王の宝珠 3
次々に押し寄せる波が、黒い岩を洗っていく。
岩に当たって弾けた波は、真珠玉のような白い飛沫を散らせながら、瑠璃の水面と戻る。
水平線の彼方からは、波と呼び合うように爽やかな風も寄せてくる。
その風に翡翠の髪を梳かせながら、泰明は深く息を吸い、吐いた。
懐かしい潮風が心地良い。
紅玉の唇が僅かに綻ぶ。
次いで、ゆっくりと背後を振り返った。
「大丈夫か?」
視線の先には、身を屈め、両膝に手を付いたセフルの姿があった。
僅かに息を切らす頬の横で、薄い金色の髪先が小刻みに揺れている。
城を出たときは、泰明の手を引いていたセフルだったが、この海辺に到るまでの道のりが予想外に厳しく、
何時の間にか、泰明の手を放してしまい、逆に、先導されるような形でやって来たのだった。
泰明の呼び掛けに、反射的に顔を上げたセフルは、水色の瞳に剣呑な光を浮かべて、泰明を睨む。
が、海岸に佇む泰明の麗姿に、思わず息を呑んだ。
光を弾く真珠色の肌。
その美貌を鮮やかに縁取る翡翠の絹糸。
そして、吸い込まれそうなほど澄んだ翡翠と黄玉の瞳。
今、それは陽に煌く波の反射を受けて、揺らめくような光を湛えている。
まるで、海から生みだされた泡沫…儚い宝玉のような輝きを纏ったその姿。
ふと、セフルは我に返った。
泰明に見惚れるあまり、彼と見詰め合っていたことに気付き、慌てて泰明から視線を逸らす。
が、すぐに、先程思わず睨んでしまったことと合わせて、今の反応は不自然ではないのかという思いが脳裏を過ぎる。
セフルは身を固くして、次の言動をどうするべきか考える。
「…ええ、大丈夫です。どうぞお気遣いなく」
結局、取り繕うような言葉しか出てこなかった。
セフルはそっと、盗み見るように泰明の様子を窺う。
泰明はセフルの様子を気にした風もなく、鷹揚に頷いて、視線を海へ戻す。
超然として見える態度に、セフルは一瞬不快気に細い眉根を寄せた。
が、すぐに気を取り直し、朗らかな笑みを浮かべると、泰明の細い背に声を掛ける。
「如何ですか、外の空気は?」
「そうだな…海の近くは、やはり落ち着く。バルコニーから遠目に眺めるのも悪くはないが…」
泰明の立つ岩に当たって砕けた波飛沫が、白い足先を僅かに濡らす。
泰明は微笑んだ。
「こうして、直に触れることは出来ぬからな。とても懐かしい…」
「…懐かしい?」
訝しげに泰明の言葉を呟いたセフルは、思い出す。
この姫は海からやって来た精霊…人魚なのだと。
泰明を神聖視する輩のでっち上げかと思っていたが…
(でも、こいつが嘘を言っているかもしれない。……そうは見えないけど…いいや!見掛けに騙されては駄目だ!!)
再び泰明がこちらを振り返ったので、セフルは慌てて笑顔を作った。
「ここに連れて来てくれたこと、感謝する。有難う」
「……いいえ」
気構えていた所為か、先程よりも泰明の透明な笑顔に動揺することはなかった。
す、と泰明の背後へと近付く。
「どうぞ、お気の済むまでお過ごし下さい。その間、貴方様の身は僕がお守りいたしますので」
「それこそ、そのような気遣いは無用だ」
言いながら、波音に導かれるまま、泰明は、海と空が接するその彼方へと視線を戻す。
遥かな眼差し。
傍らのセフルを邪魔にするでもなく、その存在を忘れたかのようにすら見える。
セフルは、一瞬だけ躊躇う。
そんな自分を訝しく思うのも一瞬。
その口元に、邪悪な笑みが浮かんだ。
そっと手を伸ばす。
泰明は無防備に佇んでいる。
すらりと高い背の割に華奢な背中。
これならば、容易く…
セフルは伸ばした手に力を篭め、泰明の背に向かって強く押し出した。
「…珍しいな」
国王への謁見を求める外国の使者の国と名が記された一覧を見ていたアクラムが呟いた。
応えて傍らで国王の執務の補佐をしているイクティダールが頷く。
「白蓮(ハクレン)ですね。確かに、彼の国との国交は殆どなく、使者が訪れることも稀です。過去の外交記録によると、前回の来訪は五十年前でした」
「我が国と境を接しているというのにな。遠き隣人と言う訳だ」
アクラムは皮肉気に笑って、整った指先で手にした紙の、白蓮の使者の名が記された部分を弾く。
「数日中に、この白蓮の使者との謁見の場を設けろ」
「彼らの思惑が気になりますか」
宰相の控え目な問いに、国王は皮肉気な笑みを唇に宿したまま、青い瞳を冷たく細めた。
「取るに足らぬ小国と捨て置くことも出来る。だが、今になって、俄かにこちらの機嫌を伺う素振りを見せてきたのだ。
侮りが過ぎれば、獅子の体内を喰い荒らす虫を育てる羽目になるかもしれぬ。意図を探らぬ訳にはいかぬだろう」
「御意」
アクラムの言葉に、イクティダールは目を伏せて、恭順を示した。
「宰相様!イクティダール様!!」
