月虹
薄暗いスタジオ内で、カメラのシャッターを切る音と、眩いフラッシュが焚かれる音が繰り返される。
ふと、カメラマンが被写体の青年に、恐る恐る、といった風情で話し掛けた。
「あの…すみませんが、視線をこっちに頂けますか?」
カメラマンがモデル相手に、ここまで下手に出るのも珍しい。
しかし、それも無理はなかった。
カメラマンの要請を受けて、青年の冷ややかな青い瞳がゆっくりと向けられる。
その眼光に怯えつつも、嬉しそうにカメラマンはシャッターを切った。
照明に青年の金の髪が、勿体無いほどに煌く。
背の高い均整の取れた身体。
端整な美貌は、優しげでありながら氷のように冷たく、刃物のような鋭さを秘めている。
その為、彼は世間に「氷の貴公子(プリンス)」と渾名され、もてはやされている。
しかし、彼自身は、実のところ、そんな安直な渾名も、モデルとしての仕事に対してさえも、さしたる興味はなかった。
今現在、彼の心を占めるのは、ただひとつである。
やがて、スタジオ内に新たなざわめきが沸き起こった。
感嘆と喜びの入り混じったざわめき。
誰かがスタジオに入ってきたようだが、仕事柄、容姿の優れた人間は見慣れているこの場のスタッフが、
これほど騒ぐとなれば、誰が入ってきたかは容易に想像が付く。
軽い靴音を響かせて、近付いてくる気配に、想像が確信に変わる。
その直後に、彼、アクラムの視界に、翡翠色の絹糸のような髪を長く垂らした青年のほっそりとした姿が目に入った。
「泰明君!」
カメラマンが嬉しそうな声を上げる。
(また、このような所にやってくるとは…)
苦々しい思いを噛むアクラムを他所に、泰明は周囲の様子を眺めながら、口を開く。
「すまない。まだ、撮影中だったか。邪魔をした」
「いやいや、邪魔だなんてとんでもない!せっかく来たんだ、撮影が終わるまで見学してってよ!!あと、出来ればさ…アクラム君と一緒に…」
「帰るぞ、泰明」
カメラマンの言葉を断ち切るように言葉を挟んだアクラムは、カメラの前から離れ、脇の椅子に掛けてあった上着を取る。
「しかし…」
「ええぇ?!もう少し待ってくださいよ!!あともう少しだけショットが欲しいんです!」
カメラマンの懇願には耳を貸さず、ざわめく周囲にも目をくれずに、
やや戸惑っている様子の泰明に大股で近付き、その細い二の腕を掴んで出口へ向かって歩き出す。
「あ、アクラム君〜!」
悲鳴のような声を上げるカメラマンを、アクラムは肩越しに一瞥して、冷たく言い放つ。
「もう充分過ぎるほど、撮っただろう。そこから誌面に採用するショットを選べば良い。
限られたもののなかから、良いものを選別するのもカメラマンの腕だろう」
「う…」
カメラマンが気圧されているうちに、アクラムは泰明を連れてスタジオを出て行った。
「アクラムさん、また、急にご機嫌斜めになっちゃいましたね」
「堤さん(カメラマン)が、泰明さんに興味を示すからですよ、絶対」
「だって…勿体無いじゃないか、あんな逸材を世に埋もれさせておくなんて…
威厳ある『氷の貴公子』アクラム君と、あの透明で浮世離れした…
妖精か天使のような美貌の泰明君を並べて撮ったら、奇跡のような作品が生まれるに違いないよ!!」
「堤さんの言うことも分かりますけどね〜、本当、見ているだけで溜め息が出てくるようなふたりですもん」
「でも、諦めた方がいいですよ、堤さん。アクラムさんは泰明さんをなるべく人目に晒したくないみたいですから」
「モデルの仕事をやっているのも、泰明君をこっちの業界に引き入れられないよう、自分を人身御供にして、
且つ、引き込もうとする堤さんみたいな人を牽制する為っぽい気がするよね」
「そ、そんなぁ〜」
情けない声を上げるカメラマンを笑いながらスタッフが宥める。
くすくす笑いながら、スタッフの一人である女性が締め括るように言った。
「まあ、どちらにしても…アクラムさんって独占欲が強いですよね」
その言葉にその場にいる皆が、深く頷いたのであった。
「何を怒っているのだ」
「怒ってなぞいない」
「その口調は怒っているではないか」
「怒っていない」
「怒っている」
「怒ってない」
「……」
「……」
歩きながら言葉を交わしていた泰明とアクラムは、途中で低次元な言い争いになっていることに気付き、沈黙する。
くすり、と小さく泰明が笑った。
その優しい響きに、アクラムは、何とはなしに気まずい気分になって、何時の間にか強く掴んでしまっていた泰明の腕を、静かに手放した。
屋内にいるうちに、外では雨が降ったようで、歩む道が濡れて、空気も水気の名残を孕んでいる。
しかし、空はすっかり晴れ渡って、雲のない夜空に浮かぶ月が清々しい光を周囲に注いでいた。
月の光を浴びて、更に美しい泰明を横目で見ながら、アクラムは口を開く。
「何故来た?」
「以前、お前は午前零時を過ぎたら、なるべくひとりで外出するなと言った。しかし、仕事が長引いてこのような時刻になってしまった。
このままひとりで帰るよりは、お前の仕事場に寄って、共に帰った方が良いかと思って訪ねたのだが…いけなかったろうか?」
無邪気に首を傾げる泰明に、アクラムは溜め息を吐きそうになる。
確かに、アクラムは泰明にそう言ったし、泰明の判断は間違ってはいないが…問題はそのようなことではないのだ。
こと、己に関することには、泰明は無防備過ぎる。
この自分の苦労も、内心の焦燥にも気付きもせずに…
(いい気なものだ)
溜め息を呑み込んだアクラムが内心で文句を言ったとき、
「あ…」
泰明が何かに気付いたように顔を上げた。
その視線を追うと、夜空に白い光の橋が掛かっていた。
「虹だ」
「…月虹か」
真夜中の虹。
人気の無い静かな街で、今、この珍しい現象を目にしているのは、ふたりだけのようだ。
「京では白虹は凶兆とされていたが…」
「これもまた、凶兆かも知れぬぞ」
泰明の呟きに、アクラムが嘲るような口調で言う。
分かっている。
己の苦労も焦燥も己自身の身勝手な思いであることを。
強過ぎる泰明への独占欲も。
そんな己が傍らにあること自体が、泰明にとっては凶兆だろう。
そう思ってのアクラムの言であったが、泰明は首を振って応えた。
「そんなことはない。ここは京ではない故、京の理は通用しない。そう認識した上で見れば、美しい光景だと思う。
何より、傍らにはお前がいる。ならば、むしろ、この虹は吉兆だ」
「……」
アクラムは青い目を瞠って、泰明を見詰めた。
己が傍らにあることが吉兆だ、と。
思わぬ言葉と共に、泰明の笑顔が心に染み入ってくるような気がした。
アクラムは一瞬泰明から目を逸らし、噛み締めるように呟く。
「…言うものだ」
「アクラム…?」
子猫のように首を傾げた泰明が覗き込んでくる。
その華奢な身体を、アクラムは引き寄せ、抱き締めた。
そうして、儚い虹が消えた後も、その存在を確かめるように、細い身体を抱き締め続けていた。