蝶 〜(たま)()れ〜

 

 夕陽が山の端を紅く染めていく。

 京の外れに見つけた小さな森。

 天真はそこへ一人足を踏み入れる。

 ここへ到る道筋でも擦れ違う人はまばらで、この森の中に到っては人の気配すらない。

 が、それも当たり前のこと。

 黄昏時は一日の中で最も異界への入口に接することの多い時間。

 そう考えている京の人間がこの時間に好んで外を出歩く筈もない。

 また、だからこそ天真はこの黄昏時を選んで外へ出たのだ。

 京の人々の迷信めいた考えを天真は信じない。

第一、京の人々から見れば自分だって異界の住人なのだ。

 今、目の前に異界の入口が現れたとしても、何を恐れる必要があるのか。

それは自分たちが元居た世界に通じる入口かもしれない。

 まあ、その入口を見つけたからとて、今はまだ戻れないのだが。

 木々の葉を染めながら差し込む光に一瞬目を細める。

 こうして、人がいない時間を見計らって外に出た理由はそれ程大したものではない。

 ただ、一人になりたかったのだ。

 頼久や詩紋、その他の八葉と一緒に居るのが嫌だという訳ではない。

 しかし、ときどき無性に一人になりたくなる。

 見付からない妹のことを考えるとき。

 最近特にその姿を目で追うようになった人物について考えるとき。

 こうしたときは親しい者の気配さえ煩わしくて仕方がなくなる。

 そんなときはいつもこの時間に誰にも行き先を告げず、ふらりと外に出る。

 気の向くままに見たことのない道を選んで歩き、この森に辿り着いた。

 青々と葉を茂らせた森の中は、もう既に薄い闇に包まれていた。

 重なり合う葉の合間を縫って差し込む陽光が、緑の下草をまだらに染める。

 そんなとき、ふいに傍らの大きな木の根元に座る人影に気付き、天真はぎくりと身体を強張らせる。

 こんなに近付くまで全く気付かなかった。

 その人物は人の気配を全く感じさせず、この森の空気に同化しているように見えた。

 僅かな風に翠の髪が儚く揺れる。

 この人物を天真は知っていた。

「泰明」

 複雑な気持でその名を呟く。

 しかし、目の前の相手は何の反応も示さない。

 訝しく思いながら、その顔を覗き込むと、その瞳は閉ざされていた。

 気には敏感な筈の泰明がこれだけ人を近付けながら、身じろぎさえしない。

 

眠っているのか。

 

 声に出さずに呟く。

「こんなところで寝てると風邪引くぞ」

 独り言のような口調で言いながら、手を伸ばせばその身体に届く位置まで近付く。

 それでも、泰明は目覚めない。

 こんなに無防備な彼の姿は初めて見る。

 もうすぐ陽も落ちる。

 あまり光の差さないこの森の中では一層冷えるのも早いだろう。

 このまま寝かせていては、本当に風邪を引いてしまう。

 すぐに泰明を起こした方が良い。

 しかし、天真は躊躇った。

 しばし、その美しい容貌を眺める。

 長い睫毛が白い頬に影を落としている。

 その頬は光の加減か、いつもより一層白く見えた。

 その瞳は薄い瞼の下に隠されている。

 翡翠と黄玉。

 左右色の違う瞳をその顔の半分を覆う呪いと共に気味が悪いと言う者が泰明の周りには多かったという。

 泰明自身も周りがそう言うのだから、自分の瞳は、いや、自分は気味が悪いのだろうと思い込んでいるようだ。

 しかし、天真はその瞳が嫌いではなかった。

 目の前にある物事を真っ直ぐに曇りなく見ようとする、その澄んだ瞳が。

 そこから窺える綺麗な心が。

 ただ、それらは澄んで、透明であるだけに容赦がない。

 そんな彼に見詰められると、自分の心の中まで見透かされそうな気がして、天真はときどき落ち着かなくなる。

 この目の前の相手が心に引っ掛かっているときは特に。

 これは参る。

 今、その瞳が閉ざされていることに天真は、軽く安堵する。

 今、ここで自分の心を占めている人物に正面きって出逢ってしまったら、いつも通りの自分を保てない。

 天真がそんな想いに捕らわれながら、その美貌を眺めている間も、泰明は目覚めない。

 呼吸をしているのかどうかも疑わしいほどの静けさで眠っている。

 

 眠っている……?

