Blue 〜eden

 

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 床が揺れる。

 振り向くと、粉塵の帳越しに、その姿が見えた。

「友…雅……」

 呆然と名を呼ぶ間もなく、友雅が駆け付けてくる。

 今までになく険しい表情だ。

「泰明!」

 もう一度はっきりと名を呼ばれ、泰明は我に返った。

「友雅!何故、戻ってきたのだ?!早く逃げ…」

「それはこちらの台詞だよ!」

 血相を変えて叱咤するように言い掛けたのを、それ以上の勢いで封じられる。

 友雅の腕が伸びてきて、痛いほどの強さで泰明の二の腕を掴んで、引き寄せようとする。

「…ッ!」

「逃げるのなら、君も一緒だ。いやだとは言わせないよ。何としてでも連れて行く」

 思わぬ強引さに驚きながらも、泰明は首を振る。

「お前は一人で行け!私は行けない…!」

「泰明!!」

「行けないのだ!!」

 己は新しい世界に相応しい存在ではない。

 ここで朽ちるべき存在なのだ。

 泰明は強情に首を振って、友雅の腕から逃れようとする。

 しかし、友雅は腕を離さない。

 それでも尚、腕を取り戻そうと足掻く泰明の耳を、強く激しい声音が打った。

「君は私に死ねと言うのか?!」

 思わぬ言葉に、泰明は目を瞠って友雅を見上げた。

「友雅…何を…何を言うのだ…?!」

 混乱したように問う泰明を見据えたまま、友雅は先ほどよりは落ち着いた、しかし依然として強い声音で応える。

「私に君を残して一人で行けということは、私に死ねと言っているのと同じことだよ」

「そのようなことはない!」

「いや、そういうことだ。私は以前、君に言ったことがあったね。君の未来が半分欲しいと。君は承諾してくれた筈だ。

そのときから、君の未来の半分は、私とふたりで共有するものになっているんだよ。

例え、君といえども、私の承諾もなしに、奪うことは出来ない筈だ」

「そのような…」

「君がいるから、私は生きていける。今までも…これからも。その君を失ってしまったら、私は自分の未来を見失ってしまう。

それでも、君がどうしても、ここに残ると言い張るのなら、私も留まるまでだ」

「……」

 泰明を見詰める友雅の眼差しは何処までも真剣だ。

「だが、君が少しでも私を想ってくれているのなら、共に生きることを選んで欲しい」

 そう泰明に乞う友雅の顔が、滲んで見えなくなる。

 心ならずも溢れてくる涙を見せまいとするように、泰明は俯いた。

「…そんな言い方は卑怯だ…っ…!」

「卑怯でも構うものか。君を取り戻すためなら何でもする」

 そのまま腕を引かれて、友雅の腕に抱き締められる。

 離れようと…別れようと心に決めた筈だ。

 しかし、この腕を振り払えない。

 切り捨てた筈の望みが胸を塞いで、身動きが取れなくなる気がした。

 泰明の細い指が、友雅のシャツの胸元を縋るように掴んだ。

 

