明の脳裏に、現在この街に駐留している軍のことが浮かんだ。
特殊部隊結成の為、特殊能力を持った少年少女たちを集めているという…
「…こんな能力は、気味が悪いですか?」
泰明の沈黙を悪いように受け取ったのか、少年が不安げな顔色で問うてくる。
泰明は我に返って首を振った。
「いや、そのようなことはない。とても有益な能力だ」
泰明の手を離して、俯こうとしていた少年は、泰明の応えに、は、と顔を上げる。
そんな少年に、泰明は淡い微笑みを浮かべて見せた。
「有難う、助かった」
人形のように無表情だった天使が見せてくれた初めての笑みに、少年の頬が僅かに染まったが、当の泰明は気付かず、言葉を継ぐ。
「しかし、私よりも己の傷を治すことを優先した方が良かったのではないか?掠り傷とは言え、私よりもその数は多い」
素っ気無いが、冷たさは無い泰明の口調に、少年は苦笑して、言葉を返す。
「あ、いいえ、僕のは放っておいても、すぐ治る程度のものですから。それに…
僕の能力は、外側にだけ働くものなので、内側…僕自身の傷や痛みを癒すことは出来ないんです」
言葉を紡ぎながら、少年が、籠を抱えなおす。
「…そうか。知らぬこととはいえ、失礼した」
「そんな。謝らないで下さい。だって、僕、嬉しいんですから」
「?どういうことだ?」
「貴方は、僕の能力のことを知っても、全く態度を変えないで接してくれている。それが、とっても嬉しいんです」
「そうなのか」
明るく微笑んで頷く少年の様子には、初対面の相手に臆する気配は無い。
先程、少年たちに囲まれていた時は、ただ、なされるがままだったが、気が弱い訳でもなさそうだ。
もしかしたら、ひとと争うことが苦手なのかもしれない。
優しい少年なのだろう。
そう考えながら、拾った最後のパンを少年の抱える籠に入れた泰明は、そのままひょいと籠を持ち上げた。
「え?!あの…?」
「また、あの者たちに捕まっては大変だろう。送っていく。お前のその傷の手当も早くせねばならない」
「あの、そんなに気を遣わないで下さい。僕は本当に大丈夫ですから…」
戸惑う少年に、一人暮らしかと問うと、パン屋を営む店の主人の家に住まわせてもらっていると言う。
「ならば、このパンは私とぶつかって落としてしまったことにすれば良い。傷もそのときに転んで出来たと」
「……」
それまで、申し訳なさそうな顔で泰明の申し出を断り続けていた少年は、その言葉を聞いてぴたりと口を噤んだ。
世話になっている店主を悲しませることも避けたい気持ちがあったのだろう、
やがて少年は、それまでの申し訳なさそうな表情に、安堵の表情も浮かべて頷いた。
「有難う御座います」
「話は決まったな」
承諾を得た泰明は、すぐに歩き出す。
少年が慌てて追い縋ってくる。
「でも、籠は僕が持ちます。自分の荷物ですから」
優しい口調だが、強情に言い張るので、泰明が籠を渡すと、少年はにっこりと屈託なく微笑んだ。
「僕、詩紋って言います。貴方は…?」
泰明は少年の笑顔に釣られるように、僅かに唇を綻ばせた。
「泰明だ」
「それじゃあ、泰明さん。少しの間ですけど、宜しくお願い致します」
何故か白い頬を染めて照れたように笑い返す詩紋と歩き出しながら、泰明は街の中央広場がある方向へ視線を走らせる。
もしも、詩紋のことを知った軍が、彼を連れ去りに来るようなことがあったら、何としても阻止せねば。
泰明の澄んだ瞳に、鋭い光が閃いた。
「この通り沿いで間違いないかな?」
「…はい、間違いないと思います」
「やれやれ、やっと辿り着いたね。瀬里沢氏は余程用心深いお方のようだ…」
現在の軍体制に真っ向から異を唱えるジャーナリストなのだから、
比較的治安の良いこの情報都市下でも、居場所を悟られにくくするのは無理もないが。
端末に呼び出した地図を確認して頷いた頼久に、友雅は肩を竦めて苦笑を返す。
鷹通から教えられた瀬里沢の住居は、下層民が住まう界隈の奥まった通り沿いにあった。
通りに到るまでの道は入り組んでいて、一応大通りと思しき道を歩いていても、
途中でアパートに行き当たって、くねくねと折れ曲がったり、行き止まりになったりする。
狭い土地で、なるべく効率的に住居スペースを確保しようとした結果なのだろうが、
迷路のような道に惑わされて、目的の通りに到達するまでに、友雅と頼久はかなり苦労をさせられた。
或いは、こうまで苦労したのは、ただ単に、自分たちが、このような界隈に慣れていないだけの話かもしれないが。
「しかし、自ら行くとは言ったものの、瀬里沢氏が我々の話を聞いてくれる可能性は低いかもしれないね」
「それは…」
友雅の言葉を否定しようと口を開きかけた頼久だったが、途中で言葉を詰まらせてしまう。
