Blue ~glass~
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泰明のもう一つの名を叫ぶと同時に、室長は懐から拳銃を取り出した。
室長が現れた扉に最も近いところに泰明がいたのが災いした。
友雅が相手の武器を弾き飛ばそうと銃を構える間もなく、銃口の照準は真っ直ぐに泰明へと合わせられてしまう。
最早、下手に動くことは出来ない。
友雅は密かに己の迂闊さに歯噛みした。
一方、銃口を泰明に向けたまま、室長はじり、と一歩進む。
「翡翠色の髪。色違いの瞳…間違いない。お前がアズラエルだな。
一度は逃げ出した研究所にこうして舞い戻ってきたのはどういう訳…」
問い掛けながら、また一歩泰明へと近付いた室長は、
傍らで作動し続けるコンピュータへと視線を向け、瞬時に表情を強張らせた。
「まさか…まさかお前は…!」
驚きと怒りに見開かれた目が泰明へと向けられる刹那、コンピュータから高い電子音が鳴り響いた。
「模造天使データ消去完了致シマシタ」
機械的な声に、室長の表情が凍りつく。
一方で、泰明は小さく息をついた。
こうして目的を達したならば、ここに長居は無用だ。
脱出するには目の前の相手を片付けなければならないが、相手の武器の構え方を見る限り、
武器の扱いに関しては泰明の方が上だ。
しかも、相手は動揺している。
例え、相手の照準に捕らえられていたとしても、切り抜けることは可能だ。
冷静に相手の能力を計り、動き出そうとした泰明。
しかし…
「おのれ…!兄の命ばかりでなく、貴重な研究データまで!!」
凄まじい形相で発せられた相手の怒号に、身体が動かなくなる。
兄ノ命。
「泰明!!」
怒りに燃える室長が銃の引き金を引くと同時に、友雅も銃を撃ち放すが一瞬遅かった。
室長の銃から放たれた弾は、凍りついたように立ち尽くす泰明へと向かう。
友雅の銃に手を撃たれ、構えた銃を取り落とす室長が苦痛と怒りの声をあげるのを正面に見ながら、
泰明は自分の身体が弾丸に打ち抜かれるのをただ待つしかなかった。
その刹那。
視界が反転し、泰明は己の身体が床に引き倒され、大きな身体に庇われていることに気が付いた。
頬に振り掛かる藍色の髪。
銃弾が掠ったものか、目の前の黒い軍服の腕には目立たないながらも血が滲んでいる。
「…失礼しました」
強く抱いていた泰明の華奢な身体から腕を外し、身を浮かすように離れた頼久が、
それとなく泰明の視線を避けるように目を伏せて、ひとことそう言う。
その仕種に見覚えがあるような気がして、泰明は横たわったまま僅かに細い眉を寄せる。
瞬時に脳裏に蘇ったのは、この研究所にある射撃場でのこと。
彼はあのときも射撃演習の邪魔をしたからと、このように目を伏せて同じ言葉を口にした。
そんな些細なことを、何よりも己に対して謝罪するとは珍しい人間もいるものだと思った。
「…そうか。お前はあのときの…」
泰明の呟きに、頼久は伏せていた目を上げる。
横たわったままの色違いの瞳と目が合った。
その澄んだ瞳には、今までとは違う光がある。
自分のことを思い出してくれたのだ。
それだけで胸に光が差し込んだような気持ちになるのは、何故だろうか。
出遅れたことに内心舌打ちしつつ、泰明が無事なことを確認した友雅は、
撃たれた手を抑える室長へ油断なく銃を構え直した。
「これ以上、泰明に何かしようものなら容赦しないよ」
「…何故だ?!何故、アズラエルを庇う?まさか知らぬ訳ではないだろうな!あれはただの殺人人形だぞ!!」
「「ただの」と言う割にはそちらも随分と彼に拘っているようだがね?」
「当たり前だ。あれは私の兄を殺したのだぞ!!」
頼久の手を借りて立ち上がった泰明は、息を呑む。
兄の命。
先程泰明の動きを封じた室長の言葉が蘇る。
「お前は知っているか?この研究所から逃げ出す際に、アズラエルは命令外の殺人を行ったのだ。
その場にいた軍人、研究員を皆殺しにしたのだぞ。そこに…兄もいた。殺人現場は床一面血の海で…凄惨だった。
どうして許すことができよう?兄は道具に過ぎないものに命を奪われたのだぞ!!…それは人間としての尊厳を奪う死だ!
