Blue 〜ray〜
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「有難う、泰明」
ふと、隣を歩く友雅が言った。
「何のことだ?」
不思議そうに首を傾げる泰明に、友雅は微笑んだ。
僅かに苦さの混じった笑みだった。
「これから私たちが訪ねる相手、鷹通と言う男だが、彼とは軍属の頃に知り合ったんだ」
その言葉だけで泰明は、友雅が言わんとするところを察したらしい。
どう言葉を返そうか、逡巡するように澄んだ瞳が揺れている。
しかし、結局泰明は何も言わなかった。
ただ、長い睫を伏せて傍らを歩む友雅の手をきゅっと握った。
滑らかで温かい泰明の華奢な手の感触に宥められ、友雅は先程よりも柔らかく笑むことができた。
「エデン」と呼ばれる特殊暗殺部隊に属していた軍属時代。
灰色の絶望に蝕まれながらひとを殺し続けていたあの頃に、快い思い出はない。
それは友雅にとって、あまり触れたくない過去だった。
しかし、絶望を振り払い、新たに抱きなおした夢を叶える鍵がその過去にあるのならば、迷いなく踏み入るつもりだった。
そのつもりだったのだが…やはり、長く目を逸らし続けてきた過去に触れるには、勇気がいる。
だから、友雅は泰明に同行を頼んだのだ。
自分を変えてくれた希望そのものである泰明に。
彼が自分の傍にあれば、希望を見失わずに済む。
絶望しないでいられる。
友雅は知らず、泰明の手を強く握り返していた。
それに、泰明はふわりと伏せていた目を上げ、やや照れたような笑みを見せた。
「大丈夫だ」
その無垢な微笑みが愛しい。
「…そうだね」
頷いて友雅は、柔らかな線を描く目尻に掠めるような口付けを落とした。
鷹通は自宅の書斎で頭を抱えていた。
明後日に控えた取材の下準備をしなければと頭の片隅では思うものの、やる気が全く起こらない。
大きな溜め息を吐いて顔を上げたとき、扉がノックされた。
「入れ」
応えると、古めかしいデザインの木製扉が開かれ、屋敷執事が入ってくる。
「失礼致します、旦那様。お客様がお見えになっておられますが…」
戸口で立ち止まり一礼して要件を告げる執事に、鷹通は椅子に腰を下ろしたまま、怪訝そうな顔をする。
「客?名は伺ったのか?」
「はい。しかし、仰っていただけませんでした。ただ、五年前の薄野焼失を覚えているか、と。
そうお伝えすれば、旦那様はお分かりになる筈だと…」
「薄野…?」
「いかが致しましょうか?」
不可解な伝言に鷹通は眉根を寄せて、暫し思案を巡らせる。
「……っ!!」
突如、ガタンと大きな音を立てて、椅子から立ち上がった鷹通に、執事は驚く。
「た、鷹通様?」
「いや…騒がせてすまない。分かった。そのお客様をお通しするように。そうだな…この書斎にお通ししてくれ」
「畏まりました」
執事が客の出迎えの為に下がっていく。
鷹通は再び、書斎の椅子に腰を下ろした。
「何故、五年も経った今になって、あのひとが……?」
五年前の薄野焼失。
それはすなわち、五年前の穂波(ホナミ)子爵一家暗殺事件のことを指す。
当時、穂波子爵は軍体制に異議を唱える革新派の筆頭だった。
その彼が一家諸共、この情報都市で何者かに暗殺された。
鷹通はそのとき、飛び級で進学した大学を卒業して間もない見習い記者だったが、
何としてでも犯人を突き止めたいと動き回ったのだった。
当時の子爵の立場と社会状況を考えれば、調べるまでもなく軍部が怪しいのは分かっていた。
今よりもずっと若く、幼くもあった鷹通は、先輩記者の忠告を聞かず、
危険をも顧みないで、直接軍関係者にコンタクトを取った。
そのとき、鷹通の取材の相手をしてくれたのが、彼だった。
とても軍人とは思えない、上流階級出身のような気品ある物腰、物言いをしていた。
しかし、優雅な微笑とは裏腹に、彼の碧い瞳には、言いようのない昏い翳りがあったように思う。
あの昏い瞳は今でも鷹通の印象に残っている。
結局彼に上手くはぐらかされ、鷹通の取材は失敗に終わったが、今思えば、
