桔梗姫廓語 壱
まだ、宵を迎えたばかりの時分、夕で宴を切り上げた泰明は、離れの友雅の部屋を訪れていた。
「舞の新しい師範?」
友雅が楽器を爪弾きながら、軽い口調で告げた言葉を、泰明は首を傾げて、確認するように繰り返した。
絹糸のような細い髪が、煌きながら淡い香色の着物の肩に心地良い音を立てて流れる。
夜空に掛かるのは、立待月。
眺める庭では、艶やかに色付いた紅葉が、月影に浮かび上がっている。
燈籠に明々と照らされた、表通りの華やかな紅葉とはまた違った趣だ。
また、花妓の華やかな装いを解いた泰明の清楚な佇まいも。
贅沢な眺めに目を細め、友雅は言葉を継ぐ。
「そう。男舞の師範をね、新しく迎えたいと考えているのだよ」
養父亡き後、妓楼を引き継ぎ、泰明の親代わりとなり、今は密かに想い合う仲ともなった友雅が決めたことだ、泰明に異論のあろう筈もない。
泰明はこくんと頷いて、訊ねた。
「今度の男舞の師範はどのような人なのだ?」
「私の古くからの知り合いでね、まだ若いが、一流と評判の舞い手だよ。
今までは、主に西の都で舞っていたのだが、今度こちらに活動の場を移すことになってね、
これを機会に、君の舞の師範になって頂くことにしたのだよ」
「そうか。しかし、それだけ評判の舞い手ともなれば、忙しいだろう?そのような人に教えを乞うても良いのだろうか?」
「君は優しいね、泰明。けれど、安心したまえ。彼は舞の師範になることを快諾してくれたよ。
逆に、西の都でも音に聞こえた花姫「桔梗」に、舞を教えられるとは光栄だと言っていたよ」
「…そうか」
ほっと小さな息を吐いて、泰明は気遣わしげに顰めていた柳眉を緩めた。
桜色の頬を仄かな笑みに染める様子に、友雅は手にしていた楽器を脇に置いて、独りごちるように言う。
「けれど…少し心配だな」
「何がだ?」
首を傾げる泰明の、紅葉を散らした着物の袖から覗く細い指先を捉え、口付けて友雅は笑んでみせる。
「彼はとても良い男だからね、もし、彼に君の心が奪われたら、と思うと少し不安なのだよ」
「そのようなことある筈がない」
「そう?」
「そうだ」
再び眉根を寄せて、拗ねたように言い返す泰明を宥めるように、友雅は笑い掛ける。
柔らかくたわめられた瞳に、甘やかな光が宿り…
「では、私を安心させておくれ…」
「え?」
捉えた手を引いて、細い身体を手繰り寄せるように引き寄せ、その場に横たえる。
「ともま…」
名を紡ごうとする花弁の唇を、柔らかい口付けで塞ぎ、囁く。
「君の淡い桜色の肌に、美しい紅葉を散らしてあげよう…」
庭の紅葉が一枚、はらりと月光に煌きながら落ちた。
この花街の遊君である「花妓」は、他の色街の遊女らとは一線を画している。
その起源は、寺社に仕えて神々に舞や歌を捧げ、引き換えに得た神の功徳を、その身を介して人々に分け与える御巫だという。
寺社から離れ、独立した花街を作り上げた現在も、御巫的な神秘性を花妓に見る風潮は依然として残っており、
花街側も花妓の神秘性を高めて、その身を安売りをさせない為に、その伝統を利用し、守り続けてきた。
そのひとつが、「神の力、ひいては神そのものをその身に宿す花妓は男でも女でもない」という考え方である。
それが転じて、「花妓は男でも女でもある」という考え方に繋がって、男女の別なく、容姿の優れた者が花妓となる伝統が生まれた。
しかし、男でも女でもなく、男でも女でもある花妓に求められる知識と教養は、並大抵の量ではない。
歌舞音曲は元より、華道、茶道、香道を嗜み、和歌だけではなく、漢詩にも堪能でなければならない。
花妓見習いは殆どが、血の滲むような努力を重ねて、男女共に通用する学芸を身に付けるのである。
が、泰明は生来の物覚えの良さに加えて、根っからの廓育ちで、物心付く前から少しずつ、養父に教育されてきたので、
花妓となるのに必要な学芸を身に付けるのに、それほど苦労はしなかった。
花妓の頂点に立つ「花姫」となった今も、街の外から招かれた一流の学芸人に師事して、弛むことなく己の才を磨き続けているのだった。
そして、花妓が宴で最もよく披露する芸が舞であるが、これもまた、他の遊郭の遊女が女舞だけを習い覚えるのに対して、