「…痴話喧嘩は終わりか?」

 僅かな苦笑混じりの声音に、ふたりは我に返る。

 アクラムが皮肉げな眼差しをこちらに向けている。

 その眼差しを弾くように見返して、友雅は泰明を庇うように、アクラムに向き直る。

「泰明は返してもらう。それを阻もうとするなら、例え怪我人でも容赦しないよ」

「友雅!」

 挑戦的な友雅の口調を咎めるように泰明が声を上げる。

 ふと、アクラムが独りごちるように呟いた。

「…やはり似ているか」

 誰に、とは言われなくとも分かった。

 安倍博士が泰明にとって「父」ならば、アクラムにとっても「父」と言えるのだ。

 思わず複雑そうな表情となった友雅に、アクラムは小さく笑う。

「似ているのは声だけのようだが。研究者としての才はあったが、人が良過ぎるくらい善良な男だった…

だからこそ、軍に馴染めず、排除されたのだ。お前とは似ても似つかぬだろう?」

「…承知しているよ」

 話を切り替えるように、アクラムが小さく息を吐く。

「…まあ、良い。アズラエルを連れて行け、レジスタンス。阻むも何も、このざまでは何一つ出来はしない…好きにするが良い」

 アクラムの言に、頬を伝う雫もそのままの泰明が弾かれるように首を振った。

「駄目だ!お前を残しては行けない!!」

 友雅を振り返る。

 何とか、アクラムを連れて行く方法はないかと目だけで必死に問う。

 友雅は難しげに眉を顰め、首を振った。

 それは最早、この状況では不可能だ。

また、ここから逃げ出すことは、決してアクラムの望みではない。

「私のことは捨て置け…情けは不要だ」

「ならば、私も残る」

「それこそ不要」

「アクラム!」

 抗議の声を上げる泰明。

 アクラムはゆっくりと視線を動かし、初めて自分の名を呼んだ泰明を見る。

「…お前はどれほど己が残酷なことを言っているのか、まるで理解していない」

「何?」

 アクラムの言葉の意味が分からず、泰明は戸惑って、細い眉を寄せる。

「心を私以外の者に預けながら、共にあると言う。それは不快なだけだぞ…」

「!しかし、私は…!」

「去れ。お前には私と同じ闇は背負えない」

「…!」

 同じ闇を背負うには、あまりにも清過ぎる。

 そこまでは敢えて口にすることなく、アクラムは殊更冷たい拒絶の言葉のみを薄く笑んだ唇に乗せる。

「…その上で、ただ共にあるだけで、私を救えると少しでも思っているのなら……心得違いも甚だしい。身の程を知るがいい」

 泰明は蒼白な顔で黙り込む。

 そんなつもりはなかった。

 しかし、己の内にそのような不遜な気持ちが欠片もないとは断言できない気もした。

 この男の闇どころか、その心の内さえ理解できないのは、紛れもない事実なのだから。

「…行こう、泰明」

 友雅が促すように、泰明の細い両肩に手を置く。

 それでも、泰明は首を振った。

 俯いたその顔は、泣きそうに歪んでいた。

「強情な…」

 アクラムが苦笑交じりの溜息を零す。

「模造天使とはいえ…使命よりも己の心に振り回されるお前は失敗作だな…

そのようなお前一人が残ったところで…後の世の大きな災厄にはなるまい」

はっと顔を上げて、泰明がアクラムを見る。

そんな泰明に、アクラムは無事なほうの片手を億劫そうに上げ、握っていたものを見せる。

「…これが何か分かるか?アズラエル」

小さなボタンの付いた装置。

「この制御装置を作動させると、私の体内に仕掛けられた薬品が身体中を巡る…体内の部品を溶かしながらな…」

「…!それは天真の…!」

「そう…ランの身体もそうやって消滅させた」

 そしてまた、アクラム自身も同じ方法で消滅するつもりなのだ。

 鋭く息を呑んだ泰明が、その装置を奪おうと伸ばした華奢な手首を、背後から友雅が掴まえる。

「泰明!」

「…ッ放せ!」

「駄目だよ。君が…いや、他の誰が何をしたところで、彼の決意は変わらない」

 アクラムの青い瞳だけが肯定の頷きを返す。

「元より、この傷は修復不可能だ…ならば、無様に長らえるより、自らの手で終わらせる…

それが今の私に残された唯一の誇りだ……私の最後の誇りを奪うな……」

 重い傷に時折息を乱しながらも、その瞳だけは強い意志の光を保っている。

 その瞳がほんの一瞬切なげな光を宿した。

「…そして、私がその誇りを保つにはお前がいてはならない…故に…去れ。壊れていく私を…見るな……」

 泰明の腕から力が抜けた。

 自らの意志で戻って来たというのに、己は何一つ出来ることがない。

 そのことがようやく泰明にも飲み込めたのだ。

 そうして、その事実に打ちのめされ、項垂れる。

「泰明…」

 そんな泰明の肩を友雅が慰めるように抱き寄せた。

「もう時間がない…行け、レジスタンス」

「ああ、分かっているよ。まさか君が、泰明の説得をしてくれるとは思わなかったけれど……感謝する」

 アクラムが薄く笑った。

「…そうか。ならば、最後にこれくらいは許せよ…レジスタンス」

 アクラムの腕がゆっくりと伸ばされ、泰明の手を取る。

「?」

 俯いていた泰明が顔を上げる。

 その細い身体が自分の腕の中から離れて、アクラムの腕に抱き取られるのを友雅は妨げなかった。

 僅かに翡翠と黄玉の瞳を瞠る泰明。

 その僅かに開かれた薄紅色の唇に、アクラムは口付けた。

 軽く触れるだけの口付けだったが、淡いほど柔らかな感触はいつまでも唇に残った。

 大きな瞳をますます大きく見開く泰明の、白く滑らかな頬にそっと掌で触れ、アクラムは囁く。

「生きよ、泰明…それがお前の父の…そして、私の望みだ……」

「!アクラム…!」

 見開かれた泰明の澄んだ瞳に、己の顔が映り込んでいる。

 その顔が自分でも驚くほど優しげな微笑を浮かべているのに、内心苦笑する。

 手を離す。

 それを合図とするかのように、友雅が半ば呆然としている泰明を抱き取り、そのまま抱き上げた。

 地響きが大きくなってきた。

 いよいよ時間がない。

 立ち上がり、踵を返す手前で、友雅は無言でアクラムを見る。

 その眼差しを、アクラムもまた無言で受け止めた。

 友雅は何も言わぬまま、身を翻す。

 その腕に抱かれた泰明の長い翡翠色の髪も翻る。

 遠ざかる翡翠色をアクラムは見詰め続ける。

 それは走り出した友雅の後姿と共に、辺りを染める粉塵に紛れて、瞬く間に見えなくなった。

 それでも尚、残像を追い掛けるように、アクラムは、視界から消えた翡翠色を見詰め続けた。

 唇に先ほどと同じ笑みを浮かべて。

 やがて、大きな音を立てて、目の前の天井が崩れ落ちてくる。

 

 微笑んだまま、アクラムは手にした装置のボタンを押した。

 


to be continued
予想とは若干違う経過を辿ったものの、何とか予定通りの場所に落ち着きました。 予想外だったのは、姫の頑固さ(苦笑)。 やっすんって基本的に素直だけど、こうと決めたことに関しては、かなり頑固なんじゃないかなあという勝手なイメージ。 しかし、頑固を通り越して駄々こねモードに入った姫のお蔭で、話が進まなくて、ホントどうしようかと(笑)。 一応、友雅氏のなりふり構わぬ叱咤と懇願(痴話喧嘩?)に揺さぶられはしたものの、決定打とはならず、アクラムのご出陣。 結局二人掛かりで姫を説得する羽目になりました(苦笑)。 説得合戦(?)は辛うじてアクラムに軍配が上がった感じでしょうか。 まあ、別れのキスも含めて、最後にアクラムには、花を持たせてやりたかったというのが、私の真情でございます。 ちなみに今回の隠れポイントは友雅氏に姫抱っこされて退場するやっすんです♪姫だけに姫抱っこってね!!←アホか。 次回はとうとう、というか、やっとエピローグです!…多分。 最後までお付き合いくださいましたら、幸いです。 back top