Blue 〜knot〜
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最初は、目の前で見たものが、とても信じられなかった。
しかし、自分が妹の…蘭の顔を見間違えることなどある筈が無い。
思えば、レジスタンスに加わったのは、妹を探す為だった。
その目的がこんなに早く実現されようとは夢にも思わなかった。
だが…
蘭の後を追って、アパートの階段を昇りつつ、天真は強く眉根を寄せる。
先程垣間見た、蘭の生気の無い無表情が気に掛かる。
今日の会議を聞いていて、ふと思い出したことがあった。
そう言えば、蘭もちょっとした特殊能力を持っていた。
大した能力ではない。
近いうちに起こるちょっとした出来事を予知したり、失くした物を見付けたり…そんな勘が良いと評される程度の能力であったけれど…
その能力の所為で、蘭は軍に目を付けられてしまったのだろうか。
そしてやはり、軍で何らかの洗脳教育を施されたのか…
そこまで考えて、天真は、はっと顔を上げる。
ならば、今、蘭は何をしに、このアパートに入った?
このアパートには瀬里沢がいる。
瀬里沢は軍に批判的なジャーナリストだ。
そこまで思い至った天真は、急いで階段を駆け上がった。
そのとき。
鋭い銃声がすぐ近くで鳴った。
音が聞こえた部屋の扉が半開きになっている。
その扉に体当たりするようにして、天真は部屋の中に飛び込んだ。
と、目の前に長い黒髪を垂らした細い背中があった。
「蘭!」
天真が大声で呼び掛けると、髪を揺らしながら、その背中が振り返る。
間違いない、妹だ。
確信した天真は、同時に蘭の向こう側に、瀬里沢が倒れているのを見た。
そして、硝煙立ち上る銃口が、自分に向けられているのを。
「…ッ!」
息を呑んで、咄嗟に己の銃を構えるが、撃てる訳が無い。
天真は切れそうなほど強く己の唇を噛んだ。
「蘭!!」
必死に呼び掛けるが、天真を見据える蘭の瞳には何の変化もなかった。
ただ、銃を持つには不似合いな華奢な指が、躊躇いなくその引き金に掛けられる。
アパート内にふたつ目の銃声が響き渡った。
泰明がここを去ってから、どれくらいの時間が経ったのか。
息を潜めて待ち続ける時間は、長く感じられて辛い。
詩紋は、不安に満ちた表情を隠せぬまま、腕の中で、辛うじて呼吸を繰り返す店主を覗き込む。
「おじさん…」
呟くと、意識がないと思っていた店主の閉じていた瞼がピクリと動く。
「…詩紋……」
僅かに開かれた目が詩紋を見上げ、掠れて震える声が名を呼んだ。
半分朦朧としながらも、まだ、言葉を紡ごうとする店主を、詩紋は泣きそうな顔で止める。
「おじさん、今は、無理して話したら駄目だよ!」
だが、詩紋の言葉に店主は僅かに首を振ってみせる。
「…大丈夫だよ…お前のお蔭で、傷はそれほど痛まないんだ……だけど…すまな…かったね……お前にこんな、迷惑を掛けて……」
「迷惑だなんてそんな…!」
弱々しく言葉を紡ぐ店主に、詩紋は泣きそうな顔を更に歪める。
「迷惑を掛けたのは僕の方です!…僕の所為でこんな怪我をして……でも…僕みたいな余所者を庇わなければ…
こんな酷い目に遭わずに済んだかもしれないのに……おじさんは軍の言うとおり、僕を軍に引き渡せば良かったんです。
僕はそれで良かったのに…」
「…なぁに……おじさんは、お前の為に、軍に逆らったんじゃないよ……
ただ、おじさんが…お前ともう少し一緒にいたかったから、そうしたのさ……」
「おじさん…」
「…詩紋……お前は本当に優しい…良い子だよ……これからもどうかそのままで…
そして、人にそうするように…自分にも優しくしておやり…その能力も……」
掠れた声で紡がれる言葉が、不意に途切れる。
店主の瞳が閉じられ、支える身体の重みが増した。
「っ?!おじさん!おじさん!!」
瞳から溢れだす涙もそのままに、詩紋は店主に必死に呼び掛ける。
微かに支えた身体を揺らしても、反応はない。
「――――ッ!!」
恐ろしい予感に、詩紋が息を詰まらせたそのとき。
