Blue 〜innocence

 

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 やがて、泰明とイノリは古びた石造りのアパートに辿り着いた。

 階を上がり、雑然とした廊下に沿って並ぶ扉のうち、奥から二番目の扉の前に立ち止まると、

薄い扉の向こうから、幾人かの人の気配が感じられた。

 イノリは無造作に立てた親指で扉を示す。

「それじゃあ、お手並み拝見だ。こっから先はあんたひとりで行きな。俺はそこの蔭で様子見させて貰う」

「分かった」

 頷いた泰明は、白い手を上げて、躊躇いなく扉をノックした。

「誰だ?」

「安倍泰明と申す者だ。そちらに、白川(シラカワ)という男はいないだろうか?話があって来た」

 暫しの沈黙。

 明確に漂ってくる疑惑と拒否の気配に、それみたことかと、イノリは肩を竦める。

 泰明は無表情のまま、相手の反応を待ち続ける。

 やがて、扉が細く開き、若い男が顔を覗かせた。

「白川か?」

「…いや、違う」

 相手は一瞬、泰明の美貌に驚いたものの、憮然とした口調で応え、背後を振り向いて、中にいる者と一言二言囁き交わす。

 そうして、やっと扉が大きく開かれ、泰明は部屋の内へと招かれた。

部屋の中にいたのは、三人。

先程、泰明を迎え入れた若い男と、窓際にもうひとり、同年代と見られる若い男がいる。

ふたりとも、背が高く、逞しい身体つきで、鋭い眼光は、何処かの用心棒といった風情だ。

そして、中央のテーブルに、両肘を突きながら、腰掛けている壮年の男の姿があった。

泰明は、その男を真っ直ぐに見て、確認する。

「白川だな?」

「おう。こんな薄汚いところにあんたみたいなお上品な奴が来るとは驚きだ。一体どんな用だい、お嬢ちゃん?」

「私は「お嬢ちゃん」ではないが」

 淡々と言い返すと、白川と、ふたりの若い男が馬鹿にしたように笑う。

 その挑発には乗らずに、泰明は用件を端的に口にする。

「我々の組織に助力を願いたい」

「組織?」

「そうだ。今この国を支配する軍事政権を打倒するのを目的としたレジスタンスだ」

「…何?」

 白川とふたりの男の顔から嘲笑が消える。

「我々は信頼できる同志を探している。共に、この国を変える気はないか?」

 泰明の言葉に、やや呆然として聞き入っていた白川だったが、やがて大きな声を上げて笑った。

「くそ真面目な顔をして、なかなか気の利いた冗談を言うじゃねえか!!軍事政権を打倒?国を変える?随分と大きく出たもんだぜ!」

「冗談のつもりはない」

 瞬間、白川の瞳に物騒な光が走った。

「…ッ白川さん!」

 付き従う男の一人が、制止の声を上げた時には、白川の太い腕は、泰明の襟元を掴み、細い身体を引き摺り寄せていた。

「ふざけんじゃねえよ。今のこの状況で、どうやって軍を打倒できるって言うんだ?軍の力は強大だ。

俺らみたいなちっぽけな存在が束になったって敵いやしない。夢みたいなことをぬかしてんじゃねえよ」

 凄みのある声で言いながら睨む白川の迫力ある眼差しを、泰明は揺らぐことなく受け止めた。

 白川の鈍く光る瞳に、行き場のない怒りともどかしさが渦巻いている。

「では、お前は今の生活に甘んじるというのか?」

 動じない泰明の態度と、真っ直ぐ見返してくる澄んだ色違いの眼差しに意表を突かれ、白川は思わず襟元を締め上げる手を緩める。

 次いで、泰明から目を逸らし、投げ捨てるように言った。

「そりゃあ、俺だって、今の軍に抑圧される生活を良いだなんて、決して思っちゃいねぇ。

だが、そんな大それた賭けに出て、自分の命を無駄にするようなことはしたくねぇんだよ。俺には守らなければならない家族がある」

(家族…)

 扉の外で、気配を殺して、内の様子を窺っていたイノリは白川の言葉に、僅かに眉根を動かした。

 あの男が兄を裏切った理由も、家族だった…

 思わず唇を噛むイノリの耳に、泰明の澄んだ声が入ってくる。

「…では、お前が守るべき家族のことを考えてみて欲しい。今ではなく、先のことだ。

確かに何も行動を起こさず、今の生活を続けるのならば、お前とお前の家族は生きていくことができるだろう。

しかし、どうにか生き抜いていくだけでは、幸せとは言えないだろう。お前は家族を生かすだけではなく、幸せにしたいとは思わないか?

