花精来香(後編)

 

「鳥辺野に子どもが?」

邸に戻った泰明は、晴明に部屋着に着替えさせられながら、鳥辺野でのことを報告した。

表が蘇芳色、裏が紅の紅躑躅の襲色目の狩衣を華奢な身体に着付けながら、晴明は考え深げに言葉を紡ぐ。

「子どもが縋っていたのは、母親かも知れぬな。また、言葉が通じなかったということは、大陸からの渡来人か…?」

「渡来人…青陽(せいよう)や麦秋(ばくしゅう)と同じか」

青陽と麦秋は、安部邸に仕える式神の名である。

彼らはの故郷は、海を渡った先の大陸の、遥か遠方の地だった。

そのことを証明するように、彼らの髪や目、そして肌も、京の人々とは違う色彩を纏っていた。

「私の予想だがな。しかし、我々と外見的な違いがさほどないなら、大陸とは言っても、海を渡ってすぐの程近い国からやってきたのだろう」

指貫を穿いた上からでも尚細く見える腰に、帯をしっかりと締め、白い単の襟を整えた晴明は、今度は泰明を近くの円座に座らせた。

その後ろに腰を下ろして、結い上げている翡翠色の髪を解き、梳き櫛で丁寧に髪をくしけずりながら、言葉を続ける。

「恐らく、傀儡か猿楽か…芸能民の一座に加わって漂泊していたのだろう。

そうして、京に辿り着いてすぐ、母親が病か何かで力尽きた…といったところか…だとしたら、哀れなものだな。

鳥辺野に葬送されたのだけが唯一の救いか…」

旅人や身寄りのない者、身分の低い者などは、通りの隅に遺骸を放置されることも少なくない。

「母親の傍にいたいというその子どもの気持ちも分からぬではないが…

このまま誰も迎えにいってやらぬのなら、その子どももまた、死ぬしかない」

そう話しながら、晴明は梳き整えて、更に滑らかな艶を増した泰明の髪を、背の半ば辺りで襲の色に合わせた組紐で纏める。

「それが子どもの望みではないのか?」

淡々とした泰明の問いに、晴明は僅かに苦笑する。

「そうとも限らぬ。さ、終わりだ。立っても良いぞ」

そうして、素直に立ち上がった泰明の細い肩を捉え、身体ごと振り向かせると、全身を眺め、満足気に笑う。

「うむ。可愛いぞ!此度も完璧だな。お前は美しい故、何でも似合うな。こちらも着飾らせ甲斐があるというものだ」

本来、服の着付けや髪の手入れなどは、泰明自身、或いは邸の女房のするべきことで、

泰明の師匠であり、邸の主である晴明がやることでは断じてない。

しかし、晴明は好きでやっていることだと言って憚らない。

泰明も一度だけ己の身支度は己ですると晴明に意見したことがあったのだが、

老い先短い年寄りの楽しみを奪うつもりかと大いに嘆かれてしまい、結局晴明の好きなようにさせることにしたのだった。

「……」

満面に笑みを湛えて、悦に入る晴明に、泰明はぺこりと頭を下げた。

そんな泰明の頭を軽く撫で、晴明は話の続きを口にした。

「その子どもが気になるのなら、明日もう一度鳥辺野に行ってみると良い。ああ、それと…」

晴明は手を叩いて、式神の青陽を呼び出し、何かを言付ける。

仮面を付けているとは思えぬほど素早く身を翻した青陽は、間もなく幾つかの巻子本、冊子本を携えて戻ってくる。

晴明は一つ一つを手に取って、表題を確認すると、その内の二つを泰明に手渡した。

「これは?」

「新しい術の指南書だ。今回の件で役に立つかも知れぬ故、これを機会に会得すると良い」

「分かった。お借りする」

そうして、泰明は晴明の部屋を後にした。

 

 

部屋に帰る途中の反渡殿で、泰明は如月丸と鉢合わせた。

泰明と目が合うと、如月は僅かに頬を染めて、目を逸らす。

声を掛けてくる様子もなかったので、泰明はそのまま立ち止まった如月の脇を通り抜けようとする。

そのとき、

「なあ、泰明」

呼び止められて泰明はやっと立ち止まり、振り返った。

「何か」

「………」

そちらから声を掛けてきたというのに、如月は黙り込む。

「用がないのなら行くが」

泰明が踵を返そうとすると、ようやく思い切ったように、如月が口を開いた。

「皐月のことは聞いたか?」

「先程お師匠から聞かされた」

淡々と応えると、如月は眉根を寄せて問いを重ねる。

「どう思った?」

「どうとは?」

「皐月はこの邸で今まで一緒に暮らしてたんだぞ?それにお前は陰陽寮でも皐月とは一緒だっただろう?