もし、取材を受けてくれたのが彼ではなかったら、自分はあのとき、軍に消されていたかもしれない。
同時に、穂波子爵一家を暗殺したのは、彼であったのだろうと鷹通は確信していた。
風の噂で、あの後間もなく、彼は退役したと聞いたのだが……
彼…橘少尉。
フルネームは確か橘友雅だったか。
当時のことを思い返しつつ、鷹通が外していた眼鏡を掛け直したとき、再び扉が叩かれた。
「入れ」
応えて、鷹通は立ち上がり、書斎中央の大卓へと移動した。
「お客様をお連れしました」
扉を開いた執事が、客人を部屋のうちへと招き入れる。
緊張の為に僅かに硬い表情で客人を迎えた鷹通は、執事の背後から現れた客の姿に目を瞬く。
名乗らぬ客人の正体は予想通りだった。
あれから五年経ったが、その秀麗な顔立ちも品のある佇まいも全く変わっていない。
しかし、あの頃と印象が全く違う。
おかしな話だが、あの頃よりも若々しくなったような気さえする。
その相手が鷹通へ向かって微笑んだ。
「いきなり訪ねてしまってすまないね。久しぶりだ、鷹通」
「…お久し振りです、ようこそ、友雅殿。しかし、正直、あなたの来訪には驚いていますよ」
心得た執事が侍女に茶の準備を言い付けるためにその場を下がっていく。
どうぞ、と座るように促すと、友雅が戸口からこちらに近付いてくる。
そのとき、友雅の背後に隠れていたもうひとりの客人の姿が、やっと鷹通の目に入った。
美しいひとだった。
鷹通の視線に気付いたそのひとが静かに目だけで会釈をする。
友雅がそのひとの細い肩を抱いて、鷹通に向かい合わせた。
「私の連れを紹介するよ」
「安倍泰明だ」
そう自ら名乗ったそのひとの肩先で、綺麗な翡翠色の髪がさらりと流れた。
こちらを真っ直ぐに見据える翡翠と黄玉の不思議な瞳。
「初めまして、泰明殿。藤原鷹通です」
目の前のひとに半ば見惚れながら、挨拶を交わした鷹通は、友雅の印象が変わった理由が分かったような気がした。
それを証明するかのように柔らかく微笑んだ友雅が、言葉を添える。
「私の大切なひとだよ」
このひとはここまで優しく微笑むことができるひとだったのか。
内心驚きながらも、鷹通は微笑み返す。
「…そうですか。それでは丁重にお迎えしなければなりませんね」
「私はただの付き添いだ。あまり気にしないで欲しい」
鷹通の言葉をどう受け取ったものか、妙な気遣いを見せる泰明に、鷹通は穏やかに首を振る。
「そういう訳には参りません。あなたも友雅殿と同様に、私がお迎えした客人ですから」
そうして、改めて席を勧め、友雅と泰明が大卓を囲む椅子に座った後、彼らと向かい合うようにして腰を下ろす。
侍女が茶を運んでくる。
ポットからカップに茶を注ごうとする侍女を、鷹通が穏やかに止める。
「有難う。後は私がやるから、あなたは下がっていなさい」
「畏まりました」
優秀な侍女は下手な詮索をせずに、主人に言われるまま部屋を下がり、立ち上がった鷹通が茶を淹れる。
「屋敷の主人自らが茶を淹れてくれるとは有難いね」
「恐れ入ります。このような格好で宜しければ、突然の来訪のご用件をお伺いしますが…」
「…いや、止めておこう。火傷をしてしまうかもしれないからね」
「……そうまで仰るからには重大な用件なのですね」
軍人とジャーナリストという立場上、それほど親しい間柄でもなかった友雅がわざわざ訪ねてきたのである。
生半可な用件ではないだろうと覚悟していた鷹通だったが、
「長い前置きは省こう。私は現在の軍事政権を妥当する為、同志を募り、レジスタンスを結成した。
ついては是非、君にもその一員に加わってもらいたい」
どうか、と内容にそぐわないゆったりした口調で友雅に問われて、絶句した。
告げられた言葉の内容を理解するに連れて、鷹通の表情は強張っていく。
「………なんと無謀な…」
ようやくそう言った鷹通に、友雅は苦笑めいた笑みを向ける。
「今、仲間になってくれている男にも言われたよ。だが、私は不可能ではないと思っている」
言って、唇に浮かべた笑みを少々の悪戯っぽさを含めたものに変化させる。
「それに…無謀と言うなら、君も負けていないだろう?