軍の理不尽な弾圧に怯えることなく、自由に街を歩き回り、自由に笑い合える…

そんな生活を、お前の家族に、与えてやりたいと思ったことは一度もないか?」

「…!!」

 泰明の襟首を掴む手が震え、突き放すように泰明を解放する。

 目を逸らしたままの、白川を見詰め、泰明は言葉を紡ぐ。

「何を大事にするかは人それぞれだ。お前に協力を強制する気はない。ただ、許可が欲しい」

「…許可だと?」

「お前は、この街一体を取り仕切る元締めだと聞いている。この街で、我々レジスタンスの存在を伝え、同志を募る許可が欲しい。

我々の活動に共感して、命を掛けても良いと思う者もいると思うから」

 その言葉に、白川の背後にいる若い男たちが、はっと顔を上げた。

「ただ、我々が街に出入りするのを黙認するだけで良い。それほど難しいことではないと思うが…」

 暫しの沈黙が満ちる。

 張り詰めた空気に、泰明は動じないまま、相手の応えを待つ。

 すると、白川が再び大声で笑い出し、緊迫した空気が破られる。

 思わぬ笑い声に、泰明は面喰って、睫長い瞳を瞬かせた。

 しかし、その笑い声は明朗で、先ほどの嘲りの気配は微塵もなかった。

「ほそっこい見掛けの割には大した度胸だな、お嬢ちゃん。良いだろう、好きにしな」

「有難う、感謝する」

「礼を言うこっちゃねえよ。街には血の気の多いのもいるからな。探せば、仲間も見付かるだろう。

まず、ここにいる若いのが名乗りを上げるだろうよ」

「白川さん」

 白川が驚く様子の男たちに頷き掛ける。

 泰明が彼らの方を見遣ると、男たちは一瞬迷うような素振りを見せたが、やがて、しっかりと頷いた。

 泰明の細い手を掴んで、やや乱暴な握手をしながら、白川はニヤリと笑う。

「俺自身がどうするかは、まあ、もう少し時間をくれや。何せ、家族を巻き込んでの、人生最大の大博打を打つかどうかの瀬戸際だ」

「構わない。ゆっくりと考えてくれ」

 そのとき、戸口で物音がした。

 さっと緊張して、白川が鋭い眼差しを扉に投げる。

 応じて、男の一人が進み出て、懐から取り出した拳銃を片手に勢い良く扉を開け放った。

 だが、そこに佇んでいた緋色の髪の少年の姿に、白川は目を丸くする。

「何だぁ?イノリか?!」

「…おう」

 決まり悪げに挨拶するイノリに、白川は磊落に話し掛ける。

「久し振りだなあ、元気か?今までどうしてたよ?」

「…何だ、知り合いだったのか」

「ん?…てことは、嬢ちゃんも、こいつの知り合いか?」

 怪訝そうに瞬きを繰り返す泰明と、首を傾げる白川に溜め息を吐いて、イノリは面倒そうに応える。

「俺は単なる見届け役だよ、白川のおっさん。兄貴の遺言でこいつらの一人に渡したデータを、こいつらがちゃんと生かせるかどうか…

こいつらがそれだけの価値のある組織かどうか、様子を見てるって訳だ」

「…そうか、何でこんな奴が、俺たちの根城を知っているかと思やぁ、情報の出所は瀬里沢だったんだな。

あいつのことは、本当に残念だった…こんな一言では言い表せないくらいな。なあ、知ってるだろう?あの河井も殺られたんだぜ。

全く…見込みのある若いのばっかりが先に逝っちまう。近々、お前の様子も見に行こうと思ってたんだが…

思ったよりも落ち込んでねえみたいだな、それだけは良かったぜ」

「…落ち込んでる暇がねえだけだよ」

「しかし、瀬里沢がこいつの仲間に、貴重な情報を任せた、ということは、それだけ信頼に足る奴と見込んでのことなんだろうな…」

 腕組みをして、呟く白川の瞳に、思慮深げな光が宿った。

 やがて、白川は泰明に声を掛ける。

「取り敢えず、あんたにはひとまず、引き取って貰って、後で、そこの若いのを使って返事をやるよ。

けど、十中八九、悪い返事にはならない筈だから、安心しな、嬢ちゃん」

「分かった。返事を待っている」

 そう言って、微笑んだ泰明は、次いで華奢な首を傾げた。

「少し、気になっていることがあるのだが、言っても良いだろうか?」

「おう、言ってみな、嬢ちゃん」

「私は「嬢ちゃん」ではなく、「泰明」なのだが…」

 白川は一瞬呆気に取られたように沈黙する。

 次の瞬間、部屋中に割れ鐘のような大きな笑い声が鳴り響いた。

 

 

