甘露(後編)
「……」
泰明を呼び止め損ね、詩紋は呆然とする。
大体、宴の主役が席を外してどうするのか。
しかも、よりにもよって恋敵(?)同士を後に残すとは…
(この状況をどうしろと…?)
このままだんまりを決め込んだまま、泰明が戻ってくるのを待つのも、心苦しい。
ちらりと横目で季史を見遣る。
季史はさして表情も変わらず、時折小さく切ったケーキを口に運んでいる。
感情があまり、表に出ないあたり、泰明と少し似ているだろうか。
が、同じ無表情とは言っても、泰明のように人形めいた雰囲気はなく、ただ、静謐な雰囲気がある。
詩紋は心を決め、小さく咳払いをしてから、口を開いた。
「えと…季史さん。どうかな、そのケーキ。美味しい?」
蒼色の瞳が静かに動き、詩紋を見る。
次いで、手元のケーキを一瞥してから、再び視線を詩紋へと戻す。
「初めて経験する味だ。だが、美味いと思う。そなたは優れた菓子職人なのだな」
穏やかな口調で、真っ直ぐ賞賛され、詩紋は思わず照れてしまう。
「そんな職人だなんて、大したものじゃないですよ。ただ、好きなことをやっているだけで…」
「だが、それも才能だろう」
さらりと言いながら、季史はもう一度ケーキを口にする。
そうして、やんわりと微笑んだ。
「甘くて、優しい味だな…泰明の唇に似ている」
「そうですね…って、ええ?!」
会話の流れに任せて同意しかけた詩紋だったが、あまりに衝撃的な季史の発言に大声を上げてしまう。
その詩紋の大声に驚いたのか、季史が眼を瞠る。
しかし、詩紋は相手の反応になど、構っていられなかった。
「そそそ…それって季史さん…どういうこと?」
「それとは?」
「え…ええと…あの……こんなこと訊くのは変かもしれないけど…季史さんは泰明さんとキス…あっ……口付けをしたことがあるの?」
混乱しながら何とか問いを紡ぐ。
すると、季史はあっさり頷いた。
「ああ」
「……ッッ!!」
詩紋は声もなく、床に突っ伏した。
「どうした、具合が悪くなったのか?」
季史が怪訝そうに問うて来るが、応える気力もない。
(なな…何で!?僕だってまだ、ほっぺにしかキスしたことないのに…!)
それもどさくさ紛れの不意打ちだ。
だが、季史は……
(もしかして…泰明さんも季史さんのことが好きなのかな……)
先ほどの様子からは、そうは見えなかったが。
例え、そうではなくとも、季史の方が一歩も二歩も先んじているということではないか?
つい恨めしい気持ちとなってしまった詩紋だったが、すぐにはっと我に返った。
自分は、泰明に告白した訳でも、季史にライバル宣言をした訳でもない。
季史が泰明に何を仕掛けようが、自由なのだ。
それに、不満を持つなど自分勝手も甚だしい。
心密かに反省しつつ、詩紋はゆっくりと身を起こす。
と、すぐに様子を窺っていた季史と眼が合った。
季史が小さく笑う。
微かに自嘲を含んだ微笑。
「季史さん?」
何故、季史がそのように笑うのか分からなくて、詩紋は瞬きをした。
すると、季史が唇に笑みの欠片を残したまま、口を開いた。
「案ずるな。私も不意打ちだ」
その言に、詩紋は一瞬ぽかんとし、次いで真っ赤になった。
心の内を完全に読まれてしまっている。
「え?!い…いや、僕は別に季史さんに文句があるとかそういう訳じゃなくて…!ええと…」
半分混乱しながら紡ぐ言葉が、言い訳になっていることに途中で気付き、詩紋は口を噤む。
そうして、肩を落として、溜息を吐いた。
「分かりますか、やっぱり……」
「そうだな。同じ想いを抱いている者は何とはなしに分かる」
頷いた季史もまた、小さく溜息を吐いた。
詩紋が顔を上げると、季史は何処か遠い眼差しで言葉を紡ぐ。
「当初は、そのようなことをするつもりはなかったのだ…だが、目の前であまりにも無防備に寝入る姿を見ていたら…魔が差した」
言って、ふ、と苦笑する。
「どう言い繕ったところで、抜け駆けをしたことには変わりはないな。すまなかった」
「…いいえ」
分かるような気がする。
何処か切なさが滲む季史の笑みを見ながら、詩紋は自分が初めて泰明にキスしたときのことを思い返していた。
あのときは、季史が言ったように、魔が差したような感じだった。