あのときの君の無謀さと強い正義感には、感心すらしたよ。もう…五年前になるか」
今度苦笑するのは鷹通の番だった。
「…幼かったのですよ。学校を出たばかりで世間も知らず、こんな自分でも何か出来るに違いないと信じていられた。
だからこそ、あのような無謀なことができたのです」
「今はとてもそんな無謀なことはできない?」
「…………」
「私は無理強いをするつもりはないんだ。こんな無謀なことには手を貸せないと思うのなら、断ってくれてもいい。
私たちとしても、それ相応の志と覚悟がある者を仲間として迎えたいしね。
真実を突き止めるために、ひとりで軍に乗り込めるほどの正義感を持った君なら、
心強い仲間になりうると期待してここまでやってきたのだが…」
友雅の物言いには押し付けがましいところは微塵もなかった。
むしろ、何処までも穏やかなほどだったが、鷹通の心は大いに揺り動かされていた。
頭の中で、軍に関する記事はご法度だと言った編集長の声がした。
過ぎた正義感は命取りだと言う同僚の声も。
そして、現在自分が置かれている状況を改めて思い出す。
鷹通は情けない気分で目を伏せ、友雅から僅かに視線を逸らした。
「…そこまで、あなたが私のことを評価してくださっていたことを嬉しく思います。
できるならば、私もあなた方と共に闘いたい。しかし…今の私には何の力もありません。
それほど武器の扱いに長けているわけでもない。
唯一、力を振るえると信じていたジャーナリストとしての立場も今、私は失いつつあるのです。
レジスタンスに加わったとて、大したお力にはなれないでしょう。この情報都市にあってさえ、軍の干渉は避けられない…」
こみ上げてくる何かに一瞬胸を塞がれて、鷹通は言葉を途切れさせる。
「軍部の影がある不審な事件は黙殺され、軍部から提供された情報のみが流れる…それが現在の情報機関の現状です。
軍に対する疑問を投げ掛けようものなら、真っ先に排除される…そこには真実も正義もない」
気付けば、今まで溜めてきた不満を吐き出していた。
「…私も政治部から異動させられ、今は、社交界担当です。
明後日に控えた御門がお忍びでいらっしゃると噂の仮面舞踏会の取材が最も大きな仕事ですよ」
皮肉気に言葉を締めくくると、鷹通は自嘲気味の笑みを見せた。
「鷹通…」
友雅が何か言い掛けたとき、隣でおとなしく、
だが、真剣にふたりの会話に聞き入っていた泰明が、ふと華奢な首を傾げた。
彼の正面に座っていた鷹通が先にそれに気付く。
「どうしましたか、泰明殿?」
穏やかに訊ねると、
「あ、すまない」
泰明は話の途中を邪魔してしまったことを詫びた。
しかし、鷹通も友雅もそんなことは気にしていなかった。
「謝られることはありません」
「何か、気になることでもあるのかい?」
ふたりに穏やかに話し掛けられ、泰明はまだ少し戸惑いながらも、自らの疑問を口にした。
「…私はあまりこの国のことを知らぬゆえ、当たり前のことが分からないのだ。ミカドとは何だ?」
「ああ…そうか。そう言えば、きちんと話したことはなかったね」
友雅はさもありなんといった様子で頷いている。
恐らく泰明は、長い間外国で暮らしていたか何かして、この国に来たばかりなのだろう。
そう判断した鷹通は、説明の為に口を開く。
