幻夢ノ蝶 12
「何故、お主がここにいる?」
「我が家の怪異を鎮めてくださった陰陽師殿の元に、礼に出向くことがそれ程可笑しいことか?」
言いながら出された茶を口に含むアクラムの不遜な様子に、雷牙は不機嫌に唇を歪める。
「そうではなく!この邸には、仕事の依頼を持った人間か、主が認めた者しか自由に出入り出来ぬよう結界が張られている筈じゃ!」
「ほう、依頼を携えている訳でもないのに、すんなりと出入りできた理由はそれか。光栄なことだ」
すなわち、この邸の主である泰明が、自分に気を許しているということ。
愉快そうなアクラムの言葉を否定出来ず、雷牙の不機嫌は増すばかりだ。
背後の木の幹に凭れ掛かりながら、凛々しい眉を盛大に顰め、腕を組む。
庭に面した廊下に、黒いスーツが皺になるのも気にせず、無造作に腰掛けたアクラムは、
視線を動かし、眩しいものを見るかのように、僅かに青い瞳を細めた。
常は、冷たさばかりを宿している青い瞳に、心なしか温かさが滲むようだ。
視線の先にいるのは、庭の中央に佇む泰明。
アクラムの視線の先を追った雷牙も、泰明を見詰める。
泰明は僅かに仰のくようにして、涼しい秋の風に華奢な細身を晒していた。
今日は、黒一色の装いに、淡い橙を基調とした地に、花と蝶が鮮やかに染め抜かれた着物を羽織っている。
柔らかく翻る袖裾と、桜色の肌、さらさらと流れる翡翠色の髪との対比が美しい。
こうして、常に傍近く居ても、見飽きることのない麗姿に見惚れつつ、雷牙は口を開く。
「お主の父はどうしておる?」
さり気なさを装った問いに、アクラムは僅かに唇の端を吊り上げた。
「相変わらずだ。仕事はこちらに任せ切りで、気侭に過ごしている。自分が怪異の一因であったことすら、覚えていない」
「…そうか」
「ただ…」
泰明から視線を外さずに、アクラムが言葉を継ぐ。
「いささか安心をした。あの父にも、人並みに悩むことがあったのかと」
「そんな言い方があるか」
雷牙は呆れて、アクラムを一瞥する。
が、皮肉気な言葉とは裏腹の何処か清々しい表情に、肩を竦め、視線を泰明へと戻した。
泰明は今回の仕事も、滞りなく成し遂げた。
しかし、ひとつだけ気掛かりが残るのだ。
「あの季史という男…」
思わず零れた雷牙の呟きを拾ったアクラムが、後を継ぐように言葉を紡ぐ。
「怨霊とそれを浄化する者…というだけの関係には見えなかったが…泰明殿の知り合いか?」
「そんな筈はない。もし、あの男が泰明の知り合いだとしたら、儂が知らぬ訳がない」
「泰明殿は何と?」
「知らないと…逢うのはあの一件が初めてだ、と言っていた。泰明が嘘を吐くことはない」
だが…
(本当にそうなのかどうかは分からない)
雷牙は声に出さずに、呟く。
当の泰明も、雷牙の問いに率直に応えながらも、何処か釈然としない様子だった。
例え、泰明自身が覚えていなくとも、ふたりは逢っていたのかもしれない。
何時か、何処かで……
雷牙とアクラムの視線に気付かぬまま、泰明は結界内で清浄に整えられた気に、体内の気を同調させていた。
一通り同調が完了して、集中を解いた泰明は、ふ、と長い睫に縁取られた瞼を開いた。
不意に、傍らに群れ咲く萩の花が目に入る。
誘われるように、この花が散り落ちる池の端で出逢ったひとの面影が脳裏に浮かんだ。
同時に、別れ際の音ならぬ囁きが、耳に蘇る。
そのとき、唇に何か触れたのだった。
桜の花弁のように淡く、蝶の翅のように軽い…
それは胸の奥深くにも、淡く、しかし、確かに触れた。
あれは何だったのだろう。
何処か、懐かしい……
『次はきっと…』
無意識のうちに、指先で己の唇に触れながら、耳に残る囁きを口にする。
逢いに行く…
しゃん!
不意に、来客を知らせる鈴が鳴り、泰明は我に返る。
羽織る着物から、一頭だけ蝶が舞い上がり、出迎えへと立つ。
「何だ、今日はいやに来客が多いな」
ひとりごちるように言いながら、雷牙がアクラムに向かって手で追い払うような仕種をするが、当のアクラムは一向に動こうとしない。
す、と青い瞳を細める。
アクラムの反応に、小さく舌打ちをした雷牙もまた、近付いてくる気配に目を眇めた。
ひらりと。
軽やかに翅を翻しながら、蝶が舞い戻ってくる。
やや遅れて、蝶に導かれた客人が姿を現す。
「あ…」
思わず小さく声を上げた泰明を認めて、そのひとは微笑んだ。
戸惑いを露にした泰明を身体ごと包み込むような、優しく、穏やかな笑み。
暗赤色の髪と蒼い瞳は変わらない。
ただ、その装いだけが違っていた。
青い着物ではなく、この世の若者が着るような青いシャツに、薄青のパンツを纏っている。
幻ではない、紛う事なき現し身で、季史は泰明の前に佇む。
そうして、ゆっくりと口を開いた。
「言った通り、こうして貴方に逢いに来た」
「…ああ、良く来た」
胸に吹き込む懐かしさに、泰明もまた、微笑んだ。
花のように。
ふたりの周りを蝶がゆっくりと舞い飛ぶ。
「…つまりはどういうことじゃ?あ奴はそもそも死霊ではなく、生霊だったということか?」
「…さてな。天狗殿でも分からないことを私が知る訳がないだろう。ただ一つはっきりしているのは……」
思わぬ事態に呆然とする雷牙の、口を突いて出た問いに、素っ気なく応えつつ、アクラムは立ち上がる。
「少々厄介な恋敵が現れたということだ」
「あっ!こら待て、儂も行くぞ!!」
泰明の元へと歩き出したアクラムを追って、我に返った雷牙も駆け出す。
光が靄のようにけぶる庭を、幻の蝶はひらひらと気儘に巡る。
やがて、淡い光に解けるように消えた。