ふと、花開いた無邪気で可憐な笑顔に見惚れ、気付けば引き寄せられるようにキスしていた。
きょとんと見開かれた大きな瞳を間近に見て、我に返ったのだ。
そのときは慌てて挨拶だと言い繕ったけれど…
少々天然なところのある泰明は、良く分かっていなくて、殊更意識されることはなかった。
ほっとしつつも、一抹の寂しさを感じたのを覚えている。
それでも、滑らかな頬に触れた唇が、何時までも熱を持っているような気がして、落ち着かなかった。
詩紋はくすりと、小さく笑った。
「…なあんだ。季史さんも僕と同じなんだね」
冗談ぽくそう言うと、季史はますます切なげに微笑んだ。
「同じ…そうだろうか…?私は生ある者ではないのに…」
「…同じだよ。少なくとも泰明さんと僕にとっては。この世とかあの世とか関係ないよ。
だって、季史さんは現にここに居て、僕たちと話が出来るんだもの。泰明さんだってきっとそうだよ。
だって、相手がどんな人だろうと、泰明さんが接し方を変えたりする?」
詩紋の問いに、季史は微かに眼を瞠り、小さく笑った。
「…しないな。彼は変わらない」
季史の笑みに、詩紋もにこりと笑い返した。
「しかし…」
季史がふと気付いたように言葉を継ぐ。
「他の者と比べて泰明の接し方が変わらない…というのも、ある意味、私たちにとっては問題ではないか?」
「あっ…そうか!」
屈託のない笑顔を見せてくれるということは、好きでいてくれるのだとは思う。
しかし、それは他の中の良い友人たちにも見せる笑顔だ。
つまり、泰明にとって自分たちは仲の良い友人であり、それ以上の存在ではないということではないか。
思わず、頭を抱える詩紋に、季史は声を立てて笑った。
その穏やかな眼差しが、ふと逸れる。
同時に、詩紋も近付いてくる気配に気付いた。
間違えようもない、愛おしいひとの気配だ。
それは、甘く清しい花のような香りを微かに孕んでいる。
もうすぐ、香りに違わぬ麗しく甘やかな姿が現れる。
その待ち遠しい一瞬。
「…甘露…だな」
季史の呟きに、言葉もなく頷き、気を取り直した詩紋は、悪戯っぽく季史を見る。
「まずは…宣戦布告ですね」
「…ああ」
季史も心得たように頷いた。
からりと扉が開く。
詩紋は振り向き、笑顔で振り返る。
「お帰りなさい、泰明さん」
「ああ」
「お師匠さんに、ケーキ、ちゃんと渡せた?」
泰明はこくりと頷き、促されるまま、詩紋と季史の間に、すとんと腰を下ろした。
「今日は邸にいらっしゃった故、直接渡してきた。お師匠は、その場で一口食して、美味しいと、とても喜んでいたぞ。有難う、詩紋」
「良かった。嬉しいな」
「機会があれば、また作って欲しいとも言っていた。あ…それは、私もなのだが…」
「ふふっ、勿論、良いよ。いつでも喜んで」
泰明はふわりと微笑むと、詩紋と季史を交互に見た。
「ふたりとも愉しげな顔をしている。何か、面白い話をしていたのか?」
無邪気な問いを向けられて、詩紋と季史を顔を見合わせた。
季史が穏やかに応える。
「特に面白い話ではないと思うが…先程話してみて、詩紋とは思いの他、気が合うことに気付いたのだ」
詩紋も頷いて、同意する。
「そうなんだ。それでね…ふたりでちょっとした計画を実行しようと思っていて…」
「??計画?」
泰明は不思議そうに首を傾げる。
そんな泰明に、詩紋はにっこり微笑んで、言う。
「泰明さん、眼を閉じてくれる?」
その要求に、泰明はますます怪訝そうな面持ちとなる。
「???その計画とやらは、私にも関わりがあるのか?」
「それは後で。とにかく、眼を瞑って」
泰明はやや戸惑ったように、睫長い瞳を瞬かせる。
すると、眼が合った季史が、微笑んだ。
「無体なことはしない。もし、そなたが私たちを信じてくれるのなら、眼を閉じてくれぬか?」
「…分かった」
季史の笑顔に心が解されたのか、戸惑いが消えた泰明の瞳が伏せられる。
翡翠色の睫に縁取られた、優雅な幅のある薄い瞼が、澄んだ大きな瞳を覆う。
詩紋と季史は一瞬眼を見交わし、同時に身を乗り出す。
そして、同時に泰明の滑らかな頬へと口付けた。
詩紋は右の頬に。
季史は左の頬に。
そう、まずは、自らの甘さを知らぬこの花に、宣戦布告を。
恋敵との勝負はその後だ。
「!」
驚いたように、宝玉の瞳が見開かれた。