「御門というのは、半世紀近く前まで、この国の政治、軍事の実権を握り、国を動かし支えていた一族の末裔を指すのです。
現在は全ての実権を軍に奪われ、名ばかりの存在になっていますが…今でも彼らを敬い、慕っている国民もいるのですよ」
だからこそ、御門とその一族に連なる上流階級は、生き残ることを許されたのだ。
鷹通の話に分かった、と頷いた泰明は、しかし、再び首を傾げた。
「…では、本来この国を治めるのは軍ではなく、御門だったということか?」
泰明の何気ない問いに、鷹通ははっと息を呑む。
「そうか…では……」
呟きながら暫し考え込む。
そうして、顔を上げた鷹通の眼鏡越しから窺える薄茶色の瞳には、先ほどまではなかった光があった。
「友雅殿、ご提案があります」
「何だろうね」
「現実的に考えて、レジスタンスが軍に対抗しうる為には、今よりももっと同志を募る必要がありますね?」
「ああ、そうだね」
「多くの同志を集め、また、集めた同志を纏める為には、強い志と覚悟の他に、旗印となるべきものも必要かと思います。
…御門にその旗印になっていただくのはいかがでしょうか?」
「流石本家本元だね。君は私には思いも寄らない無謀なことを思いつく…でも、そうだね、いい考えだと思うよ」
「では、友雅殿」
僅かに語気を強めて、鷹通は友雅を見詰めた。
「明後日の仮面舞踏会の席で、私が何とかして御門との面談の場を作ります。
そこで、レジスタンスの旗印を御門とすることの承諾を御門御本人から得てください」
「私が?」
「そう、あなたが、です。私は目的を達成できないレジスタンスに加わるつもりはありません。
ですから、この御門との面談でレジスタンスのリーダーである友雅殿のお力を見極めさせていただきたいのです。
そこで私の納得のいく成果が得られたならば、私にも決心が付く。
そのときに、正式にレジスタンスの一員に加わりたいと思います」
「…やれやれ、随分と危険な賭けだ」
「ええ。しかし、そうであるからこそ、意味がある。あなたたちにも、そして私自身にも」
「なるほどね」
「…友雅」
隣から、泰明が心配そうな声を掛けてくる。
見詰めてくる澄んだ色違いの瞳に微笑み、
「大丈夫だよ。私には希望の女神が付いているからね」
と、宥めるように流れる翡翠色の髪ごと泰明の細い背中を撫で、友雅は真剣な眼差しを注ぐ鷹通を真っ直ぐ見返した。
「その賭け、お受けしよう」
お、珍しく予定通りに話が進んでますよ、やった!(今のところはね/笑) そんな訳で、鷹通、姫とご対面です♪(違) しかし、友雅氏ってば、実のところ、やっすんを鷹通に見せびらかす為に、 連れて行ったんじゃないの?と突っ込みたくなるご対面場面(笑)。 ま、今回のメインはほぼ、友雅氏と鷹通の会話なんですが(笑)、 それでも密かに(?)やっすんはキーパーソン振りを発揮してるのです! そして、冒頭にちょっぴり、ともやすいちゃくらシーンを入れてみました、オアシスとして(笑)。 さて、鷹通の提案により、友雅氏は御門と面談し、協力を要請することになりました。 仮面舞踏会に潜入ですよ!あれとかそれとかやりますよ!!(意味不明) しかし、次回はフェイントで(笑)、鷹通とやっすんの親交が深まるたかやすっぽいお話になる予定。 やっすんマドンナ状態の為には避けては通れない道なのですよ…わくわく♪(?) top back