路地の入口に人の気配を感じ、詩紋は、はっと振り返った。
天真の端末が発する信号は、通りの向こうに見えるアパートの中で止まっていた。
アパートの入口に面する通りは、人気がなく静まり返っていた。
まるで、何も事件など起きなかったかのような様子だが、この静寂が却って、不穏な空気を伝えてくる。
やはり、あのアパートで何かが起きたのだ。
このアパートが、今の瀬里沢の住居だとするならば、天真だけではなく、瀬里沢の身にも何かが起きている可能性がある。
或いは、瀬里沢に起こった事件に、天真が巻き込まれたのかもしれないが。
どちらにしろ、現状把握をしないことには、対処の仕様がない。
狭い路地に身を隠しながら、泰明は周囲を窺う。
一歩を踏み出そうとして、ふと背後に感じた人の気配に動きを止める。
「…っ」
幾ら、前方に注意を向けていたとはいえ、ここまで人を近付けてその気配に気付かぬとは…
己の失態に、舌打ちしたいのを堪え、泰明は振り向きざま銃を構えようとする。
しかし、こちらの動きを見切ったかのように、銃を抜き出そうとしたその手を捉えられた。
「…!」
次いで、反射的に、反撃に出ようとした身体を、背後から抱き締められる。
身を固くした泰明の耳元で、聞き慣れた甘い声が囁くように名を呼んだ。
「…泰明」
瞬間、張り詰めた気が緩んで、泰明は思わず、背中に当たる相手の胸に全体重を預けてしまう。
「友雅か…」
何のことはない、気配に気付かなかったのは、己にとって慣れた、危険のない相手であったからだ。
「大声で名を呼ぶのは憚られる状況だったからね、そっと近付いたのだけれど…却って驚かせてしまったかな」
泰明の細い身体を、しっかりと抱き留めて、友雅は宥めるように、泰明の額に掛かる前髪を梳く。
「問題ない。友雅だと気付かなかった私の失態だ」
首を振り、己を落ち着かせる為に、ひとつ息を吐いた泰明は、あることを思い出して、友雅の腕の中でくるりと身を翻す。
「詩紋の様子は?店主の容態はどうだった?」
真剣な眼差しで問う泰明に、友雅は軽く目を瞠り、次いで苦笑する。
「やれやれ、早速、出会ったばかりの人の心配とはね…君らしいよ」
そう冗談めいた口調でぼやいてすぐに、友雅は笑みを消し、表情を引き締めて言葉を継いだ。
「件の少年の元へは、頼久が向かっている。今頃は現場に辿り着いて、怪我人にも適切な処置をしているだろう。
私は現場に向かう途中で別れて、こちらに来たんだ。君の方にも応援が必要かと思ってね」
「…そうか」
「余計な真似だったかな?」
言われて、泰明は首を振る。
「いや、確かに人手があれば、助かる。有難う、友雅」
「姫君の為とあらば、お安い御用さ。さて…今はどんな状況だい?」
身を潜めているのが狭い路地ゆえに、友雅に抱かれたままとなっている泰明だったが、頓着せずに静かに言葉を紡ぐ。
「私が辿り着いてからは、目に見える騒ぎはない。だが…」
そのとき、泰明の言葉を遮るように、アパートから銃声が響いた。
「事件発生だ」
泰明の細い身体を抱き締めていた腕を解きながら、友雅が呟き、泰明は澄んだ色違いの瞳に鋭い光を閃かせて、可憐な唇を引き結ぶ。
一瞬後、ふたりは弾かれるように路地から飛び出した。
アパートの階段を駆け上がる最中、今上っているのとは違う階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。
恐らく、このアパートの外壁に取り付けてある非常階段だ。
足音はふたり分。
背が高いだろう男のものと、男にしては軽いもの。
「泰明!」
瞬間、身を翻した泰明に友雅が呼び掛けると、泰明は翡翠色の髪を翻して、振り返る。
「私は今の足音を追う。そのひとつは恐らく天真だ。友雅は上の様子を確かめてくれ!」
「…分かった。気を付けて」
友雅の言葉に軽く頷いた泰明の細い身体は、瞬く間に階段の踊場の蔭に消えた。
そのまま階段を駆け上がった友雅は、廊下に沿って並ぶ部屋のうち、扉が開いたままになっている部屋に駆け寄る。
「!」
部屋の前に血痕が残っている。
