桔梗姫廓語 弐〈雪宵〉

 

 暮に目覚めた花街は、宵時になると、本格的に賑わい始める。

 沈んだ陽の代わりに、囲いに細かな透かし模様を施した燈籠や提燈が幾つも灯され、通りや楼、茶屋の門口を艶やかに照らす。

 今宵は、花街一の花妓、桔梗の花姫道中があるということで、常にも増して、人の入りが多い。

「失礼致します、桔梗姫。そろそろ、お出で頂く時間ですが、支度は整っておりますか」

「はい。万事整っております」

 部屋まで迎えに来た楼主の問いに、側仕えの秋津が応える。

 同時に、脇息に片手を預け、背筋を伸ばして座していた桔梗が、衣裳の重さをものともせずに、す、と立ち上がった。

 今宵の桔梗が、華奢な体躯に纏うのは、黒地に目にも鮮やかな緋牡丹が咲き乱れている着物。

 細い腰を飾る金糸、銀糸で雪華紋様を浮き織りにした白玉の如く艶やかな色の帯が、雪夜に咲く花の風情を醸し出す。

花結いにした翡翠色の艶やかな髪には、玉を通した飾り紐と簪が煌く。

結い残した両の鬢は、胸元に振り掛かる辺りで、両端に白玉を飾り止めにした緋色の綾紐で束ねている。

その左の鬢に近い辺りに銀雪華の簪が挿されている。

身動きをすると、瓔珞がしゃらりと揺れて、一際目を引いた。

桔梗の装いに、楼主の友雅が満足げに目を細める。

「天から舞い降りた雪姫のごとき装いですね」

「真に…」

 秋津がどこか誇らしげに頷く。

 支度を手伝った側仕えや、花妓見習いも皆、桔梗にうっとりと見惚れ、感嘆の溜息を零す。

 道中に付き随うため、秋津を始め、数人の側仕えの者もまた、艶やかに着飾っているが、桔梗の輝きの前では霞んでしまう。

 だが、それで良いのである。

 一方、毎度ながらの、大仰な褒めように、桔梗は苦笑するしかない。

「おや、桔梗姫は我々の言葉を信用しておられないようだ…」

 そう戯れめいた口調で言う楼主が差し出す手に、白い手を軽く預け、しずしずと歩み出す。

 余計な人目から守るように、側仕えらが周囲を固めた。

 

 

 そうして、広い廊を歩んで、表玄関へと辿り着くと、廓組の若衆が既に控えていた。

 長年、桔梗の道中に付き随ってきた若衆頭の頼久が、目礼をする。

 それに黙したまま目礼を返し、何気なく頼久の傍らに目をやった桔梗が小さく息を呑む。

 軽く触れる細い指先が、僅かに震えるのを感じて、友雅がちらりと傍らの桔梗を見遣った。

 頼久の傍らに控えているのは、茶色の髪の少年だ。

 こうして跪いていても、背が高く、狼のように俊敏そうな身体つきをしていることが分かる。

 花町随一の花姫を前に、畏まった様子で顔を伏せてはいるが、それが誰だか、桔梗…いや、泰明にはすぐに分かった。

 忘れよう筈がない、彼は……

 凍り付いたように少年を凝視したままの桔梗に、多少は事情を知っている頼久が一瞬気遣わしげな眼差しを寄越す。

 しかし、すぐに何食わぬ素振りで、傍らの少年を紹介する。

「この者は、桔梗姫には初顔見せとなりますね。廓組の若衆の一人で、天真です。この度の道中の傘持ちを務めます」

 頼久の言葉に応じて、やっと天真が顔を上げる。

「宜しくお願い致します」

 きっぱりとした清々しい声音。

 凛々しい顔立ちは、見覚えているよりも、輪郭の鋭さが増して、より男らしくなっている。

 しかし、その茶色い瞳と目が合った瞬間、泰明の胸は言いようのない懐かしさに満たされた。

 脳裏に、時々顔を合わせては、無邪気に笑い合っていた過去の日々が蘇り、溢れそうになる。

 熱に変わったそれが、目頭まで降りてきて、目尻から零れ落ちそうになるのを、泰明は必死で堪える。

 そうして、殊更静かな眼差しで、天真を見返した。

 言葉に出来ない想いを籠めて。

 それは真っ直ぐに見返す天真の瞳にも感じられた。

 思い切るように、泰明はすいと、眼差しを逸らす。

「短い道中だが、桔梗をしっかり守ってやっておくれ」

 楼主としての友雅の言葉にしっかりと頷いて、天真は立ち上がる。

 頼久もまた、立ち上がり、律儀に一礼してから身を翻した。

「桔梗姫」

 秋津に促され、桔梗は友雅に預けていた手を移動させる。

 詩紋の手も借りつつ、台に蒔絵が施された高下駄を履く。

 殆ど崩れていない着物の裾や袖を整え、地に引き摺らないよう長い裾の端を詩紋が捧げ持てば、準備は完了だ。

「参りましょう」

「今宵も宜しく頼むよ」

 秋津と友雅の言葉に頷き、足を踏み出す。

 側仕えと廓組に囲まれながら、桔梗が通りへ姿を現すと、通りに集まった人々から、わっと大きな歓声が上がる。

 天下一の花姫を一目見ようと、押し合う人々が通り道に雪崩れ込もうとするのを、見張りの廓組が必死に抑える。

 通りを満たすやかましいほどの歓声。

 しかし。

 凛然と顔を上げた桔梗が、透明な眼差しで周囲を一瞥した瞬間、しんと静まり返る。

 