それが急にいなくなって寂しいとかは感じないのか?」

「寂しい?」

如月に言われて、泰明は見送ることも出来ずに別れてしまった皐月のことを考えた。

ふと、胸に小さな穴が開いたような感覚を覚えたが、

「分からぬ。私にはそのような感情などない。それに、皐月はいなくなってはいない。

死した訳ではないのだ、会おうとすれば何時でも会える。何より、皐月は自らの意思で、自らの生き方を選び取ったのだ。

むしろ、そのことを祝福すべきだとお師匠は言っていた」

淡々とした口調を崩さずに応えると、如月は泰明から目を逸らしたまま、苦笑した。

「随分物分りが良いんだな。感情が分からないんなら、当り前か」

何処か落胆した声で言って、如月は泰明に背を向けた。

「そうだな、確かに、お前の言う通りだ。悪かったな、呼び止めたりして。

俺の言ったことは気にしないでくれ。一人で勝手に期待し過ぎてただけみたいだから」

そう言い残して、如月は去っていった。

 

 

ゆっくりと春の日が暮れていく。

自室に面した簀子で、泰明は膝を抱えて、茜色に染まっていく庭を見詰めていた。

その傍らには、晴明から借りた書物がある。

今、この時点で、泰明は書を読破し、そこに記された「術」もほぼ会得していた。

紐解いたときは、少々意外に思えたが、良く考えれば成程確かに師匠の言う通り、役に立ちそうな書である。

「うにゃあ」

足元で鳴き声がして、何時の間にかやって来た猫の伽野が、薄青の指貫の括緒にじゃれ付いてくる。

流石に足元で動かれるのは邪魔だったので、脚を引っ込めて押しやると、

今度は狩衣の青い括緒のつゆ(垂れ下がっている部分)にじゃれ付き始めた。

それはそのままにして、泰明は庭を見詰め続ける。

ふと、耳脇を通り過ぎた覚えある気配に、泰明は透明な視線を彷徨わす。

やがて、視線は空の一点に定まった。

 

…―――

 

黄昏時の静寂の中、あの時は聞き取れなかった囁きが耳に入ってくる。

泰明は、すっと色違いの瞳を細め、やがて立ち上がった。

 

 

「泰明?」

愛弟子が邸の結界から出て行く気配に、晴明は顔を上げる。

「無断外出とは泰明らしくないことだ。しかも、このような刻限に…」

夕餉の刻に、間に合わなくなるではないかと独り言を呟く晴明の足元に擦り寄ってきたものがある。

「にゃあ」

「伽野か」

光りながらこちらを見上げる大きな目と目を合わせた晴明は、間もなく口元を綻ばせた。

「…成程。そうか」

立ち上がり、簀子へ出たところで、渡殿を歩いている如月を見付ける。

「如月」

「はい、何でしょうか、父上」

手招きする晴明に応えて、簀子を渡ってきた如月に、晴明は言う。

「今日は少々夕餉が遅くなりそうなのだが、構わぬか?」

「それは構いませんが…どうしてです?」

「うむ。どうやら、泰明がこの刻限に出掛けたようでな。今、邸におらぬ」

「えっ」

顔色を変える如月に、晴明は宥めるように微笑む。

「何、案ずるな。行き先は分かっておる。恐らく…鳥辺野だ」

「こんな刻限に、鳥辺野ですって?!」

そう叫んで、如月は身を翻した。

「ああ、しかし、あの泰明であるし、万が一の為に、式神の麦秋に後を追わせた故、大事は起こらぬと思うぞ…って、聞いておらぬな」

見る間に小さくなっていく、息子の背中を見送って、晴明は愉しげに小さく笑った。

 

 

黄昏時は、昼と夜の境界の刻限だ。

至るところに、異界への入口が現れる刻限でもある。

昼でも異界に近い地とされる鳥辺野は、濃い陰の気が澱み、至る所で邪気となって渦巻いていた。

しかし、泰明は躊躇うことなく足を踏み入れる。

明らかに異質な存在の侵入に、辺りを満たす気がざわめいた。

だが、人の死霊は殆どが泰明の纏う気を恐れるように離れていくので、何をする必要もなかった。

代わりに近付いてくるのは、人ならぬ化生の類だ。

『我らの領域を侵す主は何者だ?』

『その魂の色…人ではないな』

『おぉ…人では持ち得ぬ魂の色だ』

『器の方も人とは思えぬ美しさよ…』

『髪も肌も輝くようだ…そして、その身から放たれる芳しい香り…』

『この美しい身体を引き裂いたなら…その内側の臓腑も美しいだろうか?』

『今落ちた陽のように鮮やかに紅いだろうか?一層芳しく匂い立つだろうか?』

『どうだろうかな?試してみるか?』

昼間よりもはっきりと聞こえてくるそれらの声に、泰明は動ずることなく、右手で無造作に印を結び、

「散れ!」

気迫の篭った声で纏わりつくものを退けた。

ふと、あの子どもは無事なのだろうかと考える。

邪を祓う術を持たない者が、先程のような化生の類に襲われたならば、一溜まりもない。

そう考え付いて、泰明は歩く足を速めた。

暫くすると…

 

