紅散ル華

 

 花の香り。

 いや、花にしては押し付けがましい甘さがない。

 仄かに甘く、清(すが)しい香り。

 闇の底を漂っていた意識が、ゆっくりと浮上していく。

 目を開くと、見慣れぬ部屋の薄暗い天井。

 そして…

「目が覚めたか」

 低いが、不思議に澄んだ声が話し掛けてくる。

 薄暗がりに仄かに輝くような姿が目に入る。

 取るに足りぬ羽虫のような存在よと、切り捨てようとしてできなかった、ただひとりの相手。

「…お前は…地の玄武」

 咄嗟に起こそうとした身体が、激しい苦痛を訴えて、心ならず再び身を横たえる羽目になる。

「まだ、動かぬ方が良い。ここは私の庵だ。

結界が張ってある故、お前を害そうとする輩も来ない。傷が癒えるまでゆっくりと休むが良い…アクラム」

 淡々とした口調で紡がれる言葉を耳にするうちに、アクラムは己の身に起こったことを思い出した。

 八葉を従えた龍神の神子との最後の戦い。

 己はそれに敗れたのだ。

 最後の抵抗とこの身を破壊の黒龍へと捧げた筈だったが、今ここに在るということは、抵抗にすらならなかったらしい。

 そうして気付けば、捕らわれの身だ。

 自嘲の笑みが零れる。

「…無様なものだ」

 地の玄武、泰明は応えず、白い手を伸ばしてくる。

 元より動かぬ身体に抵抗する気も失せ果てて、相手のするがままに任せていると、

泰明はアクラムの腕や、胴に巻かれている細長い布を解き、

傷口に当てている薬草を塗った布を新しいものと取り替え、再び新しい布で縛って固定した。

 黙々と手当てをする泰明が動く度に、ふわりと花のような香りが漂ってくる。

 覚醒時に感じたものと同じ香りだ。

 さすれば、この心地良い香りは、泰明が纏うものであったか。

 アクラムの身体に触れてくる細い指先の感触もまた、柔らかく、心地良い。

 欠片も色めいた気配の無い白い指の動きは、しかし蝶が舞うような滑らかさだった。

 今まで、敵同士として相対してきた。

 そんな相手がこれほど間近で、これほど優しく触れてくるという状況は、

アクラムにとって信じ難く、内心戸惑わずにはいられないものだった。

 しかし、相手が泰明でなければ、これほど当惑しなかったかもしれない。

 そんな己を苦々しく思っている間に、泰明は手当てを終え、す、と立ち上がる。

「何故、私を助けた?」

 そのまま部屋を辞そうとする泰明を、呼び止めるように、アクラムは問いを発する。

 泰明が立ち止まり、振り向く。

 艶やかな長い髪が細い肩から背中へ煌くように滑り落ちる様を、

目の端に映しながら、アクラムは冷たい声音で言を継ぐ。

「捕らえて見せしめにするつもりなら、無駄な手当などせず、今すぐ京の民の前に私を引きずり出せば良かろう。

何故、そうしない?」

 一瞬の沈黙。

 やがて、淡々として静かな応えが返った。

「元よりお前を見せしめにするつもりはない。決着はもう付いた。

鬼の一族は散り散りとなり…

また、お前自身も既に悟っていると思うが、一族の首領であるお前の鬼の力も此度の戦いで、殆ど削がれ、失われた。

最早、お前は我らの敵ではない。お前を助けたのは、お前が傷付いていたからだ。

そして、お前を助けることについては、神子…そして、帝も承知の上だ」

「何だと…」

「しかし、表向きはお前は死んだことになっている。

これからは、鬼ではない、人として新たな生を生きよ、との言葉をふたりからは承っている。

今まで、長く京の民が、お前たち鬼の一族を迫害し続けていたのは事実。

こうして、密かにお前を生かすことは、その罪滅ぼしでもあると…」

 泰明の言葉にアクラムは思わず嗤う。

嗤いながら、刃の危うさを秘めた青い瞳で、泰明を見据える。

「この私に生き恥を晒せと?それが罪滅ぼしだと?よく言ったものだ。

むしろ、この命を綺麗に絶ってくれる方が余程罪滅ぼしとなるというものを」

「…故に、お前に対するこの処遇は、鬼の一族に対する罪滅ぼしであると同時に、

京を危機に陥れたお前自身への罰にもなる」

「……」

「まずはその傷を癒せ。今後どうするかは、それから決めれば良い」

 そう言い残し、泰明は狩衣の袂と裾を蝶の羽ばたきのように軽く閃かせながら、部屋を辞していった。

 ひとり残されたアクラムは、再び乾いた嗤い声を立てる。

「…無様なものだ」

 

 