 しゃん。

 しゃらん。

 

 魔除けを兼ねた先触れの鈴の澄んだ音が通りに響き渡る。

 凍り付いたように身動きを止めた観衆の間を、桔梗の道中の行列はゆっくりと進む。

「流石ですね、桔梗姫は」

 妓楼の玄関口で、行列を見送っていた友雅が振り返ると、藤茶屋の鷹通がいた。

「おや、藤茶屋の。これからそちらで宴があるというのに、このようなところにいらして宜しいのかな?」

「行列が到着する前には戻りますので、ご心配なく。宴の準備も整っておりますしね」

 そう笑顔で応えてから、鷹通は目を細めて、行列の中心にいる桔梗を見詰める。

 何時の間にか、再び淡い雪が舞い始め、冷たい白い花弁を従えた桔梗は、まさに浮世離れした仙姫の如く見えた。

静まり返った観衆の瞳は、残らず熱に浮かされたように桔梗の姿に見入り、追い掛けている。

 そうして、桔梗が見えなくなった後も、その香るような残像に捕らわれ、

暫くの間は溜め息混じりに、高嶺の花について囁くように語るしかない。

「その美しさで、見る者から言葉だけでなく、身動きすら奪ってしまう…歴代の花姫の中にも、桔梗姫ほどの方はおられなかったでしょう」

冷静に語っているかのように見える鷹通の口調も何処か陶然としていた。

「光栄なことだ…」

 そう呟きつつも、友雅は密かに苦笑を噛んだ。

 

 

