夜香花
濃紺の夜空に、とろりと蜜が滴るかのような黄金色の月が輝いている。
時折、通り過ぎる風は、消え残る真昼の熱を柔らかく払っていく。
心地良い夜だ。
「おや?」
ふと、夜風に乗って、漂う香りに気を惹かれて、友雅は立ち止まる。
清らかな、そして、僅かに甘い花の香り。
その香りに導かれるように、友雅は再び歩き出す。
やがて、行く手に細い人影が現れた。
浮かび上がる見慣れた、しかし、見飽きることのない白い美貌。
友雅の顔は思わず目を細め、微笑んだ。
「泰明殿」
「友雅か」
清々しい足取りで歩を進めていた泰明は、友雅の姿を認めると、歩調を緩めた。
互いにゆっくりと近付き、立ち止まったところで、友雅は挨拶代わりに、閉じた蝙蝠扇を軽く掲げる。
「やあ、艶かしい夜だね」
「そうか?月が明るいとは思うが」
素っ気無い口調ながらも、小首を傾げるようにして応える泰明の姿は、いつものように可憐だ。
同時に、月光の下で見るからだろうか、何処か艶めいた風情もあった。
「ふふ、そうだね。月が明るくて美しいね」
友雅は機嫌良く笑う。
甘い花の香りに誘われていった先で、花のような想い人に逢えた。
まるで、運命に導かれたようではないか。
この偶然とも言える些細な出逢いが、花の香りによって確かなものになったような気がする。
しかし、最早、香りを放つ花の姿を確かめる気はなくなっていた。
確かめるまでもない。
今目の前に咲くこのひとのように麗しく白い花に違いない。
それは夜になると、闇の中で一層匂い立つ。
「泰明殿は、お仕事かな?」
「そうだ」
ゆったりと優雅に微笑みながら訊ねる友雅に、泰明は頷きを返す。
「おやおや、こんな遅くまで仕事熱心だね」
「洛外での仕事が暮近くまで掛かっただけだ。今まで仕事をしていた訳ではない。お前は…」
言いながら、泰明がすっと進み出る。
華奢な身体が近付いてくると同時に、ふわりと強くなった芳香に、友雅は思わず目を瞠る。
「宴の帰りか」
酒の匂いがする。
仔猫のように襟元の辺りに少し鼻先を寄せた泰明が呟いた。
酒精が齎すものとは別の酩酊感が、新たに友雅の身体を満たす。
そうして、自分を誘い出した花の正体を悟ると同時に、友雅の唇から笑みが零れた。
突如として、愉快そうに笑い出した友雅に、泰明は驚いたように大きな瞳を見開いた。
「どうした、酔っているのか?」
「…ああ、どうやら、そうらしい。参ったね……」
ようやく笑いを治めた友雅が、愉しげに、そして、何処か噛み締めるように言う。
泰明は怪訝そうに僅かに首を傾げて、友雅を見詰める。
眩い月光を集めて煌く澄んだ瞳は、地上の星さながらの無垢な美しさ。
何という性質の悪さだろうか。
不意に手を伸ばした友雅は、無防備な泰明の手を掴んだ。
驚いた泰明が抗う間もなく、華奢な手を引き寄せて、白い指先に口付ける。
細い身体が震えるのが、触れる指先から伝わってくる。
友雅は指先に、口付けたまま微笑んだ。
「まさかこれほど酔うとは思わなかったのでね、供の者は皆、先に帰してしまったんだ。
だから、君が邸まで私を送っていってくれないか?いや、送っていっておくれ」
「私が?」
泰明が、友雅の言葉に怪訝そうに柳眉を顰める。
「そうだよ。だって、君の所為なのだから」
友雅がそう返すと、泰明はますます怪訝そうに首を傾げる。
「私が何をしたというのだ?」
「分からないとはますます罪深いことだね。君の所為で、私はここまで酔わされたのだよ?だから、責任を取っておくれ」
君だけが出来るやり方で。
そう囁き、友雅は半ば強引に傍らにあるほっそりした身体を引き寄せ、歩き出す。
「…本当に酔っているのか?」
訳の分からぬまま連れて行かれながら、泰明は友雅の迷いのない足取りに不審げに呟く。
しかし、引き寄せる腕を拒もうとはしない。
引き寄せた腕に、狩衣越しに泰明の肌の淡い熱が伝わってくる。
常よりも熱が篭っているように感じられる。
それは真昼の暑気の名残が齎す微熱か。
それとも…
蜜色の月光に照らされた腕の中の佳人。
白磁の頬に落ちる濃い睫の影が、清らかでありながら、何とも艶めいた風情だ。
その身に纏う香りが一層強くなった気がした。
全く…本当に性質が悪い。
友雅は僅かに苦笑する。
そうして、今宵も蜜色の光の粒がたゆたう薄闇の中で、白く輝く花を手折る。
匂い立つ、甘く清しい香りに包まれる。
捕らえられ、身も心も溺れる。
この世で唯一の夜香花に。