 それからも、泰明は幾度も傷の手当や食事の世話をしに、アクラムの元を訪れた。

 忙しい時もあるのだろう、泰明の代わりに式神が訪れることもあったが、日に一度は顔を見せる。

 だが、泰明が進んで口を開くことは少なく、与えられた義務のように、

淡々とした手付きでアクラムの世話をし、終えればすぐに去っていく。

 アクラムもまた、そんな泰明に話し掛けることなく、相手のするがままに任せていた。

 生きる目的を奪われた今、もう、己がどうなろうと知ったことではない。

ただ、己でさえそう思っているこの身に、泰明が己の時間を割いて接してくるのが落ち着かなかった。

素っ気無い仕種ではあるが、己に触れてくる泰明の手は、相変わらず優しく、心地良い。

 彼の優しさが、彼の存在が、質の悪い毒のように身体中を巡り、この身も心も縛られるような気がする。

 

 

 ある夜。

浅い眠りから目を覚ましたアクラムは、戸口に人の気配を感じ、顔だけを動かしてそちらの方を見遣る。

 灯りを点さぬ部屋の中は暗いが、連子窓の隙間から差し込む月光が、来訪者の姿を映し出していた。

「地の青龍か」

 アクラムはうっすらと微笑む。

「黒龍の神子を攫い、利用したことへの恨みを晴らす為に来たか。丁度良い。殺すのなら早く殺すがいい」

 地の青龍であり、黒龍の神子の兄でもある天真は、無言で部屋に踏み入ってくる。

 その腰に無造作に差されている太刀が抜かれる瞬間を、アクラムは身じろぎもせず、冷静に待った。

 しかし、天真は太刀を抜くことはなく、大股にアクラムの枕元まで来ると、そこにある灯台に、火を点した。

 橙色の灯りに、少年の精悍な顔立ちが照らされる。

 天真は立ったまま、横たわるアクラムを見下ろす。

 そうして、やっと口を開いた。

「何で俺が、あんたの為に、自分の手を汚さなきゃならない?」

 怪訝そうに眉を顰めるアクラムを見下ろす天真の表情には、苛立ちはあるが、怒りと憎しみはない。

「正直あんたに言いたいことは山ほどあるけどな。もう勝負は付いた。蘭も戻ってきた。

その上で、怪我をして動けないあんたに太刀を振り下ろすほど、俺は人でなしじゃあない」

 一旦、言葉を切った天真は、茶色い瞳を僅かに細めた。

「…それに、泰明があんたを助けたがっている。あいつの意思を無視したことをするつもりはねえよ」

「では、何の為に来た?」

「あんたが勘違いしないように、注意しに来ただけさ。

いいか、泰明があんたに親身になって接するのは、あんたの身の上に、以前の自分の姿を重ね合わせているからだ」

 京の民と違う外見、力を持つが為に、異形とされた鬼の一族と、

造られた命であるが為に、卓越した力を持ち、異形の扱いを受けた泰明。

「別にあんた自身に、泰明が特別な感情を持っている訳じゃない。それだけは勘違いするなよ」

 そこまで聞いて、アクラムは嗤った。

「なるほど、己だけの宝玉に不逞の輩が傷を付けぬよう、わざわざ釘を刺しに来たという訳か」

 アクラムは嘲弄の言葉を吐く。

「しかし、かつて敵として戦ったお前なら分かるだろう?私にそのような警告は、却って逆効果だと」

「…何」

 淡い灯りに照らされる少年の顔が、厳しく引き締まる。

「泰明に手を出したら、幾ら怪我人でもただじゃおかない」

「そう思うのなら、宝玉を誰にも触れられぬよう唐櫃の奥にでも仕舞って、鍵を掛けておくがいい」

 しかし、途中で、アクラムの傲慢な口調の裏側に潜む自嘲の響きに気付いたのか、

天真は表情を緩め、荒立ってしまった己の気を落ち着かせるように、溜め息をひとつ吐く。

「泰明は物じゃない。閉じ込めになんてできる訳が無いだろう。

それに、さっきも言ったが、俺は泰明の意思を無視したことはしたくない。

なるべくその意思に沿ってやりたいんだ。それに…」

「生きた宝玉は、無理に櫃に籠められたならば、その輝きを失う…か…」

 胸中を言い当てられた天真は、思わず目を瞠ってアクラムを見る。

「お前……」

 その視線から逃れるように、アクラムは眼差しを逸らす。

「安心をするといい。お前に言われずとも、余人の宝玉を奪うほどの力も気概も今の私は持ち合わせていない」

 この身は最早、意味のない生を生きて、ただ腐り果てるのを待つのみ。

 投げ出すようにそう言い放つアクラムの顔を天真は見詰める。

 アクラム自身でさえ捉え切れていない泰明への想いを見抜いたのだろうか、やがて天真はきっぱりと言った。

「お前の傷が癒えたら、俺は泰明を俺の元いた世界へ連れて行く」

 灯台の明るさが届かぬ褥の陰で、アクラムは僅かに目を瞠る。

 何処か挑むように宣言した天真は、身を翻して部屋を去っていく。

 ひとり残されたアクラムは、天井でちらちらと淡く揺れる灯台の火影を見詰めていた。

 その儚い光に思い起こされる面影に、アクラムの唇が嘲笑の形に歪む。

 自嘲の笑いだった。

 そうして、アクラムは嘲笑を浮かべたまま、目に映る面影から逃れるように、瞳を閉じた。

 しかし、瞼に焼き付いたそれは、目を閉じても離れることは無かった。

 