実のところ、貴族ではないといっても、外見的には優雅で貴族的な雰囲気を漂わせる友雅と、
鋭く隙の無い身のこなしで、いかにも軍人的な雰囲気を持つ頼久は、この界隈では明らかに浮いていた。
そんな明らかな余所者に対して、時折、道で行き交うこの界隈の居住者らしき人々の反応は、決して友好的ではなかった。
胡散臭げな眼差しでじろじろと眺めるが、目を合わそうとすると、あからさまに目を逸らす。
こちらの姿を認めた途端、逃げるように近くの路地に駆け込む。
この二つのうちのいずれかだ。
それでも、頼久は息を吸って、言葉の続きを吐き出す。
「結果は、話してみなければ分かりません」
「確かに。勿論、結果はどうあれ、挑戦はしてみるつもりだよ。泰明も一生懸命頑張っているしね」
「…はい」
友雅の言葉に、健気な泰明を思い出し、頼久は表情を緩める。
しかし、不意に何かを思い出したように、やや深刻な表情となる。
「どうしたんだい、頼久。何か気になることでもあるかい?」
傍らを歩む友雅は、時折、地図と照らし合わせをしながら、
通りに面した玄関口のネームプレートを確認していたが、頼久の表情の変化もしっかりと目に入っていたらしい。
目元に少しからかうような笑みを滲ませながら、問うてくる。
「…いいえ。埒も無いことです」
「だが、泰明に関することなのだろう?もしかして、私にも多少は関わりがあるかな?」
やんわりと促されて、頼久は溜め息を吐いて、白状した。
「今日の天真は、妹御の行方に関わる情報を得た所為でしょうか、常よりも一層余裕を無くしている状態に見えました。
そんな天真に、泰明殿を同行させて宜しかったのでしょうか?」
「天真が泰明に何かするのではないかと?」
「正直を申せば…はい」
「まあ、確かにその不安は無きにしもあらず、だけれど」
「随分と余裕ですね」
やや非難がましい口調で言われ、友雅は肩を竦めた。
「とんでもない。何時だって、私は不安だよ。天真は勿論、君たちも皆、それぞれいい男だし、泰明は私には勿体無いくらい魅力的だしね。
けれど…会議の時にも言っただろう?今は、何よりも泰明の意思を優先してやりたいんだ」
目標を真っ直ぐに見据えて進む泰明の意思を。
「以前から、泰明は天真とその妹君のことを気にしていたし、あの状況で天真に同行したいと言い出すのは予想していたしね。
あの健気さを見ていると、出来る限り、泰明の望むよう自由にさせてやりたいと思ってしまうんだ。
君にもこの気持ちは分かると思うのだけれどね」
「確かに、泰明殿の意思を大切にしたいと仰る気持ちは分かりますが…」
泰明への想いは、そう簡単に理屈で割り切れるものではないのだ。
泰明を自由にさせてやりたい。
確かにそう思う。
しかし、想い、焦がれるが故に、それとは真逆の気持ちも生まれてしまう。
釈然としない頼久の心の内を読み取ったように、ふと、微笑んだ友雅が、口を開く。
「実のところ、泰明を常に目の届くところに置いて、これ以上危険な目に遭わぬよう、
或いは、他の男の目に触れぬよう、この腕の中に閉じ込めておきたいという気持ちも、私の中には強くあるのだがね。
胸の中ではいつも泰明への思い遣りと、独占欲がせめぎ合いだ」
「……」
自分の内にもある気持ちを言い当てられて、目を瞠る頼久に、友雅は苦笑してみせた。
「けれど…あの状況で、天真のことを思って行動する優しさを持っている泰明が、私は好きなんだ。
私だけを見てくれても、皆に優しくない泰明では嫌なんだよ。勝手だね」
苦笑したまま、しかし、何処か愉しそうに打ち明けた友雅に、頼久もまた、苦笑して頷いた。
「確かに、身勝手ですね。友雅殿も、私も…」
ストーリー絶賛停滞中です!わ〜い♪←ヤケ。 当初予定の半分までしか進んでおりません。 殆どを、しやすシーンで割き、友雅氏+頼久シーンがちょこっとだけ…ってな具合になりました。 やっすんの描写に力入れ過ぎました☆(清々しく?白状) え〜…こちらを御覧下さっている方は、充分ご承知かと思いますが、この話はやす受ですので! 今回、しやすシーンを書いていて、もしかしたら、あんまり、やす受っぽくないかなあと思いまして。 え?余計な心配ですか、そうですか、それなら何も文句は御座いませぬ。むしろ、本望(笑)。 一方、友雅氏と頼久は、大事な使命を帯びての行動の最中、やっすん談義に花を咲かせております(え?)。 余裕こいてるT氏に、ちょっと反感を覚えるY青年。 でも、T氏が抱えているジレンマ(?)を打ち明けられ、共感して、更に連帯感を深めた模様です。 次回、天真の動向を追うと共に、ストーリーも急展開を迎えます!(予定) 乞うご期待!!(…と宣言して、自分の首を絞めるんだなぁ…/苦笑) top back