………ぁあー………

……あーん………

…あぁーん……

 

昼間も聞いた泣き声が聞こえてきた。

その声を辿って件の子どもの元へ急いだ泰明は、やがて見えてきた光景に僅かに目を瞠る。

子どもは昼間と変わらず、女の遺骸に縋り付いて泣き声を上げていた。

その子どもの周囲だけが、陰の気が祓われてぽっかりと穴が開いたように白く見えた。

(…声か)

生まれつきのものかは分からないが、どうやらこの子どもの声には、邪を祓う力があるらしい。

子どもは無意識のうちに、己の身を自身で守っていたのだ。

泰明の存在に気付いた子どもが振り返る。

その子どもに、泰明は覚えたばかりの言葉で話し掛けた。

「お前は生きたいのか?死にたいのか?」

子どもが目を見開いて泰明を見詰める。

そうして、しゃくりあげながら口を開いた。

「…わかんない…でも、ひとりになるのはいや…かあさま……」

そう言って、再び泣き声を上げ始める。

「ひとりになるのが嫌ならば何故、ここに留まり続けるのか?そこにあるのはただの骸。お前の母は最早ここにはいない」

そう言ってはみるが、子どもは強情に首を振って、更に高い声を上げて泣くばかりだ。

子どもが聞く耳を持っていないのは明らかだった。

習得したせっかくの「術」も、あまり役に立たないようだ。

泰明は小さく息を吐く。

途方に暮れる泰明の耳に、邸からずっと付いてきていた気配の主が何事かを囁く。

「…そのようなことで言うことを聞くようになるのか?」

泰明は不審そうに呟いたが、他に方策がないのなら、試してみるしかあるまい。

泰明がゆっくりと子どもに近付いていくと、子どもは身を固くした。

「少し我慢してもらうぞ」

花の香りを纏った華奢な指先に頭を触れられ、子どもは一瞬びくりと震えたが、すぐに驚きに目を見開く。

「かあさま…!」

「そうだ。聞こえるか、お前を案じる声が…」

昼間ここを訪れたとき、泰明が感じた気配は、子どもの母親のものだった。

残した子を案じるあまり、彼岸へ渡ることもできず、かといって、この世に留まり、

子を守るほどの強い力もない儚い死霊となっていた母親は、やがて消滅するまで、ただ子どもの周囲を漂うしか術がなかった。

そこに、霊力の強い泰明がやって来たのを唯一の救いとして、その後に従い、必死に呼び掛け続けていたのだった。

子どもに自分の思いを伝えて欲しいと。

気の整った邸の結界内で、晴明から借りた書のお蔭もあってやっと、子どもの母親の存在とその願いを理解した泰明は、

こうして時を選ばずに、再び鳥辺野にやってきたのである。

何故なら、母親の霊は消滅寸前にあり、夜が明けるまで持たないからだ。

泰明は、既にもう殆ど力のない母親の霊の求めに応じて、己の身体を媒介として、彼女の声を子どもに届ける。

 

生きて…どうか生きて…!

 

魂を振り絞るように、そう子どもに伝えた母親は、急速にその気配を薄れさせ、瞬く間に消え去った。

「かあさま!」

「行くべき場所へ行っただけだ」

どうにか魂の消滅は免れたらしい。

泰明が触れていた手を離すと、やっと母親の死を理解した子どもが再び泣き始めた。

状況が変わらないことに、泰明は困惑し、柳眉を寄せて、泣く子どもに問う。

「いつまでそうしているつもりだ?お前はどうしたいのだ。母親の言うように生きるのか?

