虹色
夜明けの気配に頼久は眼を覚ます。
そうして、瞼を開けると同時に、眼に入る光景に思わず微笑んだ。
淡い光を纏っているかのように薄闇に浮かび上がる白い美貌。
翠色の長い睫毛。
優雅な幅のある薄い瞼。
通った鼻筋。
僅かに開かれた花弁のような薄紅色の唇。
褥の上に川のように流れる翡翠色の髪。
そして、腕の中の淡い温もり。
泰明殿。
声なき声で愛しいひとの名前を呼ぶ。
泰明は軽く握った片手を口元に寄せて深く寝入っている。
無機質なほど整った目鼻立ちとは裏腹に、その寝顔は少女のようにあどけない。
見ているだけで自然に口元が綻んでしまう。
いつまでも眺めていたいが…
日課である早朝稽古の為には、もう起きなくてはならない。
頼久は泰明を起こさぬようそっと、細い身体から手を離し、身を起こし掛ける。
その瞬間。
泰明が僅かに眉を顰め、くちっ、と小さなくしゃみをした。
頼久は慌てて腕を伸ばし、離し掛けた華奢な肩を再び引き寄せる。
そろそろ秋めいてきたこの季節、朝は冷えるようになってきた。
風邪でも引いたら事である。
先ほどのくしゃみで泰明が眼を覚ましはしなかったかと、そっと覗き込む。
幸い眼は覚まさなかったようで、泰明は元の無垢な表情に戻り、穏やかな寝息を立てている。
頼久は、ほっと安堵の息を吐いた。
と、再び泰明が身じろいだので、再び息を潜める。
「ん…」
小さな声を上げ、泰明はもぞもぞと動き、更に頼久に向かって身を寄せる。
頼久の胸に頬を寄せたところで、身動きを止め、安堵したように息を吐いてから、再び寝息を立て始めた。
…もう、起きるつもりだったのだが。
ここまで身を寄せられてしまっては、泰明の眠りを妨げずに身を起こすことは到底叶わない。
やや困惑しながら、腕の中の泰明を見遣った頼久だったが、その無邪気な寝顔に再び笑みを誘われてしまう。
腕の中で息づく愛しい温もり。
その微かな、しかし確かな呼吸に導かれるように、頼久も再び夢の世界に誘われていった。
頼久が常よりは大分遅くなった早朝稽古を終える頃、泰明も庭へと降りてきた。
「頼久、朝餉の膳が来ている」
「承知しました。身支度を整えましたらすぐ参ります」
泰明は鷹揚に頷き、頼久の前を通り過ぎる。
髪はまだ結われていない。
その解き放したままの髪を朝の風に梳かせながら、泰明が振り向いて僅かに笑う。
「お前と共に眠ると、私も日課をこなすのが遅れてしまう」
「は…申し訳ありません」
「謝るな。事実を言ったまでだ」
「…は」
既に幾度となく、このような経験は繰り返しているのだが、どうにも気恥ずかしい気分が拭えない。
風に揺れる髪の合間から覗く白い項が、艶めいて見えてしまう。
縫い止められたようにその麗姿から目が離せない。
そんな頼久を余所に、泰明は木立の合間にある祠の前に立つ。
す、と背筋を伸ばし、白い手を合わせ、低い声で祝詞を唱え始める。
間もなく、ふわり、と泰明の髪が朝風とは別の方向に舞い上がった。
ゆっくりと扉が開いていく祠の中から生まれ、流れていく風が泰明の髪を舞わせている。
いや、風ではない。
神気だ。
神気が風のように泰明の周囲を取り巻いている。
と、泰明が閉じていた薄い瞼を開いた。
頼久は知らず息を呑む。
吹き寄せる神気に包まれ、泰明の全身が淡い光を放つ。
現れた翠と橙の瞳が、様々な色に揺らめいている。
その神さびた様に打たれ、頼久はいつも身動きを封じられてしまう。
泰明が己の手の届かない存在であるのではないかという危惧に駆られてしまう。
「頼久」
低いが澄んだ声に名を呼ばれ、頼久は我に返った。
祈祷を終えた泰明が、無垢な眼差しで頼久を見詰めている。
「私は終わったぞ。早く朝餉にしよう」
言ってごく自然に頼久の手に細い指を絡め、軽く引く。
その子どものような仕種に、一瞬前の神さびた様は欠片もない。
救いを得たような気分で頼久は微笑んだ。
この驚くほどの落差。
「はい」
頷いて、泰明と肩を並べて庵へと向かう。
と、ふと泰明が視線を中空へ向けた。
「式神(シキ)だ」
目に見えぬそれと声なき声で短い会話を交わした後、頼久へ振り返る。
「怨霊が出現したらしい」
瞬く間に凛と引き締まった表情に変貌した泰明を前に、頼久は一瞬呆気に取られるが、
「さほど被害は出ていないようだが、今のうちに封じておいた方が良いだろう」
泰明の言葉に力強く頷く。
「はい。お供致します」
これなのだ。
こうして泰明は意図せず、瞬く間に表情や纏う空気までも変貌させる。
それはまるで、様々な色が立ち現れては煌めく光のよう。
ひとときも目を離すことが出来ない。
常に傍にあり、その虹色の輝きを見守りたいと強く願う。
「行くぞ」
「お待ちください、泰明殿」
歩を踏み出す泰明を、頼久が引き止める。
怪訝そうに振り返る泰明に、頼久は謹んで言を継いだ。
「まずは身支度を整えましょう。お急ぎでないなら朝餉も召し上がった方が宜しいかと存じます」
そう告げた途端、くぅ、とお腹が小さくなり、虹色の彼は決まり悪げな顔となった。
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