桜姫
昨日、何度目か知れない縁談の話を断った。
理由は三年前から変わらない。
しかし、年を経るにつれて、縁談を断るたび、父の顔は厳しくなっていく。
二年前に武士団棟梁を退き、隠居した父にとって、跡を継いだ息子が何時までも独り身でいるのは、気掛かりでならないらしい。
早く身を固めて欲しいと思う気持ちは分かる。
その気持ちに応えられないことを、申し訳なくも思う。
しかし、どんなに父や周囲の者を落胆させようとも、これだけは承服できないのだ。
己には既に、身も心も賭して、守りたいひとがいる。
が、同時に、そのひとは、妻として娶れるようなひとではない。
そして、今日、そのひとに見合いのことを報告した。
そのひとは、翡翠と黄玉の瞳を瞬かせ、ただ、
「そうか」
とだけ言った。
少しだけ不思議そうな様子で。
三年前と少しも変わらない、無垢で清らかな姿で。
このひとに対する気持ちが、不思議と衰えないのは、このひとがこうして変わらずに、
その魅力を保ったままでいてくれるからなのかもしれない。
募る気持ちとは裏腹に、一歩を踏み出せないのも。
このひとの気持ちを確かめられないのが、もどかしいと思う。
このひとを悩ませてしまうのなら、このままで良いとも思う。
相反する二つの気持ちに惑わされ、立ち竦んだまま三年。
最早、この状況に変わりようはないだろう。
こうして、傍にいられるだけで充分ではないか。
そう己を納得させていたつもりだった。
だが…
「ほら、頼久。剣直ったぜ」
「いつもすまないな、イノリ」
「礼はいらねえよ。これも仕事の内だしな」
修理を頼んでいた刀を届けにきたイノリは、ふと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、頼久。お前、また縁談を断ったんだってな」
「…誰から聞いた?」
「泰明」
悪びれずに答えるイノリに、頼久は小さく息を吐く。
そんな頼久に、表情を改めたイノリが問う。
「余計なお世話だと思うけどさ。お前、いつまでこのままでいる気なんだ?」
「このままで、とは?」
「理由もはっきり言わずに、ずっと縁談を断り続ける訳にはいかねえだろ?」
「…仕方がない」
「縁談だけのことじゃない。泰明のこともいつかは白黒はっきりつけなきゃいけねえだろ。そう思わねえか?」
暫し沈黙した頼久は、僅かに凛々しい眉を顰め、重い口を開く。
「私は……あの方を困らせたくないのだ」
「お前はそれで良いのかよ?」
「あの方のお傍で守り続けることが叶うならば」
その答えにイノリは、少々呆れたように肩を竦める。
「ま、お前がそれで良いって言うんなら、いいや。けど…だからって、俺は遠慮するつもりはないぜ」
ふいに調子の変わった言葉に、頼久がイノリを見遣ると、イノリは赤い瞳に鋭い光を浮かべて、頼久を見据えていた。
この三年で、イノリはすっかり背が伸びた。
あと数年もすれば、頼久と変わらない背丈になるだろう。
「俺はしたいと思うことを我慢なんかしたくない。泰明を困らせることになっても、俺の気持ちを伝えたい。受け入れてもらいたい。
お前はまだ、俺なんかじゃ、相手にならないと思ってるかも知れねえけど…俺だって何時までも子供のままじゃない。
それは泰明だってそうなんじゃねえのか?」
きっぱりと言って、イノリは黙り込む頼久に、じゃあな、と片手を振り、帰っていった。
確かにイノリの言うとおりかもしれない。
これから、イノリはますます成長して、頼りがいのある男になっていくだろう。
そんなイノリの想いに、泰明が応える可能性はないとは言えない。
元より、泰明への想いを自覚しながら、踏み出すことをしない己に、何をする資格もない。
しかし、イノリに寄り添う泰明の花のような姿を思い浮かべるだけで、胸が灼けるような心地がする。
「とんだ偽りを口にしたものだ…」
頼久はひとり苦笑を噛んだ。
顔を上げると、墨染の満開の桜が目に入る。
風に乗って、白い花弁がはらはらと舞う。
それは美しい光景であるはずなのに、今日は何故か心に響かない。
思わず溜息を吐こうとした、そのとき、目の端に、翠の色が映り込む。
慌てて目を向けると、やや離れた桜の木の根元に、見紛いようのない泰明の翡翠色の髪が見えた。