小さいが幾つもある血痕は、部屋の中から廊下の突き当たりにある非常口の扉まで続いていた。
友雅は秀麗な眉を顰め、部屋の中を窺う。
静かだ。
人の気配すらない。
それでも、充分に注意を払いつつ、部屋に足を踏み入れると、足元に携帯端末が落ちていた。
天真のものだ。
次いで、部屋の奥に、倒れている人影が目に入った。
その周囲にゆっくりと拡がっていく鮮やかな紅。
急いで駆け寄り、うつ伏せに倒れている人物を抱き起こす。
瀬里沢だった。
予想していた通り、急所を銃で撃たれ、既に事切れていた。
友雅は重い溜め息を吐いて、その身体を静かに横たえ、僅かに開いたままになっていた瞳を閉じさせる。
ほんの一時ではあるが、黙祷を捧げてから立ち上がり、部屋の中を一通り見て回る。
荒らされた形跡はない。
もともと、荒らされるほどの物がない部屋だ。
念の為、瀬里沢が纏う衣服のポケットなども探ってみるが、何も得られなかった。
最後に、天真の携帯端末を拾って、友雅は部屋を後にする。
あとは、残る血痕を手掛かりに、天真、そして、泰明の後を追った。
迷路のように入り組んだ路地を、足音と道の所々を僅かに染める血の跡を頼りに駆け抜けていた泰明は、
ほどなく、路地の途中で立ち尽くす天真の姿を見付ける。
まずは、天真がしっかりと自分の足で立っていることに、泰明は安堵の息を吐いた。
「天真」
呼び掛けながら、歩み寄っていく。
天真は呼び掛けに振り向くことなく、ただ前方を見据えている。
泰明がその背後で一度足を止めると、天真は背中を向けたまま、ふいに言葉を発した。
「瀬里沢が撃たれた」
「…そうか」
その事実は予想していたので、泰明は静かに頷いた。
「…すぐに、犯人を追ったんだが、ここで見失った…悪い」
「謝ることはない」
不自然なほど淡々とした天真の口調を訝しく思いながらも、泰明は首を振る。
そのとき、天真の腕の傷が目に入った。
やはり、あの血痕は、天真のものであったのか。
それほど深い傷ではないが、天真は傷口を覆うこともせず、ただ、流れ出る血が腕を伝うがままにさせていた。
指先から零れ落ちる紅い雫が、満足に舗装されていない道に、ゆっくりと沁み込んでいく。
「天真、血止めを…」
僅かに柳眉を顰めて、泰明は天真の傍らまで歩み寄り、腕を伸ばす。
その手首を、天真が傷付いた腕で掴んだ。
驚く間もなく、引き寄せられ、気付けば、泰明は天真の腕の中にいた。
「天真…?」
「…悪い、ちょっとだけ、このままでいさせてくれ…」
戸惑う泰明の耳元に呟いて、天真は強く泰明の華奢な身体を抱き締める。
淡く香る白い首筋に顔を埋めるようにして、天真は呻くように言葉を継いだ。
「……犯人は…蘭だった…」
「何…?」
「瀬里沢を撃ったのは、蘭だ。ずっと探していた俺の妹だ…間違いない」
「…!」
「けど…あいつは、俺を見ても顔色ひとつ変えなかった……」
「…天真…」
「あれじゃ、まるで人形だ………軍だ。軍があいつを、どんな非情な命令でも実行する殺人人形にしたんだ…
ちくしょう、軍の奴ら、勝手に蘭を攫って、あんな風に……ちくしょうッ…ちくしょう…ッ!!」
まるで血を吐くかのように悲痛な声音で、天真は無念と怒りの言葉を喉の奥から搾り出す。
「天真……」
泰明は何の慰めや励ましも言えぬまま、ただ名を呼んで、しがみ付くかのように抱き締めてくる天真の腕に身を任せるしかなかった。
急展開続き。こんなことになってしまいました…(汗) 前回から、一話の中で視点をころころ変えてしまっているので、読みにくくなかったかしら…とちょっと不安です。 緊迫感を出したくて、敢えてそうしたのですが、成功しているかどうか微妙…?(汗) 悪いこと続きの展開の中、今回は一服の清涼剤として「ともやすちょこっとらぶ」(何)を入れてみました♪ 瞬く間ですけど(苦笑)。 天真も、姫を思い切り抱き締めちゃって、まあまあ役得か? 本人にはその状況を喜ぶ余裕が全くないですけど(更に苦笑)。 書いてる私にとっては、凛々しい姫の行動も、一服の清涼剤です♪(笑) 次回、章最終話です。頑張ります(色々と…)。 top back