 

「どうした?傷が痛むか?」

 知らず、眉を顰めてしまったのだろう、粥の入った椀(まり)と、匙を手にした泰明が問い掛けてくる。

 僅かに華奢な首を傾げて訊いてくるその姿が、意外なほど幼い。

「…いや」

 首を振り掛けたアクラムは、思い直して口を開く。

「傷は大分癒え、こうして身を起こすことも出来るようになった。最早、食事に介添えは要らぬのではないか?」

 泰明は左右色の違う瞳を瞬かせて、アクラムを見る。

 眉を顰めたまま言うアクラムは、確かに褥の上に身を起こしている。

 それでも、まだ、傷に障るかもしれぬと、泰明は食事の介添えを続けていたのだが、アクラムの言葉を聞いて頷いた。

「分かった。お前が要らないというのなら」

 そんな言葉と共に差し出された椀を、アクラムは少し躊躇いながら受け取る。

 そのとき、微かに指が触れ合ったが、泰明は全く頓着しない。

 次いで、箸を差し出しながら、改まった様子で薄紅色の唇を開く。

「今後の身の振り方は定まったか?」

「…定まろう筈が無い」

 自嘲するようにそう応えると、泰明は僅かに困ったように柳眉を顰め、考え込む。

 まるで、己のことのように。

「…那智の山腹に、安倍氏縁の村がある。そこには鬼の一族の血を引いた者もいるのだ。

身の振り方が定まるまで、まずはそこで新しい暮らしを始めるのはどうか?」

「私をここから追い出すと?」

「いや、そのようなつもりで言ったのではない。

この庵にいるほうが落ち着くというのなら、好きなだけいてくれて構わぬ。ただ…」

「地の青龍のいた世界に行くそうだな?」

 唐突な問いに、泰明は大きな瞳を瞠る。

 何故、いきなり己のことについて問われるのか、分からないという様子が容易に見て取れる。

「天真に聞いたのだな。ああ、お前の傷も良くなったようだし、身の周りが片付いたら、すぐに出立するつもりだ」

 それでも、泰明はアクラムの言に頷き、素直に応えた。

 

 つい先日まで、敵であった男を前にして、呆れるほどの無防備さ。

 敵として、向かい合っていた時には、このような隙は、殆ど見せはしなかったのに。

 己は最早、泰明にとって警戒すべき敵ではないのだ。

 それでは、何だ?

 今の自分は、何になれるのだ?

 今の自分は、泰明にとっての何にもなれないか?

 今の自分は最早、ただ、ひとときの情けを受け、通り過ぎるだけの存在にしかなれないのか?

 

何気なく目を向けた泰明の細く白い首筋。

そこにポツリと小さく、紅い華が咲いていた。

きっちりと整えられた着物の襟の隙間から僅かに覗くその華から目が離せなくなる。

それを刻んだ者が誰なのかは考えずとも分かった。

 

それが刻まれた時、この清らかなまでに美しい泰明は、どのような表情をしていたのか。

痛みにその細い眉を顰めただろうか。

それとも、香る肌を紅に染め、恍惚の笑みをその花弁の唇に浮かべただろうか。

 