 

 呼吸を確かめようと天真が思わず泰明の顔へと手を伸ばしたそのとき。

 ひらりと何かが目の前を過ぎった。

 蝶だ。

 夕暮れ近い森の薄闇の中で、その蝶の鮮やかな色が映える。

 それはひらりひらりと目の前を、二人の間を舞う。

 舞いながら、やがて、眠る人の長い睫毛の先に留まった。

 泰明は目覚めない。

 蝶が再び舞い上がる。

 なよやかな羽ばたき。

 そうして、今度は淡く色付いた唇に留まった。

 そこで蝶は動かなくなった。

 それでも、泰明は目覚めない。

 蝶は淡い燐光を放っているかのように、薄闇の中に鮮やかに浮び上がる。

 泰明の顔も同じように白く浮び上がる。

 その顔は何処までも白く……

 白く………

 

 蝶が僅かに身じろいだ。

「…泰明……!」

 天真が思わず呼び掛けると同時に、蝶がふわりと舞い上がろうとする。

 それを捕まえようと手を伸ばす。

 その手を蝶はするりとすり抜け、森の奥深くの闇に溶け込むようにその姿を隠した。

 捕らえる物を逃した指が、さっきまでそれがあった場所に触れる。

 その唇に。

 

「何をしている」

 

 突然そこから発せられた声とその感触に、闇に消えた蝶を目で追っていた天真ははっとする。

 見下ろせば、色違いの瞳がはっきりと自分を捉えている。

 天真はその問いに応えられなかった。

半ば呆然としながら、蝶の消えた闇を再び見遣り、泰明へと視線を戻す。

 ゆっくりと身を起こしながら、泰明は澄んだ瞳で天真を見詰めたまま、僅かに首を傾げるような仕種をする。

「何を焦っている?

 常と変わらない淡々とした口調、その態度。

「……何でもねぇよ」

 言える訳がない。

 

 あの蝶が泰明の魂を奪っていきそうに見えたなどと。

 

「お前こそ何をしてたんだよ」

「……眠っていた」

 天真の問いに泰明は立ち上がってから応える。

 そんな泰明は何処までもいつも通りで、あんなに焦っていた自分が馬鹿らしくなってくる。

 こんなに動揺している自分に対して全く普段どおりの泰明に腹立たしくもなってきた。

 わざと乱暴な口調で言う。

「こんなところで寝て、風邪引いても知らねえぞ」

「風邪など引かない」

「ああ、そーかよ」

 天真は泰明に背を向ける。

 苛立たしげに髪を掻き揚げる。

「天真、お前は何をしていた?

 泰明が先程答えを得られなかった質問をもう一度繰り返す。

「別に。ただの散歩だ。全く一人になりたくて出てきたってのに……」

 苛立ちも露わに問いに答えた天真の背中を泰明は見詰める。

 ゆっくりと瞬きをする。一瞬間を置いてから柔らかく唇を開いた。

「……そうか」

 泰明に背を向けていながらも、その一瞬一瞬を目の端が捉えてしまう。

 そんな自分に天真は軽く舌打ちする。

 それを泰明はどう受け取ったのか。

 二人の間にしばし、沈黙が落ちる。

「邸へ戻る」

 唐突に泰明がその沈黙を破った。

 天真は苦い溜息を吐く。

「俺も戻るわ。これ以上ここに居ても無駄だし」

 そう言って泰明に背を向けたまま歩き出した。

 その天真のあとを泰明が付いていくような形になる。

 背中に確かに感じられる泰明の気配。

それに僅かに安堵している自分に気付く。

それから天真は先程の蝶に思いを馳せる。

 

一体なんだったんだ、あの蝶は。

 

 随分長い間泰明の唇に留まっていた、色鮮やかな蝶。

 何か、惹かれるものがあったのだろうか。

 例えば、花の蜜のような。

 

 殆ど無意識にその唇に触れた指を自らの唇に持っていく。

 そこにもちろん甘さはない。

 だが、僅かに温もりが残っているような気がする。

 柔らかな感触が甦る。

 

 

 胸が甘く疼いた。


ぬるい駄作ですな…… キャラ把握がまったくもってできていません。 まあ、私が書くパロディ作品なんてこんなもの。 こんなものを最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。 そして申し訳ございません(泣)。 仄かにてんやすムード漂うお話ですが、葉柳は特にこのカップリング推奨という訳ではありません。 ああ、でも泰受推奨です(逝け)。 葉柳最愛のやっすんは書きにくかろうがなんだろうが、登場は必須なのですが、天真は……八葉中一番書き易そうかな、と思ったのですよ。 失敗してますけど(苦笑)。 しかし、こんな駄作でも愉しく書けましたので、掲載してみました。 実はこれ、泰明サイドからの話も考えたのですが、本作以上にぬるくて分かりにくい話になりそうだったので、書くやめました。 万が一リクエストがあったらば書こうかな……いつか(なさそうですけど)。 ↑の様に言ってましたが、書いちゃいました泰明サイド。 御覧になります?→泰明サイドへ 目次へ