白花 〜風舞ウ〜
森の中、静かに佇む細い背中が、頼りなげに見えた。
「泰明殿」
そっと呼び掛けると、ゆっくりと振り返る。
「頼久」
肩に振り掛かる髪が、涼しげな音を立てて、背に流れ落ちる。
静かな声、静かな眼差し。
常と変わりないように見える仕種。
しかし、こちらを見詰める澄んだ色違いの瞳に宿る光は、戸惑うように揺れていた。
いつも顔に自ら施している呪いの痣も今はなく、白い美貌が陽に晒されていた。
「…どうなされたのですか?」
訊きながら歩み寄ったところで、頼久ははっと気付く。
泰明の纏う狩衣の袖が風に舞い、下から細い手首が覗いたのだ。
「大事無い」
頼久の視線に気付き、素っ気無く言って、泰明は手を袖の中に隠そうとする。
咄嗟にその細い指先を捉え、引き寄せると、白い肌に痛々しく紅い痕の残る手首が露わになった。
「この手首の痣は、どうなされたのですか?!一体何があったのです?」
「鬼の首領に会った」
傷められた手首に触れぬよう華奢な手を包み込みながら問うと、泰明は端的に答えた。
「鬼の首領に?」
では、この痣はあの鬼に付けられたものなのか。
自分が知らないところで、泰明が傷付けられたというのか。
表情を険しくする頼久に、泰明は淡々と言葉を継ぐ。
「これしきの痣、怪我のうちには入らない。鬼はさしたることもせず、すぐに去った。問題な…」
彼の常套句が発せられる手前で、頼久はその細い身体を強く抱き締めていた。
「頼久?」
「…申し訳ありません、泰明殿。いつも傍でお守りすると誓っていたのに、貴方にこのような傷を負わせて…」
ギリ、と頼久は音が出そうなほど歯を噛み締める。
そうして、搾り出すように言葉を継ぐ。
「貴方にこのような不安な顔をさせて……」
悔しさの滲む声音に、抱き締める腕の強さに、彼の想いが痛いほど感じられて、
泰明はふっと身体の力が抜けるのを感じた。
そっと広い背中に腕を回す。
頼久に抱き締められて安堵したのだろうか?
とすると、己は頼久の言うとおり、不安を覚えていたのだろうか?
判断が付かないうちに、ふと、言うつもりのなかった言葉が零れ落ちた。
「鬼の首領は、全てを滅ぼす、と言った。私も、私の愛する者も…」
「鬼が、泰明殿にそう言ったのですか?」
「そうだ。だが、鬼はそう言いながら、私に違う何かを求めているようだった」
「違う何か?それは一体…?」
抱き締める腕を緩め、気遣わしげに顔を覗き込んでくる頼久に、泰明は首を振った。
「私にも分からない。分からないのは、私がまだひととして不完全な所為かもしれない」
「そのようなことはありません」
泰明の言葉をきっぱりと否定して、頼久は考え深げな様子で言葉を続けた。
「恐らく、鬼の首領の真意は、あの者自身にしか分からない類のものだと思います。
しかし、あの者の目的ははっきりしている」
「そうだな。決して滅ぼさせはせぬ。京も、お前も…」
「私も決して、貴方を滅ぼさせたりはしません。貴方を守るために、今の私はある。
貴方を守るために、私は全てを守ってみせましょう」
「大仰なことを言う」
強い意志を紫の瞳に漲らせて宣言した頼久に、泰明は微笑む。
その澄んだ二色の瞳には、もう不安の色はない。
安堵と共に、微笑み返し、頼久は再び泰明を抱き締めた。
誓うように。
爽やかな風が寄り添うふたりを包むように、通り過ぎていった。