月天譚 4 走ったのはそれほど長い距離ではない筈なのに、息が上がっている。 肩で息をしながら、泰明はどこか呆然とした心持ちで、差し込む陽光に水面を煌かせる泉を眺めていた。 初めて見る昼間の泉の様子は、見慣れた夜のものとは全く違っていて… その水面に映る白く儚い影に気付き、空を見上げる。 そこには静かな真昼の月。 さほど時を待たずして、胸の鼓動も静まった頃。 かさり、と草を踏み分ける音に、また一度だけ鼓動が大きく鳴る。 しかし、それはまたすぐに静かなものへと戻り、泰明はゆっくりと振り向いた。 そこには、予想していた通りの姿があった。 いや、己はきっと彼が来るのを待っていたのだ。 いつものように。 彼を目の前にしても、胸を締め付けられるような痛みはもうなかった。 それは彼に隠すところがなくなった所為であろうか。 だが……代わりにこの胸を占める白い空洞は何なのだろう。 剣を片手に、こちらにゆっくりと近付いてくる友雅には何の表情も浮かんでいない。 ただ少し青褪めているように見えた。 恐らく己も同じような表情で彼を見詰めているのだろうと静かに思う。 煌く泉を背景に向き合ったふたりは暫し、無言で見詰め合った。 「月天将」 その短い沈黙を破ったのは、友雅の方だった。 「貴方が月天将。そのことに間違いはないか?」 「そうだ」 固い声音での問いに、泰明はしっかりと頷く。 「私が天軍を率いる月天将。また、日天神がこの世を正しく導く為に遣わされた御子でもある」 「日天神の御子…か。やはりな」 小さく息を吐いた友雅が、やがて空いている片手で額から両目を覆って低く笑い出した。 この戦を終わらせなければ、「月の君」は手に入らない。 「月天将」を倒さなければ、この戦は終わらない。 しかし、「月天将」を倒すことは、同時に「月の君」を失うことに他ならなかったのだ。 「…どんなに欲しいと願っても、貴方は私の手に届かないひとであった訳だ」 笑いながら呟く声の虚ろで哀しい響きが泰明の胸を刺す。 「友雅…」 「とんだ喜劇だ。ねえ、貴方もそう思うだろう?」 唇に笑みの表情を残したまま、友雅が顔を上げて、泰明を見遣る。 泰明を映す瞳には、しかし、笑みの気配は欠片も窺えなかった。 眼を伏せた友雅が、手にした剣をそっと掲げる。 そこでやっと、泰明は己も剣を手にしていたことを思い出した。 そして、唐突に気付く。 ああ、そうだったのか、と。 己はこの為にここまでやって来たのだ、と。 友雅もそのことに気付いたことが今、手に取るように分かる。 そして、友雅も己が気付いたことを知っている。 「月天将」 「ああ、分かっている」 確信を込めた呼び掛けに、泰明も己の剣を掲げた。 穏やかなまでの友雅の声が…耳に届く。 「終わりにしよう」 静かな森に、刃がぶつかり合う鋭い音が響く。 それは一度二度と繰り返された後、不意に途絶えた。 叩き折られた刃の先が地面へと突き刺さる。 傍らに膝を付き、荒い息をつく泰明は、己の首元に擬された刃に気付く。 「これが、音に聞こえた月天将の実力か?」 冷たい声が投げ掛けられる。 「それとも、単なる一将軍相手では本気になれないと?貴方は私を馬鹿にしておられる?」 「違う!」 挑発するような言葉を泰明は鋭く否定し、顔を上げる。 見下ろす声と同じく冷たい瞳と目が合う。 「…違う」 まともに見ていられずに、泰明は再び目を伏せ、同じ言葉を繰り返す。 首筋の刃は動かない。 本気を出さなかった訳ではない。 しかし、躊躇ったのは事実だ。 …これは迷いを捨てきれなかった己の弱さの結果。 「…言い訳はしない。お前の勝ちだ」 一瞬の沈黙の後、俯いたまま泰明は、潔く言った。 神に殉じる聖人のように首を垂れる。 乱れても尚美しい翠色の髪が、さらさらと白い顔の両脇を覆いながら地に拡がる。 そうして刃の前に晒される細い首筋。 その清らかな白さに、友雅の瞳が何らかの痛みを堪えるように細められる。 手にした剣の柄に力を込め、一度泰明の首筋から刃を離す。 それが振り下ろされることを覚悟して、泰明は瞳を閉じた。 長いような短いような一瞬。 泰明が次に聞いたのは、剣が地に落ちる音だった。 目を開くと、己の折れた剣に添うように友雅の剣が落ちていた。 「…貴方は……酷いひとだ」 搾り出すように呟かれる言葉。 引かれるように相手を見遣る前に、引き寄せられ、抱き締められた。 「出来る訳がない。この私に貴方の…君の首を落とすことなど…!」 「とも…」 「君が愛しい。君しか要らない。なのに、何故……」 ただひとつの願いがこうも叶わない。 「友雅……」 息も出来ぬほど強く抱き締められる。 伝わってくる鼓動が熱い。 強く抱かれた身体が痛い。 胸が…痛い。 ……苦しい。 