何故兄がそんな死を迎えなければならない?!何故、こんな壊れた人形に殺されなければならない?!!」
室長はぎり、と泰明を睨み据える。
彼の言葉に友雅は眉を顰めた。
随分と勝手な言い分だ。
彼の兄と仲間の研究者たちは、泰明の生みの親である安倍博士を殺した。
彼の主張が、自分たちの都合とは異なる…それだけの理由で。
泰明はただ、その父の仇を打っただけに過ぎない。
自分たちの都合だけで尊厳あるひとの命を奪った者が、見返りとして、同じくその命を失っただけのことだ。
それは、彼らが安倍博士を殺さなければ起きなかった事態でもある。
室長の主張は彼ら自身の所業を棚上げした逆恨みに過ぎない。
何よりも…
「泰明は道具ではないよ。私たちと同じように動き、話し、生きている。そして、私たちと同じ尊厳を持っている」
そう告げたところで、ひとに従うべき道具である筈の模造天使が、彼の兄を殺すのみならず、
その兄のひととしての尊厳まで傷付けられたのだという室長の義憤めいた主張を、曲げることはできないだろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
室長の叫びを前に、立ち竦んでしまったかのような泰明の様子が気になった。
きっと、泰明は自分の殺した人間の関係者から、このように真っ直ぐな憎悪をぶつけられたのは初めてに違いない。
できるものなら、傍へ行って今、彼がどんな顔をしているのか確かめたかった。
しかし、実質的に追い詰められ、何をするか分からない室長から目を逸らすことはできなかった。
一方、頼久は、自然に泰明を守るような形で、室長の叫びを聞くことになった。
彼が兄を失った、その憤りは分かる。
しかし、彼の頑ななまでの主張と泰明への罵りの言葉は、頼久を不快にさせた。
室長のあからさまな侮蔑と敵意に晒された為か、傍らに佇む泰明の身体が僅かに震えている…その気配が伝わってくる。
確かに彼は室長の兄を殺したのかもしれない。
しかし、それには相応の理由があったに違いないのだ。
脳裏に、殺めてしまった者に対して、彼が僅かに見せた痛ましげな表情が蘇る。
そこに偽りはなかった。
激しく糾弾され、震えを隠せない今の彼の様子にも。
そんな彼を「壊れた人形」だなどと…
「源曹長!!何を突っ立っている?!このふたりは紛うことなく侵入者だぞ!!