「…まぁったく!白川のおっさんは声がでけぇんだからよ、あの声で笑われたら、こっちの耳がおかしくなっちまう。

あ〜、まだ、耳がキンキンするぜ…」

 耳を押さえて歩きながら、イノリはぼやく。

 そうして、前方を歩む泰明をちらりと見遣った。

 白川は、元締め連中で、一番頑固で気性も荒い。

 協力を持ち掛けたところで、門前払いか、悪くすれば、手酷い嫌がらせをされる可能性もあったというのに…

 兄のことが最後の一押しになったとはいえ、初対面でここまで、泰明が相手の心を捉えるとは、思っていなかった。

 雰囲気からして、こうした交渉事は、苦手なように見えたのだが、そうでもなかったらしい。

 やや泰明を見直すイノリの視界に、再びあの通りが入る。

 思わず身を硬くするイノリに気付いているのか否か、こともあろうに泰明は、その通りへと入ってこうとする。

 堪りかねて、イノリは泰明に声を掛けた。

「おい、泰明!何処に行くつもりだよ?!」

 くるりと振り向いた泰明は、静かに答える。

「先ほど、白川の話にも出てきていた河井の殺害現場に行くつもりでいる」

「行って、どうしようってんだよ?」

「近くまで来ているのだ、一度はこの目で、場所を確かめておきたい。

河井はこのようなことがなければ、関わりを持てたかもしれない人物なのだ。

また、現場の何処かに、我々にとって、有用な痕跡が残っている可能性もある」

「痕跡って……」

 そんなものはないと、断言することも出来ず、イノリは足取り重く、泰明の後に従うしかなかった。

 しかし、現場が近付くに連れ、イノリの足取りはますます重くなり、ついには立ち止まってしまう。

 泰明が怪訝そうに振り返る。

「どうした?」

「…何でもねえよ」

 泰明に不審を抱かせないよう、イノリは足を速めて、泰明に追い付いた。

 そこには、造花ではあるが、美しい花束が置かれていた。

 献花のつもりなのだろう。

 それを見たイノリの胸がきしりと、小さく痛んだ。

 すると、パタパタと軽い足音がして、すぐそこの路地から走り出てきた幼い子どもが、泰明の前方に飛び込んでくる。

 そのまま、泰明にぶつかって、転びそうになるのを泰明が支えてやると、小さな少女は泰明を見上げて、にっこりと微笑んだ。

「ありがと!……おねえちゃん?」

「…いや」

 泰明を見上げて、少女が首を傾げるのに苦笑しながら、泰明は少女を立たせてやる。

「あっ、ママ!」

 続いて路地から出てきた女性に、少女は駆け寄っていく。

 その姿を見送りながら、泰明はやや憮然として呟く。

「何故、顔を合わす子どもは皆、私の性別を間違えるのだろう?」

「子どもは素直だかんな。単純に、綺麗な奴は女だって思っちまうんじゃねえの?」

 思わずそう答えていたイノリは、振り向いた泰明と目が合って、慌てて目を逸らす。

 そんな二人に、少女の母親が近付いてきて、泰明に向かって会釈する。

「すみません、この子が…」

「いや、気にするな」

 母親は微笑むと、もう一度会釈し、花束の置いてある場所に立った。

 その手には、献じられている花束と似た造花があった。

 彼女は、手にした造花を花束の中にそっと挿し、手を組んで祈る。

 幼い少女も母親の真似をして、祈る仕種をするが、すぐに飽きて、再び泰明の元に駆け寄り、纏わり付いてくる。

「ねえねえ、おにいちゃん、とってもきれえね。「まりあ」みたい」

「まりあ?」