白い空洞となっていた心が今、抑えきれぬ悲鳴を上げている。 何故、このままこの想いごと身体が砕けてしまわないのかと不思議に思うほどに。 今の己にできるのは、ただ彼の名を呼ぶことだけ。 どうすれば、この苦しみから逃れられる? どうすれば……ふたり共にあることができる…? 行き先が見えないのだ。 …ただひとつしか。 ふと、抱き締める友雅の腕が緩んだ。 間近で見詰め合い、どちらからともなく引き寄せられるように口付けを交わす。 「このまま誰も知らない土地へ行ってしまおうか…どうだい?」 口付けの狭間にそう、僅かな笑み混じりに問われて、泰明は儚げに微笑む。 ふたりの立場を考えれば、そんなことは出来る筈がない。 そのことを充分承知しながらの冗談めいた誘いに、 「そうだな…そう…できたら良いな」 泰明は素直にそう応えていた。 華奢な背中に回っていた友雅の腕がそっと持ち上がる。 大きな手が泰明の細い腕、肩を優しく辿っていく。 そうして、その手は無防備に晒された首筋に辿り着き、そこで止まった。 触れられるままに泰明はただ、友雅を見上げる。 その花弁のような唇に友雅はもう一度口付けた。 華奢な首を覆うように触れていた手に、僅かに力を込める。 片手で掴めてしまうほど細い首を、ゆっくりと緩やかに締め付けていく。 「あ…っ…く……」 息が上手く出来ず、苦しげに眉を寄せながらも、泰明は抵抗しなかった。 しかし、ふいに、 「泰明」 低く名を呼ばれ、横たえられた身体が震える。 ただの記号のようなものに過ぎないと思っていた名前。 敵同士であるが故に、頑なに隠し続けていた名前。 それを初めて友雅に呼ばれ、身体が、心が震えた。 「泰明…それが……君の名前?」 「…友雅……」 囁くように問われ、泰明は苦しい息の下、ただ相手の名を呼ぶ。 「ようやく…君の名前を呼ぶことができた……」 「……とも…」 安堵したように響く言葉に何故か、涙が溢れた。 のけぞる白い喉。 徐々に弱まっていく命の拍動。 儚く震える華奢な身体。 散り乱れ、僅かに手指に絡み付く翠色の髪。 それら全てが艶かしく、感じられる。 「泰明…」 その姿に見惚れながら、友雅は愛しい名を呟いた。 「泰明…泰明……」 呪文を唱えるように繰り返し呼ばれる名。 見下ろしてくる碧い瞳の奥に、あの炎が見える。 しかし、泰明はもうその炎を恐ろしいとは感じなかった。 ただひたすらに愛おしく、優しい。 命を奪おうと息を塞ぐ手すら、泰明は優しいと感じる。 次第に朦朧としていく意識も夢の中を漂うように心地よい。 霞む意識の中、地に投げ出された手が傍らの剣の柄を握る。 折れていても、充分鋭い刃先をゆっくりと己に覆い被さる友雅の背中に向けた。 その動きに気付いた友雅は微笑む。 しかし、泰明を止めることはしない。 その細い首を締め付ける力を緩めることもしない。 ただ、透明な涙を零す目尻に口付ける。 互いの目が合い、ふたりは愛おしげに最期の口付けを交わし合った。 その向こうに広がるのは、甘美な闇。 …その只中へと…堕ちていく…… |
これで終わりじゃありませんので!! いや、強調しておかないと、勘違いされる方がいらっしゃるかなあと不安になって(汗)。 幾らなんでも「これがハッピーエンドよ♪」などとアホなことは言えません、殺されます。←誰に? 力が入り過ぎたためか、クライマックス部分が、ぱきんと二つに分かれてしまったという次第……(苦) 完結までもう少し掛かりそうです、すみません(汗)。 永泉の見せ場も次回に持ち越し!ごめんよ、永泉… …ともやすお二人さんにもこんな展開にしちゃってごめんねと言うべき? 甘々らぶらぶなともやすがお好きな方には謝った方がいいのかもしれません、すみません〜…(冷汗) お互い重要な地位になければ、愛の逃避行もありかもしれなかったのですが。 背負っているものを捨てられないのは、ん〜…「男の責任」って奴? かといって、これほど惹かれ合う恋を捨てることも出来ず、 追い詰められちゃったって感じですかね?(軽く言うな) ちなみに友雅氏の衝撃の台詞は、「終わりにしよう」でした。 しかし、彼のその後の行動の方が衝撃かも……(汗) 個人的には、この状況も充分らぶらぶだと思います、ただ不健康な方向に行ってるだけで(苦笑)。 だって、ちゅうしまくりだよ?(突っ込むのはそんなところではなく!) ああ…でも、不健康なところに行く自体、問題なのか…? 首締めシーン辺りは、そんな不健康な艶っぽさを出したかったのですが……どうざましょ?(汗) しかし、友雅氏ってば、やっすんの首を落とすことは出来なくても(当たり前じゃないさ!)、 首を締めることはOKみたいですね〜…病んでますなあ……(それはアンタ) 前へ 戻る 次へ