 藤茶屋で最も上等の座敷では、宴の支度が整えられ、永泉が待ち受けていた。

「桔梗姫」

 するすると襖を開いて、慎ましく辞儀をした桔梗を、永泉は微笑んで出迎える。

 次いで、桔梗の艶姿に目を瞠った。

「これは…お美しい……今宵の桔梗姫は、雪華姫でもいらっしゃるのですね。

貴方の美しさには、お目に掛かる度に、心奪われずにはいられません…」

 導かれた上座に、滑らかな動きで腰を下ろしながら、桔梗は紅を引いた花弁のような唇に、本日何度目かの淡い苦笑を刻む。

「過分な言葉、恐れ入る」

「むしろ、足りないくらいですのに…」

 す、と軽く頭を下げる桔梗に、永泉も微苦笑する。

 しかし、桔梗が己の美貌に無頓着なのは、今に始まったことではない。

 また、そのようなところが、桔梗の魅力を更に引き立てているのも確かだ。

 そのことを充分に承知している永泉は、更に言葉を重ねるようなことはせず、宴を始める。

 この宴の為に呼び寄せた役者や芸人が楽を奏で、歌い、舞い踊る。

 桔梗は隣に座った永泉に酌をしながら、その様子を眺めていた。

 時折永泉が穏やかに話し掛けるのに応えて、僅かに唇を綻ばせる。

 何処か微笑ましさすら感じる雰囲気に、ふたりを見守る者は一様に目を細めた。

 穏やかで品良い気質の所為だろうか、数ある旦那のうち、永泉を相手にするとき、桔梗は最も寛いだ様子を見せる。

 どんな相手であろうと床入りを承知せず、花妓でありながら、その清冽な容姿と心そのままに、清らかなままなのでは、と噂されていた桔梗。

 しかし、最近の桔梗には今までにはなかった艶がある。

 元より、清らかな色香を纏う桔梗ではあったが、それがふとした瞬間に、一層艶やかに匂い立つのだ。

 さては、ついにこの高嶺の花の固い花弁を開かせた男がいるのか。

だとするなら、その男は一体誰なのか。

そんな新たな噂が花街を賑わしている。

 そして、桔梗が身体を許した旦那として、最も有力だと名が挙がっているのが、永泉なのである。

 しかし、妓楼側は花妓が誰と床入りしたかは勿論、登楼客の名も決して公にしないのがしきたりだ。

 永泉本人に訊ねても、やんわりと微笑まれ、曖昧にはぐらかされるだけだ。

 はぐらかすということは、永泉こそが桔梗の相手に違いないと思い込む者も多くいるが、

それが見当違いであるのを知る者は、桔梗を抱える妓楼内でもごく僅かであった。

 宴も酣となった頃、ふと永泉が片手を上げ、周囲を静める。

 次いで、正面の障子近くに座した男役者に、その障子を開かせた。

 この座敷は庭に面している。

 雪化粧された庭の様子に、桔梗の双玉の瞳が僅かに開かれた。

「先日、桔梗姫は雪が好きだと伺いましたので、今宵は庭が良く見えるお座敷をお願いしたのです」

 永泉の遠慮がちな言葉を耳にしつつ、桔梗はゆっくりと視線を巡らせる。

 茶屋へと向かう折に、再び降り出した雪は既に止んで、雲間から月が顔を出している。

 降り注ぐ青白い光に、庭木や庭石に粉のように降り積もった雪の一粒一粒が煌いていた。

 暫しその様子に見入っていた桔梗は、やがて、隣に座る永泉に振り向き、微笑んだ。

「とても美しい眺めだ。感謝する」

 言葉は素っ気無いが、桜色の頬が淡く色付いている。

「喜んで頂けて良かった」

 永泉も嬉しそうに微笑み、控えていた供の者から愛用の横笛を受け取る。

「今宵はこの雪景色と共に、拙い素人のものではありますが、私の笛の音を貴方に捧げたいと思います」

「永泉の笛は拙くなどないが」

「有難う御座います」

 もう一度、今度は少々照れたように微笑んで、永泉は笛を奏で始める。

 澄んだ音色が辺りを満たし、宴に集まった者たちは、それにうっとりしたように聞き入る。

 と、ふいに桔梗がすらりと立ち上がった。

 衣擦れの音も涼しく、前へと進む。

 開かれた障子際まで進み、庭を背にして振り返った。

その黒い着物の袖に映える白い指には開かれた扇。

扇と共に、着物の黒い袖と、緋牡丹の裾がゆっくりと翻る。

垂らした翡翠色の鬢が揺れ、挿された雪華の簪が煌きながら、細やかな音を立てる。

永泉の笛の音に合わせ、純白の雪景色を背景に、優美に軽やかに舞う桔梗の姿に、一同は更にうっとりと見惚れた。

魂まで奪われてしまったような面持ちの者もいる。

まさに、月から舞い降りた仙姫のような幻想的な舞姿だった。

やがて、永泉が一曲を奏で終わると同時に、桔梗が舞い納めると、その場には感嘆の溜め息が満ちた。

「素晴らしい…!流石は桔梗姫…!!」

「永泉様の笛の音も格別で御座いました!!」

 次いで我に返ったようにどよめき、賛美の言葉を連ねる面々を他所に、桔梗は顔色ひとつ変えずに、平然と座に戻った。

 そんな桔梗を永泉が微笑んで迎える。

「本当に素晴らしい舞でした、桔梗姫」

 しかし、そう言う永泉の微笑が何処か寂しげで、桔梗は訝しげに首を傾げる。

 そんな桔梗の様子を敏感に察した永泉が、淡く優しげな苦笑を浮かべて応える。

「他愛のないことです。今宵の桔梗姫は…いえ、正直を申せば、今宵ばかりではないのですが…

貴方はあまりにも清らかで美しく、まるでこの世ならぬ天上人のようで…いつか淡雪のように儚く、元いた世界へと還ってしまうような…

そんな不安を時折抱かせるのです。今宵はこの雪の所為でしょうか…また、ふとそのような不安に駆られてしまいました」

「私は消えたりはせぬ」

「ええ、そうですね。ですから、これは私の戯言と聞き流してください」

 その話はそれで終わったものの、永泉の寂しげな笑みは、何故か桔梗の印象に残った。

 

 

「ああ、そうだね…良く分かるよ」

 次の夜、花妓の衣裳を解いた泰明が、友雅にその話をすると、彼は納得したように頷いた。

「お前までそのようなことを言うのか」

 泰明は困惑したように、柳眉を顰める。

「私はそのような大した存在ではないというのに…」

「君がそう言うのは重々承知しているのだがね…そう思ってしまうのだから、仕方がない」

「!」

 言いながら、友雅は不意を突くように、間近にある手首を引き寄せ、華奢な細身を横たわらせる。

「だから、こうして繰り返し触れて、その存在を確かめたくなるのかもしれないね…」

 まだ、納得がいかない様子で、友雅を見上げ、問いを重ねようとした泰明は、ふと気付く。

「あのときの永泉と同じ顔だな」

 言われて、友雅は苦笑した。

 次いで、その笑みを戯れめいたものに変化させ、

「おや、このようなときに、他の男の話はご法度だよ」

新たな笑みで、垣間見せた寂しさを覆い隠そうとするが、泰明は誤魔化されたりはしなかった。

友雅を真っ直ぐに見詰め、真っ直ぐな言葉を響かせる。

「私はここにいる。お前の傍に」

 友雅は僅かに目を瞠る。

 次いで、再び微笑んだ。

 少しだけ安堵したような気持ちで。

 それでも、芳しい香りを纏う細い身体の温もりは儚いほどで。

 その身体を包み込むように抱き締め、滑らかな肌に口付けた。

 

 己の内の熱を移し、その身を地上に繋ぎ止める為に。

 


そんな訳で宴篇で御座いました。
何となく、オールキャラっぽい雰囲気も出しつつ、書きたかったのは、
やっすんと天真の再会と、花姫道中(笑)、桔梗姫の舞姿の場面でした♪
とはいえ、書いていくうちに増えていった他の場面も愉しく書けました。
月の姫という呼び掛けは、やっすんにこそ相応しいと常々思っている「やす姫を愛でる会」会員その一で御座います(笑)。

前へ  戻る