「!!」
驚いて頼久はその場に駆け付ける。
「泰…!!」
呼び掛けて、とある事実に気付き、慌てて声を呑む。
全身に張り巡らしていた緊張を解き、音を立てぬよう、そっとその傍らに片膝を付く。
泰明は木の下に細い身体を横たわらせていた。
降り積もった桜の花弁の上に散り流れる翡翠色の艶やかな髪。
その髪と同じ色の長い睫は伏せられ、美しい瞳を隠す代わりに、薄い瞼の象牙のような滑らかさを露わにしている。
微かな、しかし、穏やかな呼吸が聞こえる。
眠っているのだ。
安堵すると同時に、頭痛を覚えて、頼久は思わず、額を手で押さえる。
このような場所で居眠りとは、あまりにも無防備に過ぎる。
幾ら人気がないからとは言え…いや、人気がないからこそ、何処に不貞な輩が潜んでいるか分からぬというのに。
そこまで考えて、頼久は再び気付く。
泰明は元より、人の…特に、見知らぬ者の不穏な気配には敏感だ。
頼久が気を揉まずとも、人の気配を感じた時点で、泰明は目を覚ますだろう。
では、何故今、泰明は眠ったままなのか。
それは、今側にいる相手が、泰明にとって危険のない、安心できる相手であるからだ。
その信頼を嬉しく、また、同時に、少し切なく思う。
一体ここで、泰明はどのくらい寝入っているのだろう。
舞い落ちる白い花弁は、泰明の上に幾つも降り積もっている。
身に纏った白と黒の狩衣の胸元や、ふわりと広がる袖や裾に。
目にも鮮やかな翡翠色の髪の上に。
花弁と同じくらい白く、仄かに紅色を帯びた肌理細かな頬に。
桜の花弁に埋もれて眠る泰明の姿に、頼久は思わず見惚れる。
惹かれるまま、何時の間にか、足元にまで流れる髪へと指を伸ばしていた。
指先が翠の絹糸を掬おうとした、その瞬間。
「…なーに、やってるんだ?」
「!!」
不意に耳元で聞こえた声に、頼久はぎくりと硬直し、振り返る。
「イノリ!」
「何だよ、抜け駆けか?」
イノリはしゃがみ込み、立てた膝の片方で頬杖を突きながら、頼久を眺めている。
「そのようなつもりはない」
引いた手を思わず拳にしながら、何処か気まずい思いで応える頼久に、肩を竦めると、イノリは立ち上がった。
「別に抜け駆け禁止って訳じゃないけどな…よく眠ってんなあ…泰明」
常より調子を抑えた声音で言いながら、頼久の反対側から、泰明を覗き込む。
イノリが加わったにも関わらず、泰明は心地良さそうに眠り続けている。
そんな泰明を眺めながら、先ほどと同じように頬杖を突き、イノリが思わずといったように、目を細める。
「何か、こういう泰明見てると、嬉しくならねえか?」
「そうだな…」
頼久もまた、再び泰明へと視線を戻す。
きっと、己もイノリと似た表情で泰明を見詰めているのだろうと思う。
「でも、嬉しいだけじゃなくてさ…何か…」
「ああ…そうだな」
イノリの言わんとするところを察して、頼久は頷いた。
と、イノリが堪えきれなくなったように、小さく笑いを漏らす。
「どうした?」
「お前、その顔。一目瞭然だっての」
「……そうか」
やはり顔に出ていたらしい。
頼久は思わず片手で口元を覆う。
「お前の親父って、泰明のこと知ってんの?」
「いや、直接引き合わせたことはまだ、ない」
「ふぅん。じゃ、引き合わせるときは、気を付けた方が良いぜ。一発でばれるからな」
「心配ない。その覚悟はある」
「へえ?」
何の覚悟かとはイノリは聞かなかった。
「俺も負けるつもりはないからな」
とだけ言う。
「望むところだ」
応えて、頼久は小さく笑った。
ふたりの間で、泰明は依然として、穏やかな寝息を立てている。
イノリと頼久は揃って、想い人を見下ろす。
「このまま寝かせてやりたい気もするんだけどな」
「ああ。しかし、そろそろ陽も傾く。春とはいえ、このままではお身体を冷やしてしまうだろう」
「んじゃあ、起こすか」
話が纏まると、頼久は泰明の右手を、イノリは左手を取る。
ほっそりとして指先だけがほんのりと薄紅に染まった手。
その滑らかな手の甲に、ふたりは同時に口付けた。
すると。
翡翠色の長い睫が震え、その先に留まっていた一枚の花弁がはらりと落ちる。
ゆっくりと薄い瞼が持ち上がり、翡翠と黄玉の瞳が覗いた。