雨花
そっと目に当てていた布を取ると、ふわりと薬草の匂いが漂った。
甘くはないが、嫌な臭いではない。
清しく感じるのは、作り手が清らかだからだろうか。
しかし…
「…どうだ?」
澄んだ声に応えるように、眼を瞬いてみる。
「うん、痛みはもうねぇみたいだ」
「見え具合はどうなのだ?」
「…あんまり変わらねえな。こう、遠くが霞んでて」
「……そうか」
「わりぃな、泰明。せっかく貴重な薬草を何種類も使ってもらったのに」
「お前が謝ることではない」
そう言って、泰明は首を振るが、人形のような無表情の裏で何を思っているのかは充分に伝わってくる。
綺麗な泰明が萎れた花のように意気消沈しているのは、見るに忍びない。
「大丈夫だって!見えにくいのは遠くの景色だけだ。近くは見え過ぎるほどなんだぜ。だから、仕事はできる」
「だが、何時までそれが続くかは分からない」
切羽詰まった言葉が迸り、だが、泰明はすぐはっとしたように口を噤む。
「…すまない」
俯きがちにそう呟いて、布を濯いだ桶を持って立ち上がった。
小屋を出ていく細い背中を見送りながら、思わず頭を掻く。
泰明が抱く不安は分かる。
何せ、自分のことなのだから。
この先のことを考えれば、不安に押し潰されそうになる。
しかし…
眼の上に煩く掛かる長い前髪を振り払い、その勢いのまま立ち上がる。
扉を開くと、外は小雨がぱらついている。
ぼんやりと仄かに明るい世界。
鮮やかに映える緑の葉を繁らせた大木の下に、柔らかな翠の影が見える。
「泰明」
近付いて声を掛けると、弾かれるように白い貌が振り向く。
その目元が濡れている。
「すまない、イノリ。私はあまりにも配慮に欠けた発言をした」
真摯に謝罪の言葉を重ねる泰明の目尻をそっと指先で拭う。
ぴくりと震え、怯えたように瞳を閉じる姿に、哀れさとも愛しさともつかぬ感情が湧きあがった。
そのまま華奢な身体を抱き竦める。
「俺も…俺もさ、この右目のように、左目も見えなくなったらどうしようって思ってる。
正直怖くて仕方ない。鍛冶が出来なくなるのも怖いけど…泰明の顔を見られなくなるのが、一番怖い」
抱き締めた身体が大きく震え、背中に回された細い指が着物の背をぎゅっと掴むのを感じる。
「でもさ、まだ俺の左目は見えてる。これからだって…見えなくなると決まった訳じゃない」
殊更明るい声を出し、身を起こして泰明を見詰める。
大きな瞳にいっぱい涙を溜めて、それが零れないように必死に目を見開き、嗚咽を堪えている様は、まるで幼い子供のようだ。
普段は気にすることもないが、実際のところ、彼は自分よりも歳下なのだ。
「可愛い」
そう言ってやると、驚いたのか瞬きをした。
その拍子に堪えていた涙が零れてしまう。
「イノリ…!」
やや機嫌を損ねたような様子も可愛く見えるのだから、病は深い。
「これからのことを気にし過ぎるのはやめようぜ。今出来ることを精一杯やってさ、それを積み重ねていこう」
「……」
「泣き顔も可愛いけどな、お前にはたくさん笑ってて欲しい。その笑顔を俺はこの目に焼き付けるから」
そうすれば、何時か本当に光を失う日が来ても、面影を抱いていける。
「…ッ」
泰明の綺麗な顔がくしゃりと歪む。
零れる小さな嗚咽。
「笑ってくれよ」
優しく懇願すると、泰明は瞳から次々に水晶玉のような涙を溢れさせながら、ゆっくりと微笑んだ。
銀の糸に彩られたそれは仄かな、だが、花のように綺麗な微笑だった。
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