貴方も軍属の者なら、その使命を果たせ!その隣の人形を抑えるのだ!壊しても構わん!!」
声を限りにわめき散らす室長。
だが、それでも頼久が動かないことが分かると、室長はいよいよ追い詰められた態となった。
撃たれた手からは止め処なく血が流れ、額に脂汗が浮かんでいる。
「くそうっ…!!」
失血の為か、或いは怒りと焦燥の為か、どす黒く染まった凄まじい形相で、
彼は傷付いていない方の手で懐から何かを取り出した。
掌で包み込める程度の、小さなボタンのような装置。
止める間もなく、室長はそのボタンを押した。
途端、地響きのような音と共に、鋭い警告音が鳴り響き始める。
次いで地中から爆発音が響き、部屋を、いや、研究所全体を揺らした。
明らかな非常事態に揃って顔を強張らせた三人とは対照的に、室長は愉快そうに、何処か狂ったように笑う。
「この研究所は、予め建造物の土台には全て起爆装置を仕掛けてあるのだ。
万が一の場合には、証拠が残らぬよう研究所自体を跡形もなく消し去ることができるように。
お前たちのような侵入者諸共にな!!」
緊急事態に我を取り戻した泰明が、素早く動く。
「私が抜け道を知っている。そこを使えば、建物が崩れる前に外へ出られる筈だ」
「では、急ごう。すまないが、泰明、案内を」
それに頷き、先導して走ろうとした泰明は、しかし、もう動くことのできない室長の前で立ち止まった。
「お前はどうする。ここからどのように脱出するつもりだ」
「…この非常時に敵の心配をしてみせようというのか?安倍博士も余計な機能を付けてくれたものだ。
或いは、潜入型の暗殺用アンドロイドには、必要な機能なのか?ああ…そうではないか。お前は既に壊れているのだから」
息を乱しながらも、嘲る調子で室長は言葉を紡ぐ。
「私は研究室長に任じられ、あの爆破装置を渡されたときに、いざというときは軍の極秘情報を守る為、研究所諸共、
命を捨てるよう厳命されてきたのだ。もとより脱出の方法などない。私もここに残る全所員も名誉ある死を迎えるのみ。
例え、抜け道を知っていたとて、お前たちもここから脱出はできまい」
「いや、私たちは必ずここから脱出する」
「軍の庇護なしにこれからも、存在し続けようという訳か。正しい判断力を失った人形らしい応えだ。
できると思うならやってみるがいい。軍の力を侮るな。例え、今逃げ出せたとて、いずれお前は軍に処分される。
…いや、もしかしたら、お前が完全に壊れきるのが先かもしれないな」
もう体力の限界なのだろう、声には力がないが、それを補って余りあるほどの毒を込めた言葉を、室長は泰明に浴びせた。
そうして、青褪めている泰明の背後にいる友雅らを見渡し、嘲笑した。
「お前たちもいずれ、私の兄のように壊れきったアズラエルに殺されるだろう。どんなに大事に庇ったとて意味はない。
これは、ひとを殺す術しか知らぬ殺人人形なのだから!!」
パン、と乾いた音がして、室長の言葉が永遠に途切れた。
頼久だった。
これ以上、泰明に対する侮蔑の言葉を聞いているのは我慢ならなかった。
気付けば、足元に落ちていた室長の銃の引き金を引いていた。
「猶予はありません。お早く」
「分かっている」
至極尤もな言葉に、まだ、血の気の失せた顔色のまま、泰明は頷いた。
早くしなければ、せっかくの抜け道さえ、崩れ落ちる瓦礫で塞がってしまうだろう。
ただ、去り際に上着を脱いで、それを室長の亡骸に被せた。
何のつもりでそうするのか、泰明自身にも分からなかったが、そうせずにはいられなかった。
地響きと共に、堅固に見えた建造物は見る見る間に、その形を崩していく。
崩壊と瓦礫の降り注ぐ音に紛れるように、逃げ遅れた者たちの悲鳴が聞こえた。
それを背後に聞きながら、泰明は通路を走り抜ける。
強く唇を噛み締める。
泰明の後に、友雅、頼久が遅れず続いた。
ふと、友雅がちらりと、頼久を顧みた。
その瞳に問いを投げられたように感じ、頼久は知らず手にしたままの銃を握り締める。
流されるままに、彼らに付いてきたが、自分は果たしてどうするつもりなのか。
ここから脱出して、彼らと共に行くのか。
軍と決別して?
それとも、ここに留まるか?
もとより、侵入者を捕らえるという指令を果たせなかった自分だ。
その責を負って、室長のようにここで死を選ぶべきではないのか。
長く、軍の下士官として生きてきた自分の思考は、そうするべきだと心に働き掛けてくる。
合流することの叶わなかった部隊の仲間たちの姿が脳裏を過ぎった。
そして……
翡翠色の髪を揺らめかせるひとの、澄んだ瞳が。
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