王の執務室を辞したイクティダールは、慌しい呼び声に振り返る。
見れば、泰明付きの侍女が駆け寄ってくる。
その焦慮が垣間見える表情に、イクティダールは、僅かに眉を顰める。
「どうした?泰明様に何か?」
「はい。実は、泰明様が図書室でおくつろぎのところに、パオン子爵様が見えられまして…」
侍女は周囲を憚りつつ、囁くような声音で泰明がセフルに連れ出されたことを報告する。
「パオン子爵…セフルか」
侍女の報告に、イクティダールは少なからず拍子抜けする。
王の侍従として仕える彼が、泰明のことを快く思っていないのは察していた。
だが、多少邪悪な面はあるが、大それたことは出来ない性質であることも分かっていたので、さほど気に掛けてはいなかったのである。
「それ程気を揉まずとも、泰明様なら上手くあしらわれるだろう」
「ですが…お出でになられてから、一刻になりますのに、まだ、お戻りにならないのです」
不安を拭えない様子の侍女の言葉に、イクティダールは思案する。
「泰明様が連れ出された場所は分かるか?」
「はい。恐らく、城近くの海岸ではないかと。あの場所は足場が悪くて、危険ですわ…」
泰明なら大丈夫だろうと思いつつも、ひたすら主人の身を案じる侍女を気遣い、イクティダールは微笑み掛ける。
「案ずることはない。これから私が様子を見て来よう。そなたは部屋で泰明様をお迎えする準備をしなさい」
「有難う御座います。どうぞ、宜しくお願い致しますわ、イクティダール様」
イクティダールが請合ったことで、侍女はやっと安堵したらしい。
「海辺からお戻りということは、潮や砂にお身体が触れていらっしゃるでしょうから、湯浴みとお着替えの支度をしなければなりませんわね。
お湯に落とす香料と御髪の洗料を取り寄せなければ…」
早速己の職務を思い出し、慌しく去って行った。
それを少々苦笑混じりで見送って、イクティダールも歩き出そうとする。
が、扉が開く気配に、何気なく振り向き、そこで軽く隻眼を瞠った。
派手な水音が響いた。
「大丈夫か?」
突き出されたセフルの腕を躱して、ふわりと跳んだ泰明は、隣の岩へと移る。
虹色のドレスの裾が煌きながら空気を孕んで翻り、再びゆっくりとその足元を覆っていく。
狭い足場を物ともせず、泰明はくるりと振り返り、セフルへ言葉を掛ける。
セフルは泰明に躱され、踏み止まることが出来ずに、海へと落ちていた。
もがきながら、淡々と問い掛ける泰明を睨もうとするが、出来ない。
元より、泳ぎが得意ではないのだ。
ひたすら手足をばたつかせて、沈んでいく身体を浮かせようとするが、思うようにいかない。
(…ッ溺れる!!)
と、思ったそのとき、手首を細い指にぐ、と掴まれた。
反射的に、差し伸べられた腕にしがみ付く。
が、次の瞬間、その華奢な腕が泰明のものであることに気付いた。
このように力任せにしがみ付いては、今度こそ、泰明も海に落ちてしまうかもしれない。
いっそ、そうしてしまおうか。
だが、自分も共に沈んでしまっては、意味がない。
何よりも互いの命に関わる。
元より、泰明の命まで奪うつもりはなかった。
ちょっとした嫌がらせが出来れば良かったのだ。
ならば、やはり、泰明を巻き込まぬ為にも、手を離したほうが…
迷いに捕らわれていたのは一瞬。
が、その短い間に、見掛けを裏切る泰明の力強い腕によって、セフルは波間から引き上げられていた。
岩にしがみ付くように手を突いて、ひたすら咳き込む。
幸い、水はあまり呑んでおらず、間もなく、セフルは落ち着いた。
ようやく顔を上げると、様子を窺う泰明と目が合った。
その人形のように整った顔には、何の表情も浮かんでいない。
嘲りも気遣いも。
だが、不思議と冷たい印象はなく、セフルに向けられる眼差しは、ひたすら透明で清らかだった。
無性に居た堪れない気持ちになって、セフルは俯く。
セフルのそんな様子を見詰めていた泰明は、軽く細い首を傾げた。
さらりと、翡翠の絹糸が心地良く揺れる。
「私を海で溺れさせるのは無理だぞ」
不意に耳を打ったその言葉に、セフルはかっとなった。
企みを見切られていた。
もしかしたら、泰明は始めから自分が悪意を持って、近付いたことに気付いていたのかもしれない。
そのことにようやく気付き、セフルは屈辱に身を震わせる。
「謝らないからな!!」
勢い良く顔を上げて、セフルは怒鳴った。
その激しい反応に、泰明は澄んだ宝玉の瞳を軽く瞠る。
「今、助けてもらったことだって…礼は言わないからな!!!」
セフルの突然の激昂に、泰明は付いていけない。
ひたすら不思議そうに瞬きを繰り返す。
そのあまりに無邪気な様に、セフルの勢いがやや削がれたそのとき。
「何を騒いでいる?」
低い声音が二人の間に割って入った。