気付けば、泰明の細い手首を掴み、褥の上にその身体を強引に引き倒していた。

泰明が渡そうとしていた箸は取り落とされ、椀は床に転がり、僅かに残っていた中味の粥を床に撒き散らした。

そうして、全くの無防備でいた泰明は、瞬く間にアクラムに組み敷かれてしまう。

「何をする!」

 泰明は目を見開き、柳眉を逆立てて、きつくアクラムを睨み据える。

 不利な状況にも屈しない強く鋭い眼差しに、不思議な安堵を感じながら、アクラムは故意に嘲笑う。

「お前には紅い華が存外に似合うな」

 言いながら、片手で泰明の両手首を押さえ付けたまま、もう片方の手を胸元に置く。

重ねられた衣越しに、泰明の鼓動が伝わってくる。

「…?」

アクラムの真意を測るように泰明の瞳が訝しげに瞬く。

その間に、胸元のアクラムの手が滑るように移動し、泰明の細い首筋に辿り着く。

翠色の長い髪が、褥に床に乱れ散って、美しい紋様を描いていた。

その中に、ほっそりした身体を横たえる泰明の姿は、目を奪われるほど美しい。

一方でアクラムは、この部屋に近付いてくる足音を耳に聞いていた。

「…っ!」

ふと、アクラムの尖った爪が首筋の薄い肌をなぞり、泰明の瞳に警戒の色が走る。

次の瞬間、アクラムは泰明の白い首筋に噛み付くように口付けていた。

白い肌の紅い華が刻まれた場所に。

あの男が触れた同じ場所に、強く唇を押し当て、歯を立てる。

その華の紅が一層鮮やかに咲くように。

「つ…ぅ!」

 細い眉根をきつく顰めた泰明が、抵抗の為に、戒められた腕に力を込める前に、

アクラムの身体は、部屋に飛び込んできた天真に引き剥がされた。

「この野郎ッ…!!」

 アクラムの身体を引き剥がしながら、激昂した天真は拳を振り上げる。

 拳をまともに頬に受けたアクラムは、殴られた勢いのままに床に倒れ込んだ。

「…っ天真!」

 その胸倉を掴んで身を起こさせ、更に拳を振り上げようとする天真を、泰明の声が止める。

 相手は傷がまだ完全に癒えてはいない怪我人だ。

 我に返った天真がどうにか拳を下ろすと、胸倉を掴まれたままのアクラムが低く笑い出した。

「何が可笑しい?!」

 再び拳を握り掛ける天真を煽るように、アクラムは嘲笑を浮かべてみせる。

「どうした、地の青龍。目の前に、お前の掌中の玉を傷付け、穢した不届きな輩がいるのだぞ。

拳だけでは足りぬ筈。ならば、その腰の太刀を抜け」

 その言葉に天真が目を瞠る。

 噛まれた首筋を押さえながら、泰明はその美貌に困惑した表情を浮かべている。

「…さあ、その刃を私に振り下ろすが良い。私を…殺せ」

「そのようなことはできぬ!」

 思わずと言ったように、泰明が声を発する。

 その表情から困惑の色は拭われない。

 しかし、天真はアクラムの内の何かを読み取ったかのように、彼を見下ろして呟く。

「アクラム、お前…」

 そうして、苛立たしげに眉を顰めると、突き放すようにアクラムを放した。

 床に投げ出されたアクラムは、再び低く笑い出す。

 そんな彼に構わず背を向けた天真は、泰明に手を差し出す。

「行くぞ、泰明」

「しかし…」

 天真の手を借りて立ち上がりながら、泰明は気掛かりそうにアクラムを見る。

 今までと変わらない澄んだ眼差しで。

 それを感じながら、アクラムは、歪んだ嗤い声を吐き続ける。

「…今は、こいつを独りにしてやった方がいい」

 苦い響きを含んでいるが、きっぱりとした天真の言葉に、躊躇っていた泰明がようやく頷く。

 預けられた泰明の細い手をそのまま軽く握って、天真は泰明を部屋から連れ出す。

 戸口で泰明だけが振り返り、もう一度アクラムに気遣いの眼差しを向けてから去っていく。

 遠ざかるふたりの足音が聞こえなくなっても尚、アクラムは嗤い続けていた。

 やがて、独りの静寂に取り残されたアクラムは、中空を見据えながら、自嘲の笑みと共に呟いた。

 

「…無様なものだ」

 


天真×やっすん←アクラムな話になりました。
最初はコメディかギャグにならんかなと考えていたのですが、
京版の戦い終結後という設定にしたら、どシリアスになってしまいました…
アクラムって、生き残っても京じゃ暮らせそうにない感じです。
都から離れた村で暮らす…なんてのも、プライドが高過ぎてできそうにないし…
なんて考えていくと、どうしてもシリアスになってしまいます(苦笑)。
お詫び(?)にちょっとアダルトテイストを入れてみましたよ!(笑)
一応、この話の天真は、やっすんとラヴ状態なので、若干余裕があります(でも、ライバルに釘刺しはする/笑)。
この話のアクラムは、やっすんに自分の存在を強く意識してもらいたいが為に、
やっすんの優しさに心惹かれつつも、やっすんにとって警戒されない存在となることに抵抗を覚えている訳でして。
同時に、何をしたところで、やっすんの心を捉えることはできないということも分かっているのですね。
それならいっそ、殺されたほうが良いと願っても、その願いは叶えられないという…(哀)
なんて、フォローを入れないと成り立たない話を書くな、ということなのですが(苦笑)。
兎に角。
アクラムは片想いと孤独が似合う(すみません…)。というのが書きたかったのです。
もちろん、やっすんの美しさにも気合い入れましてよ!!(笑)

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