花妓は女舞と男舞の両方を会得するのが鉄則である。
男舞は剣舞、女舞は扇舞が主たるものだが、他にも様々な種類がある。
花妓はそれら全てを習得するのだ。
男舞のほうは、泰明が花妓となる以前は、楼主である友雅が教えていたことがあったが、今は、こちらも外から師範を招いている。
しかし、花街唯一の花姫である桔梗…泰明に付けるあらゆる師範は、今も友雅が厳選しているのだった。
「おはよう御座います、桔梗姫」
側仕えの秋津が、花妓見習いを一人従えて、桔梗の身支度を整える為に部屋に入ってくる。
時刻は巳の刻。
夜を徹しての宴や、床入りをした客の相手などで、就寝の遅い花妓にしては早い時刻だが、
桔梗は既に起きて、湯浴みを終え、髪を乾かしていた。
この日午の刻に、新しい男舞の師範がやって来るのだ。
初顔合わせの挨拶に続いて、稽古も行うので、常よりも約束の時刻が早い。
華奢な体躯に、小さな菊花を散らした単衣を纏って、鏡の前に座していた桔梗は、
秋津の後から入ってきた花妓見習いの姿を見て、睫長い瞳を瞬いた。
「その者は、初めて見る顔だが…」
「はい。先日花妓見習いになったばかりの者ですが、見込みがあるとのことで、
今後暫くは桔梗姫の側仕えの一人として、身の周りのお世話をさせて頂くことになりました」
秋津の言葉に応じて、件の花妓見習いの少年が、膝を付いて額づくように深々と頭を下げた。
「詩紋と申します…」
「詩紋か。宜しく頼む。だが、必要以上に畏まることはない。私もお前の世話になるのだから」
「はい」
顔を上げるように促すと、素直な返事をして、少年は顔を上げた。
明らかに異国の血が混じっていると分かる、ふわりとした癖のある金の髪と晴れた空のような青い瞳の愛らしい顔立ちで、
成程見込みがあるというのも分かる。
瞳の色に合わせた青い着物を纏っている。
緊張の為か瑞々しい頬を僅かに紅潮させながらも、詩紋は秋津の指示に従って、きびきびと動いた。
まずは、朝餉と昼餉を兼ねた食事を取り、衣裳を選ぶ。
淡い緑の地に、右肩から左足元に掛けて、白や黄、紫の大菊が流れ落ちるように描かれた綸子の着物を選ぶと、それに合わせて髪を結う。
絹の光沢を持つ翠髪を、左右の鬢を残して結い上げ、緩く纏めたところを瓔珞揺れる菊を模した簪で留める。
肩先まで垂れる瓔珞がしゃらりと揺れて、鶴のようにすんなりと伸びた桔梗の項の滑らかな白さを際立たせる。
それから着物を着付け、銀糸を織り込んだ菊花と同じ色彩の紗を、三枚重ねて細い腰で片結いにし、長く残した布の端をふわりと垂らす。
最後に床に引き摺る裾を整えれば、完成だ。
着付けたのは、花妓の言わば、昼の日常着なので、着付けの手間や時間はあまり掛からない。
着物の柄も、夜の正装に比べれば、華やかさを抑えたものだが、それが却って桔梗の品良い美貌を引き立てるようだ。
「綺麗…」
「まことに…お美しゅう御座います…」
詩紋が思わず、と言ったように喘ぐような感嘆の声を漏らし、秋津も頷いて感極まった声を漏らした。
桔梗は黙したまま、苦笑めいた笑みだけを返した。
大袈裟だとは思ったが、それを口にすると、嵐のような反論が返ってくるのが常だからだ。
やがて、午の刻となった。
秋津らに伴われて、離れの稽古部屋へと向かう。
座して間もなく、新たな師範がやって来た。
「すまない。遅れてしまったであろうか?」
落ち着いた静かな声音でそう言って、部屋に入ってきたのは、暗赤色の髪、藍色の瞳の青年だった。
左目の下に泣きぼくろのある舞人らしい端整な顔立ちをしている。
「いや、時間通りだ。ようこそ、いらせられた、多季史殿」
桔梗は青年に向かって、慎ましやかな辞儀をしながら、自ら出迎えの言葉を述べた。
花妓…特に花姫ともなると、馴染みの登楼客以外の男に、直接声を聞かせることは殆ど無い。
しかし、学芸の師範に対してだけは特別で、例え師範が男であっても、直接言葉を交わすことが許される。
教えを乞う師範に対する礼儀だというのがその理由だが、言葉を交わさずには、稽古が滞りなく進められないという実情もある。
その代わり、稽古の間も側仕えが控えて、必要以上に花妓と師範の距離が近付くことのないよう、目を光らせるのである。