「あのね、とってもきれえなおにんぎょうなの!!いまはおうちにいるから、みせてあげられないけど、かみがながくて、めがおおきくて…

おにいちゃんにそっくりなの!パパがかってくれたのよ!…そういえば、パパはいつかえってくるのかなぁ?

ママは、パパはとおいところにいったんだっていってた…」

 泰明の白い手をしがみ付くように両手で握り締めながら、少女は首を傾げる。

「止めなさい、ご迷惑でしょう?」

 やっと立ち上がった母親が嗜めるのに、少女はぷぅと頬を膨らませた。

「私は大丈夫だ。あれは献花か?」

「ええ……先日、ここで夫が亡くなりましたの」

「…そうなのか」

 やはり、河井の妻子だったか。

 静かだが、悲しみに満ちた声音に、泰明は目を伏せる。

 イノリは知らず、身体を硬くしていた。

 さり気なく少女の手を外させて、花束の前に進み出た泰明は、跪いて拝礼した。

 イノリは動けなかった。

 目を瞠って泰明の様子を見詰めていた河井の妻は、僅かに震える声で礼を言った。

「有難う御座います…」

「死者に対する礼儀だ」

 そう応えた泰明に悲しげに微笑み、彼女は自らが献じた花束を見詰めた。

 弱々しい声で、誰にともなく、言葉を紡ぐ。

「いつか、こんな日が来るのではないかと覚悟はしていたつもりでした。でも……」

「どうしたの?ママ!どこかいたいの?!」

震える声を詰まらせ、急に涙を溢れさせた母親に驚いて、少女が駆け寄る。

母親は首を振りながら、幼過ぎて、父の死を理解することの出来ない少女を抱き締める。

 そんな母親に、泰明は服のポケットから取り出したハンカチを差し出した。

「これを」

「…有難う御座います。でも、大丈夫です。御免なさい、いきなり分からないことを言って、泣いてしまったりして……驚かれたでしょう?」

「いや」

「ママ、だいじょうぶ?」

「ええ、大丈夫よ。さあ、もうそろそろ帰りましょう」

河井の妻は、泰明に深くお辞儀して、子どもの手を取った。

「うん!ばいばい、おにいちゃんたち!」

 母親に手を引かれた少女は、元気良く空いている手を、泰明たちに向かって振る。

 去っていく親子を、イノリは半ば呆然と見送っていた。

 

 自分は信念に従って、行動しただけだ。

 河井に家族がいることを、自分は知っていた。

 あの家族を守る為に、河井は兄を裏切ったのだ。

 その上での自分の行動を、後悔などしていない。

 

 それなのに、何故。

 何故、こうも胸が痛むのだろう?

 


to be continued
「いのやす」改め、「姫活躍す!」の巻です。 何故か、書いて行くうちに、いのやすから離れて行ってしまいました、あらら。 でも、姫の活躍を書けたので、それはそれでいっか〜♪と満足な私(笑)。 ですが、いのやすをご期待くださった方は、すみません(汗)。 イノリ、何だかいっぱいいっぱいで、この分だと、やっすんのことは気になっているものの、 ラブモーション(笑)を掛けるどころか、ラブの自覚すら出来ない状態が当分続きそう(苦笑)。 イノリは、恋愛を敬遠しがちなイメージがあるので、それはそれで自然な流れなのかも? 今回の姫の活躍は、やや頭脳プレー寄り?な感じで。 要求を押し付け過ぎずに、冷静に相手の望みを見抜くのが説得のポイントです。 …と、きっと、友雅氏辺りに教わったのでしょう(笑)。 でも、それがちゃんと成功するのは、やっすんが無垢な心でひとを見るが故!ということでひとつ♪ back top