それとも、このまま死んで母親の元へ行くのか?もしそうなら…」

言って立ち上がろうとした泰明の蘇芳色の袖を、子どもが泣きながら、しっかと掴んだ。

それが子どもの答えだった。

 

 

如月が鳥辺野に辿り着いた時には、陽はすっかりと落ち、辺りは暗くなっていた。

焦る気持ちに急かされるまま、駆け出そうとする如月の目に、仄明るい人影が入る。

翠と紅の色彩を纏ったほっそりとしたその姿は…

「泰明!!」

「如月か」

近付いてくる泰明の姿がはっきりしてくるにつれて、如月の目が驚きに丸くなる。

泰明はその腕の中に、薄汚れた小さな子どもを抱えていた。

「どうしたんだ、その子どもは?」

「鳥辺野から連れてきた」

「孤児か?」

「そうだと思う。この子どものことは、お師匠も知っている」

「そうか」

察しの良い如月は、泰明との短い会話だけで大体の事情を察した。

痛ましげな眼差しでやつれた子どもを見る。

頬に涙の跡のある子どもは、泣き疲れた風情で、泰明の花の香りのする狩衣の袖に包まれて、寝入っている。

その安心し切った様子に、如月は瞬きをした。

「何だ?」

「いや…意外に子どもを抱いている姿が似合うなと思って…随分お前に懐いている様子だな」

「そうか?」

そのようなことはないと思うが、と首を傾げる泰明の腕から、如月は子どもを引き取る。

幾ら似合うといっても、泰明の細腕に子どもを抱えさせたままでいることに、何とはなしに抵抗を覚えたのだ。

ぐっすりと寝入っている子どもは、幸いにも目覚めなかった。

「取り敢えず、邸に連れて帰るか。きっと腹も空かせているだろう」

「そうだな。一度戻って、お師匠の判断を仰ぐのが良いと思う」

そうして、如月と泰明は並んで歩き出した。

「如月はこのような時刻に、何故鳥辺野へ来たのだ?」

「何故って…」

ふと、泰明が口にした問いに、如月は口籠る。

「つ、使いの帰りだ、父上の!」

「そうか」

泰明は素直に納得したが、如月は逆に、居心地の悪い気分となる。

 

父の言葉を最後まで聞かずに、自ら飛び出してきたというのに、何故、素直に泰明を探しに来たと言えないのか。

出そうになる溜め息をどうにか堪え、如月は腕の中の子どもを見る。

この子どもがもし、本当に孤児なら、泰明に懐いているようでもあるし、父は安倍家で引き取ろうとするかもしれない。

皐月や自分を引き取ったように。

 

そんなことを考えながら、隣を歩く泰明を横目で見る。

沈んだ陽に代わって、辺りを照らし始めた月の光に洗われて、澄んだ瞳や、滑らかな肌、細い髪一本一本までもが、透き通るように輝いている。

高まる己の鼓動に気付かない振りをして、如月は目が合う前に、泰明から視線を逸らした。

 


終わりです!
一応ほのぼの話のつもりで書いたのですが…あれ、ほのぼのになってない?
補足(蛇足?)となりますが、やっすんが拾ってきた子どもは、如月の予想通り、安倍家の養子となります。
これで、お師匠の長男(吉平。ここでは如月)が、
つぐりんを作ったというオフィシャル設定と合わせることが出来たということで。
別に無理に合わせる必要はないんですけど(苦笑)、これは無理なく合わせられるかなと思ったので。
やっすんについては、恒例のお召し替えが書いてて愉しかったです♪
オフィシャルでは、やっすんは殆どお衣裳変えがありませんからね
(舞一夜ゲームと、コミック3巻辺りの蘭の呪詛を祓ったときぐらいか?あと、カラーイラストで若干…)、
勿論オフィシャルの黒白狩衣も可愛くて好きですが、もっと愛しの姫を着飾らせたいという欲求から、
このシリーズの隠れコンセプトは生まれました(笑)。
ちなみに、これはホントに蛇足ですが、やっすんが指貫を穿かせられる(笑)のは基本的に邸にいる時だけです。
お出掛けする時は、動きやすいよう、オフィシャル衣裳のようなズボン状の細身の袴(?)で。
指貫は殿上人(五位以上?)しか着用しないようなんですが…気にしない!!(笑)
だって、穿かせてみたかったんだもの!!可愛いから♪(断定)
狩衣の下を単にするか、衵その他にするかも毎回悩むのですが(苦笑)、オフィシャルに合わせて単で(単の下は小袖で)。
あと、書いてて愉しかったのは、子どもを抱っこするやっすんと、
体育座りをする(笑)やっすん♪ってやっすんばっかり(笑)。
…と斯様に本人は拘りつつ愉しく書きましたが、御覧下さった方も愉しんで下さったかは謎…
リクエスト下さった方々の期待に添えないものでしたら、申し訳ない(汗)。
そのような場合は、「もっと○○なのを書けーっ!!」と突っ込んでやって下さい…
って、内容にあんまり触れてない割に、長いコメントだな!!(苦笑)

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