顔を上げた桔梗と見合った青年は、驚いたように僅かに藍色の瞳を瞠る。
「如何致した?」
無垢な瞬きをして訊ねる桔梗に、青年は僅かに唇の端を吊り上げるだけの淡い笑みを浮かべた。
「いや…噂以上に、美しい方故、少し驚いただけだ」
「過分なお言葉、痛み入る」
僅かに苦笑しつつ、桔梗がそう返すと、
「いや、過分なことを言ったつもりはない。元より、私は世辞を言うのは得意ではないし、本当に思ったことしか言えぬ」
「……」
さらりと至って大真面目に言われて、それ以上返す言葉を失ってしまう。
思わず、季史と見合ったまま、沈黙してしまっていると、秋津がその場に流れる奇妙な空気を打ち破るように、咳払いをした。
「では、そろそろ稽古のほうをお願い致します」
「分かった」
そうして、始まった稽古だったが、思いの外新しい師範は厳しかった。
「足運びが遅い。もっと速く滑らかに。今の動きをもう一度」
「手首の返しが甘い。そこは力強く鋭く。もう一度だ」
桔梗の一挙手一投足に到るまで、細かく指摘し、その都度やり直しをさせる。
初めて桔梗の稽古を見る詩紋のみならず、幾度も稽古を見ていた秋津でさえ、やり過ぎではないかと思えるほどだった。
大体桔梗は、これまでも一流の師範に付いて腕を磨いてきたのだ。
しかも、今尚、花街一の名声を誇る花姫なのである。
その舞に、多くの問題点がある筈はない。
我慢できずに、声を上げようとした秋津を、振り向いた桔梗が、静かだが強い眼差しで黙らせる。
一言も文句を言わず、師範の言葉に従い、稽古を続けた。
そうして、この日の稽古を終えたときには、桔梗はすっかり息が上がってしまっていた。
それでも、背筋を正して床に座し、季史に作法に則った辞儀をする。
「手厚いご指導、感謝する」
元の物静かな青年に戻った季史は、それに穏やかに微笑み返した。
「いや、こちらも教え甲斐があった。そなたは飲み込みが早いな。一度注意すれば、二度目は完璧にこなすことが出来る。
流石はこの街随一の花姫だ。今回は、有意義な時間を過させて貰った」
季史の言に顔を上げた桔梗は、花が綻ぶように微笑んだ。
「それはこちらの申すべきこと。次の機会も宜しくご指導賜りたい、多殿」
「…季史」
「?」
「私のことは「季史」と。そう呼んで欲しい」
「分かった、季史殿」
「私も、そなたに舞を教えられる次の機会を愉しみにしている、桔梗姫」
桔梗が頷いて応えると、季史はもう一度微笑んで、稽古部屋を出て行った。
「お疲れ様でした、季史殿」
「友雅か…」
妓楼裏手の門へと到る渡り廊の途中で、楼主の友雅が優雅な笑みを浮かべながら、季史を待っていた。
「如何でしたか、うちの桔梗は?」
桔梗の名を聞いた瞬間、殆ど無表情であった季史の瞳が笑みに細められた。
「予想以上に、基礎がしっかりしていて、こちらも教え易かった。舞の基礎は、そなたが教えたのか?」
「ええ、僭越ながら」
「そうか。成程、そなたが教えたのなら、間違いはなかろうな。
それに、元より素養もあるのだろう、飲み込みが早い。何より、舞に独特の品がある」
「それはそれは。舞い手として名高い季史殿に、これほどの賞賛を頂けるとは、桔梗にとっても光栄なことでしょう」
季史の手放しの褒めように、つい友雅は苦笑してしまう。
「どうしたのだ?」
「いえ…」
小さく笑みを零し、友雅は怪訝そうな季史を真っ直ぐに見た。
「どうやら、貴方も桔梗の魅力に捕まってしまったようだ」
「……」
「別に責めている訳ではありませんよ。それもまた…桔梗と我が妓楼にとっては、光栄なことですから。
それでは、次回も宜しくお願い致しますよ、師範殿」
そう言って、友雅は身を翻した。
「…私は、そのようなつもりは……」
季史がようやく沈黙から脱した時には既に、友雅の姿はなかった。
季史は何処か、ぼんやりとした心地で、西に傾いていく夕陽を眺める。
そう言えば、自分は何故、桔梗に自分のことを名で呼んで欲しいと乞うたのだろうか。
脳裏に桔梗の花のような姿が甦って、季史はそっと目を閉じた。
「舞にしか興味のない専門馬鹿だと思っていたのだがねえ…」
友雅もまた、夕陽を眺め、苦笑混じりに呟いていた。
「これは、失敗したかな…?」